フォーチュンクエスト二次創作コーナー


トラパス バトルロワイヤル編 4

 どれだけ揺さぶっても、クレイは二度と目を開けようとはしなかった。
 わたしの手の中で、彼の手が……わたしをずっと守ってくれた大きな手が、段々と冷たくなっていくのが、わかった。
 クレイが、死んだ。
「っ……ふっ……」
「…………」
 とめどなく溢れてきたのは涙。それを拭うことも忘れて。わたしはただ、クレイの手を握り締めていた。
 彼だったのに。
 ノルを、ルーミィを殺したのは彼だったのに。
 自分が助かるため。そんなひどく身勝手な理由で二人を手にかけて。トラップを殺そうとして。
 そして最後には、わたしも殺そうとした。そんな相手なのに……
「クレイっ……」
「…………」
 泣くわたしの傍らに、トラップがしゃがみこんだ。
 彼の目に、涙は無かった。けれど、どうしてだか……
 彼の顔を見たとき。わたし以上に彼が悲しんでいること。それが、痛いくらいに、わかった。
「トラップ……クレイ、クレイ、がっ……」
「ああ……」
「わたしっ……クレイ、わたしを、殺そうとして……なのに、わたしを、助けようとしてっ……」
「……ああ……」
「何でっ……」
 ぽん、と、大きな手が、頭に乗せられた。
 見上げると、ひどく優しい、明るい茶色の瞳が、わたしを見下ろしていた。
「トラップ……」
「優しい奴だった」
「え?」
「おひとよしで……すげえ馬鹿な奴で……優柔不断で……」
「…………」
「だけど、すげえ優しい、いい奴だった……」
「トラップ……」
 もしかして、彼は……何か、知ってるの?
 わたしが失った記憶。どうしてこんな場所にいるのか。どうして、彼らと一緒にこの屋敷に閉じ込められたのか……
 トラップは……何かを、知ってるの……?
 彼の口調は、まるで……
「トラップ……あなた……クレイを、前から、知って……」
「さあな」
「だって……」
「わかるんだよ」
 わたしの言葉を遮って、トラップは、ぎゅっと、わたしの手ごと、クレイの手を握った。
「きっと、こいつはそんな奴だった。俺とこいつは親友で……こいつのことなら、何だって知ってたに違いねえ、って……」
「…………」
「俺には、わかる」
「トラップ……」
 彼の言葉に、どうしてか、素直に頷くことができた。
 本当にそうなんだろうと、何となく思った。
 そうだ。きっと……そうに違いない。
 クレイはきっとトラップが言う通りの人で。彼らは、誰にも割り込む隙間の無い親友同士で……
 それは、きっと……わたしも……
「トラップ……」
「行くぞ、パステル」
 わたしの言葉を遮って。トラップは、そっとクレイから手を離して、立ち上がった。
 彼の表情に、もう悲しみは浮かんでいなかった。それは、悲しみを忘れた、という意味では、決して無いんだろうけれど。
「行くぞパステル……」
「どこに……」
「何、寝ぼけたことを言ってやがる」
 わたしを貫いたのは強い強い視線。その瞳に宿っているのは、あまりにもあからさまな、怒り。
「あのふざけた野郎を、ぶっとばしに行くんだよ」
「……トラップ……」
「俺はあいつを許さねえ」
 ぐいっ、と、手を引かれた。
 立ち上がると同時、腕をつかまれた。有無を言わせない、そんな力で。
「あいつだけは……絶対に、許せねえ……」
「トラップ」
 復讐が正しいことだとは思わない。
 やられたからやり返す……そんなことを繰り返していたら、いつか、自分の周りには敵しかいなくなってしまう。
 それはわかっていても。
「うんっ……」
 トラップの言葉に、頷かずにはいられなかった。
 あの人だけは。
 わたし達をこんな状況に放り込んで、それを見て笑って楽しんでいるあの人だけは……
 絶対にっ……
「行こう、トラップ!」
 頷いたわたしに満足げに目を細めて、彼は、その場から背を向けた。
 クレイの遺体から視線をひきはがすように。その場に彼がいるということ。それを忘れようとするかのように。

 それが全ての間違いだった。気づいたときには、既に遅すぎたけれど。

 ガランッ
「…………え?」
 背後から聞こえたのは、そんな音だった。
 トラップにつられるようにして、クレイに背を向けて。重たい静寂だけが立ち込めるこの場を、早く離れようとして。
 そんなわたし達の耳に届いたのは、あまりにも微かな……
 けれど、はっきりと耳に届いた……!!
「トラップ!?」
「…………っ!!」
 その音は、トラップにも聞こえたんだろう。
 声をかけようとしたわたしよりも一瞬早く、トラップは振り向いた。
 鋭い視線に息を呑む。彼の視線の先にあったのは、クレイの遺体と瓦礫の山……
 ただ、それだけ……
「……えっ!?」
 その瞬間、わたしは気づいた。
 何かがおかしいということに。
 ……そう、言えば……
 彼は、いつの間にっ……いつから……
 どんっ!
「トラップ!?」
「げふっ!?」
 肩を押されるた瞬間、うめき声が漏れた。
 よろめくようにしてトラップが離れると同時、彼がおかしな声と共に、床に膝をついた。
 一瞬後、その胸から吹き出したのは、冗談かと思ってしまうような、血の奔流。
 何が起きたのか……何が起きようとしているのか。
 トラップの血を浴びながら。わたしは、その場に立ち竦んでいることしか、できなかった。

 まるで夢を見ているようだった。
 視界を遮った赤い奔流。それが何なのか。既に嫌というほど見慣れていたはずなのに。どうしても……信じることが、できなかった。
「と……とらっ……ぷ……?」
「っ……来る、なっ……」
 ゆらり、と一歩踏み出したのは、半ば反射的な行動だった。
 けれど、そんなわたしを、トラップは鋭い目で睨みつけて。
 そうして、ギラリ、と……身を引きたくなるくらいに鋭い視線で、前を見据えた。
「おめえ……生きて、いたのか……」
「…………」
 トラップにつられるようにして、前を向く。
 そこにあるのは瓦礫の山だけ……に見えた。けれど、それだけじゃないことはわたしにだってわかった。
 そこにいるはずだから。トラップをこんな目に合わせた人が。
 今、トラップがひどく傷ついているのは……何もかもその人のせいなんだと、わかっていたから。
「キットン」
 トラップの言葉が響くと同時、ガランッ、という音とともに、瓦礫の一部が崩れた。
 そうして、そこからのっそりと立ち上がったのは……わたしよりもずっと背が低い、ボサボサ頭の、何を考えているのかわからない人……
 キットン。
「一撃では……駄目ですか。やはり、使い慣れない武器は駄目ですね。いや、多分私は、もともと戦闘要員じゃないんだと思いますけど」
 ひょうひょうとしたその口調に、あまり悪びれたところは感じられない。
 けれど、彼の手が……武器を構え、まっすぐにトラップに向けているその手が、ぶるぶると震えていることに、わたしは気づいていた。
 彼も、怯えている。もちろん、だからと言って……彼がしていることを、認める気には、なれないけれど……
「……ぬかった。まさか、おめえにしてやられるなんて……それだけはありえねえって、そう思っていたのに……」
「あまりしゃべらない方がいいですよ、トラップ。その出血は致命的です。しゃべると余計な体力を消費します。……死にますよ?」
「殺すつもりで俺を撃ったくせして、次は命の心配か? おめえも……忙しい、奴……だな!」
 ごほっ!!
 叫んだ瞬間、トラップの口元から血が溢れ出た。
 けれど、彼はそれに一切構おうとせず。乱暴に口元を拭うと、自分の胸に突き立ったものを……彼の命を奪おうとしているものを、無造作に引き抜いて、投げ捨てた。
 小さな、矢。そして、キットンの手に構えられているのは……クロスボウ。
 あのクロスボウ……どこかで、見たような……?
 不意に、そんな場違いな感想が浮かんだけれど。それに答えを見つけることはできなかった。
 そして、答えを見つけたところで意味のないことだというのもわかっていた。
「キットン……何で……何、でっ……」
「動かないでくださいよ、パステル?」
 歩み寄ろうとした瞬間動けなくなった。
 トラップからわたしへと、ターゲットをうつして。そうしてじぃっとこちらを見据えるキットンの目に、射抜かれて。
 彼のやっていることは冗談じゃない。それが嫌でもわかって。
「言ったでしょう? 私は助かりたいんだと。まだまだやりたいことがいくらでもあるんだと」
「……キットン……」
「できれば、こんなことはしたくなかったんですよ。だけど、仕方がないじゃないですか。他に方法が見つからなかったんだから」
「…………」
「どうしても駄目だったんですよ。あらゆる知恵を絞ってみました。けれど、どうしても見つからない。あなた方を殺す以外には」
「…………」
「それ以外に私が助かる方法は無い。それがわかったから。だから、こうすることに決めたんですよ」

 ひゅっ!!

 微かな音が響いた。
 それがクロスボウが発射された音なんだと、理解するまでに長い時間がかかった。
 けれど、その矢はわたしにぶつかることはなかった。ぶつかりそうになる寸前、その前に遮るものが現れたから。
「トラップ!?」
「ぐっ!!」
 どすっ……
 とんできた矢を、自分の掌で受け止めて。
 トラップがあげたのは、苦痛の悲鳴。
 神経が麻痺したみたいだった。何が起きたのか、何をすればいいのか、さっぱりわからなかった。
 動くことすらできない。そんなわたしを背後に庇うようにして、トラップは、ぎらり、と、キットンをにらんで……一歩、前に踏み出した。

 どすっ!

 次に矢が刺さったのは、緑のタイツに包まれた細い脚。けれど、それでも……彼の歩みは、止まらない。
「トラップ!」
「……馬鹿……」
「トラップ!?」
「キットン……てめえは……馬鹿、だ……本当に……とんだ……」
「っ…………」
 どれだけ矢が刺さっても。どれだけ血が流れても。それでも、トラップの脚は止まらない。
 キットンの顔から血の気が引いた。その迫力に負けたかのように、一歩、後ずさって。
 瓦礫の山に、背中を、預けた。
「馬鹿、だ……おめえは……どうせ、この床崩したのも……クレイ、殺したのも……てめえの、仕業だろ……」
「ひっ……」
「本当にっ……てめえは、大馬鹿野郎、だっ……」
「うわあああああああああああああああっ!!?」
 ゆらり、と、トラップの手が伸ばされた。
 矢が刺さったままの、血塗れになった手。それを目に映した瞬間、キットンの表情に走ったのは、明らかな恐慌の色。

 トラップを止められなかった。キットンを止めることもできなかった。
 それをどれだけ悔やんだところで、どれだけ自分が無力だったのかを悟ったところで……もう、何もかも、手遅れ……

 どすっ!!

 悲鳴と同時に、再び鈍い音が響いた。その瞬間、弾かれたように、トラップの身体が崩れ落ちた。
 わたしの視界にとびこんできたのは、鮮血に塗れたトラップの身体。クロスボウを抱え込んだまま、ただひたすらに震えているキットンの姿。

 頭の中で、何かが、ぶっつりと切れた。

 トラップが倒れた。あんなに血に塗れて。あんなに苦しそうな顔をして。
 彼が、死んだ。

「キットン――!!」

 他に何も考えることができなかった。何をしようという明確な考えもなかった。
 ただ、何もかも奪ってしまった彼のことが……
 キットンのことが、ただひたすらに、憎かった。

 わたしは、きっと、誰かをこれほど憎んだ経験は一度も無いと思う。
 初めて抱いたその感情は、重くて、苦くて、吐き気がするほどに苦しかった。
 目の前に迫るキットンの顔。わたしを見る目に浮かぶ感情は、一言で表せば……恐怖。
 悲しかった。キットンにそんな目で見られること、そんな表情をさせていること。全てが悲しかった。
 自分が今どんな表情を浮かべているのか。想像することすら怖かった。
 けれど、わたしの胸に溢れる激情は、収まる様子が全くなかった。

 許せない。

 トラップは言った。「床を崩したのはキットンだ」と。
 確かにあの突然の崩壊はおかしかった。いくらこの屋敷が古いとは言っても。あんなに簡単に床が抜けるなんて、普通は考えられない。
 あれだけ見事に崩れた床の上にいたキットンが、ほとんど無傷で立っている、ということは、余計に考えられない。
 爆弾か何かを使ったのかもしれない。それなら、あの突然の崩壊も納得がいく。
 そして、そのせいで、クレイは死んだ。
 わたしに、とびっきりの笑顔を残して。わたしの命を助けて、彼は死んだ。
 そして、今。
 わたしを守ってくれたトラップを……全ての真相を知りながら、決してそれをわたしに伝えようとはしなかったトラップを。
 彼は、いとも簡単に……
「キットン――!」
 何もかもうまくいくはずだったのに。
 きっと、クレイだって話せばわかってくれたはずなのに。
 キットンさえ、彼さえいなければ。
 「自分が助かるために他人を犠牲にしても構わない」……そんなことさえ考えなかったら!
「パステルっ……」
「きっと……」
 がしっ!!
 駆け寄って、そうして何をしようとしたのか。
 それを考えていたわけじゃなかった。けれど、きっと、今のわたしなら……
 理性的な判断ができなくなっている今なら、キットンを傷つけることも厭わなかっただろうと、そう思う。
 けれど、わたしはそれを実行に移すことはできなかった。
 走り寄った瞬間、足首を何かにつかまれた。
 全力疾走したわたしの全体重を受け止める、強い、強い力。そして、その突然の抵抗に、わたしは対抗することができなかった。
 身体が揺らぐ。そんなわたしを見て、我に返ったようにキットンが身を翻したけれど。崩れた瓦礫の山が、彼の動きを阻んだ。
 そして。
「っ…………」
 びたんっ!! とみっともなく顔から床につっこむわたしを無視して。
 わたしの足首をつかんだ「何か」が、ゆっくりと立ち上がった。
 ぼたり、ぼたりと。床に赤い染みが広がっていく。
 その髪の色が、本来の色なのか、あるいは流れる血に染められたものなのか。それすらも、既に区別がつかなくなっている。
 トラップが。キットンにひどく傷つけられたはずの彼が。
 今、キットンの前に立ちはだかるように……わたしの前に、立っていた。
「……トラップ……」
「…………」
 息が荒い。血が止まらない。その顔色は、土気色を通り越して蒼白になっている。
 もう長くないだろうことは、致命傷なんだろうことは素人のわたしでもわかった。それでも、彼は立っていた。
 ひどく優しい目で、わたしを見下ろして……
「トラップ……?」
「……こんな、馬鹿のために……」
「え?」
「おめえが、手を汚すことは、ねえ……」

 それはどういうことなのか、と聞く暇すらなかった。
 その怪我でどうして動くことができたのか。聞いたところで、彼にだって答えることはできないだろう。
 わたしを押しとどめるようにして、彼は、くるりと振り向いた。自分を傷つけたキットンを、ひどく冷たい目で見下ろして。
 逃げようともがいたキットンの動きはあまりにも鈍かった。怪我をしたトラップですら、簡単に捕まえられるくらいに。
「うっ……」
「…………」
 響きかけた悲鳴は一瞬。目の前でスローモーションのように動くその光景を、わたしは、ただ、ぼんやりと眺めていることしかできなかった。

 手を汚すな。それがどういうことなのか、悟ったときには、全てが終わっていた。

「……トラップ……」
「…………」
 荒い息をついて、トラップが膝をついた。
 彼の足元に倒れているのは、ぼさぼさ髪の、背の低い男性。
 わたしが、今まで唯一本気で憎むことができた、男性……
 瓦礫の山に叩きつけられた頭から流れるのは、トラップが流しているのと同じ、赤い液体。
 じわりじわりと床に染み込むそれらを眺めた後。わたしは、ゆっくりと視線をそらした。
 胸のうちにわきあがってきたのは複雑な感情。彼がこうなってしまうのは当然なんだ、という醜い思いの傍らで。
 それと同じくらいに大きく膨れ上がったのは、「悲しい」という、ただそれだけの……
「……トラップ……」
「…………」
 どさり、という鈍い音と共に、トラップは、瓦礫の山にもたれかかった。
 全身から力が抜けていた。その表情に浮かぶのは、「何かをやり遂げた」と言いたげな、満足感……
「トラップっ……」
「これで……」
「え?」
「これで、誰も……」
「…………」
「おめえを傷つける奴は、いなくなった」
「…………」
 手を伸ばした瞬間、優しく振り払われた。自分に触れるな、という目でわたしを睨んで。彼は、ゆっくりと後ずさった。
 少しでもわたしから離れよう、と。そう言いたげに……
「トラップ……」
 どうして。
 人を殺したクレイを、彼は本気で怒っていた。
 誰よりも人を殺すことにためらいを覚えていたのは、この「ゲーム」を心底憎んでいたのは彼だった。彼のはずだった。
 その彼が、どうしてっ……
「トラップ! 何でっ……」
「…………」
「何で、こんなっ……」
 何で、そんな顔をしているの。
 何で、そんな……何もかも終わったって、そんな顔をしているの?
 終わってない。何も終わってないんだよ……
 わたし達には、まだまだやらなきゃならないことがいっぱいあるんだよ?
 あの黒マントの人を見つけ出して……この屋敷を脱出して。
 そうして、わたし達がいたはずの本来の世界へ戻る、っていう……大きな仕事が、まだあるんだよ……?
 トラップ……
「俺は、もう助からねえ」
 わたしの言いたいこと、叫びたいことを一目で悟ったんだろう。
 トラップの答えは、簡潔だった。
 長く話しているのが辛いんだろうということすら、今のわたしには、思い当たらなかった。
「もう助からねえ……おめえ、一人で……」
「トラップ……」
「おめえには、死んで欲しくねえ……綺麗なままで、このくそったれなゲームを終わらせて欲しいんだよ!」
 血と共に吐き出されたのは、心の底からの、トラップの本音。

 わたしの膝の上で、彼の頭は、力を失って崩れた。
 真っ青になった頬と、冷えた身体。どれだけ声をかけても、どれだけ揺さぶっても。彼は、目を開けようとはしなかった。
 それは、どういう意味なのか。頭の片隅では理解していても。わたしは、認めることができなかった。
 認めたく、なかった。
「と……らっぷ……?」
 耳に残るは、自分の全てを振り絞ってわたしに告げてくれた、彼の言葉。
 幻聴なんじゃないか、と。一瞬そうも思ったけれど。
 彼の真面目な顔を見てしまったら、真摯な言葉を聞いてしまったら。そんなことは、考えられなくなった。
 トラップ、が……?

 ――パステル……――

 そっと、自分の唇に触れる。緊張しすぎたせいか、噛み締めすぎたせいか、かさかさに乾いてしまったその場所。
 指でそっとさすってみる。ざらり、とした妙な感触と柔らかさが、わたしの指をゆっくりと押し戻した。
 指を離す。目の前にかざす。触れたその指を彩っているのは、乾きかけた、赤い液体。
 綺麗な赤とはいえない。どす黒くて、ねばねばしていて。鉄臭いような、妙な味がする液体……
「トラップ……」
 わたしの唇を彩った赤と同じ赤で、自分の口元を汚して。
 トラップは、もう、動かない……

 ――おめえは、綺麗なままでいろ――
 ――こんな風に出会わなければ。キットンだって、好きでこんなことをやったわけじゃねえ……おめえに、「離れろ」って叫んだの、覚えてるか――
 ――クレイから離れろって。おめえを守ろうとしたの、覚えてるか――
 ――憎むんじゃねえ。おめえはそんな女じゃねえ。おめえは、綺麗なままで……真っ白なままで……――
 ――汚れるのは、俺だけで十分だ――
 ――パステル――
 ――俺は――

「あ…………」
 「その言葉」を告げて。わたしの唇を、自分で流した赤い液体で彩って。
 そうして、トラップは、力尽きた。
 最後の最後までわたしを守ろうとして……自分の命を、犠牲に、して……?
 な、んで……
 何で? トラップ……何で、そんな……
 わたしと、あなたは……一体、どういう関係だったの……?
 失った記憶……あなたは、それを取り戻していたの?
 わたし……もしかして……
 これで、本当に、一人ぼっちに……?
「い、や……」
 館を脱出したい、と願ったのは何でだったんだろう。
 わたし達をこんな状況に放り込んだあの黒マントの男性を「許せない」と思ったのは何でなんだろう?
 彼らと一緒に元の世界に戻りたかったから。
 ノル、ルーミィ、クレイ、キットン……そして、トラップと。
 みんなと一緒に帰りたかったから……!
「何でっ……何で? わたし、一人で、どうしろって……何で、なの……!」
 胸に宿った憎しみも、今はすっかり霧散してしまっていた。
 それはどうでもよくなったってわけじゃない。ただ、その憎しみをばねに行動するだけのエネルギーが、わたしには残されていなかっただけ。
 わたし一人で何ができるって言うんだろう。
 戦いの力も持っていない。知恵も持っていない。行動力も、何も……
 例えどうにかできたところで。一人で元の世界に戻って……それから、どうすればいいの?
 教えて……
 誰か、誰か教えて……わたしはそんなに強くない。一人でだって生きていけるなんて……そんな風に言えるほど強くないっ……!!

 そのときだった。

「おねえしゃんが、『勝者』デシか?」
「……え……?」

 ひどく場違いな声が、その場に響いた。
 血生臭いその場所に似つかわしくない、高く済んだ、とっても綺麗な声。
 振り向く。そこに座り込んでいたのは、つぶらな黒い瞳と、長いふわふわの毛を持った、とっても小さな……
「い……い、犬?」
「犬じゃないデシよ? パステルおねえしゃん」
 ぱたぱた、と尻尾を動かして。
 その、犬にしか見えない……けれど、決して犬ではありえない白い小さな動物は、にっこりと笑って、わたしの方に駆けて来た。
 その場に倒れた、キットン、クレイ、トラップの身体に目をやって。一瞬だけひどく悲しそうな表情を浮かべたけれど。
 わたしの手の中にとびこんできたとき。彼の表情に浮かんでいたのは、満面の笑顔だった。
「おめでとさんデシ!!」
「お、おめで……え?」
「おねえしゃんが『勝者』デシ! 僕がおねえしゃんを『ラスボス』のところまで案内するデシ。ついてきて欲しいデシ!!」
「え、え、え……?」
 彼の言っていることは、わたしには意味不明にすぎて。まともな返事をすることができなかった。
 確かなことは……こ、この、とっても可愛いわんちゃんは、わたしのことを知っていて。
 そうして……「ラスボス」のところへ案内してくれる……つまり……
 あの黒マントの人を、知っている……?
「わ、わんちゃん! あなた誰? 一体何者……? ねえ、教えて! 一体何なの? これ……これはどういうことなの? 『勝者』って……!」
「お、おねえしゃん、おねえしゃん、落ち着いてくださいデシ!!」
 ぎゅううううっ! と首を締め上げるようにして詰め寄ると、ワンちゃんは苦しそうにもがいたけれど。わたしは、手を緩めようという気にはなれなかった。
 だ、だって! だってだって……
 このワンちゃんの表情……お、おかしいよっ……
 何で、そんな風にして笑っていられるの? トラップは、死んだんだよ……
 クレイも、キットンも……ルーミィも、シロちゃんも……
 みんな、みんな……あの、黒マントの人のせいで、死んだんだよ……
 わたしが、『勝者』? 違う。わたしは勝ってなんかない。
 わたしは誰にも勝てなかった。最後の最後までみんなに守られて……何も、何もできなくて……!
 そんなわたしが、勝者なわけっ……
「わんちゃん。ねえ、教えて……どういうこと、なの……あなた達、何が目的でっ……一体、何がっ……」
「お、おねえしゃんっ……」
 ぼろぼろと涙を零すわたしを見て、彼は困惑したような目でわたしを見つめていたけれど。
 やがて、ぽん、と。長い毛で覆われた手で、わたしの頬に触れて。
「僕の名前は、シロちゃんデシ」
「……え?」
「そう呼んで欲しいデシ。おねえしゃんに、そう呼ばれたいデシ」
「…………シロ、ちゃん?」
 シロちゃん。
 その名前が、どうしてか、胸の中でぴたりと収まった。
 目の前の不思議な彼に名前をつけるとしたら、きっとわたしはその名前しか浮かばなかっただろう。
 どうしてだか、そんな風に思えて。
 どうしてだか……「敵」の立場であるはずの彼が、急に、ひどく、愛しく思えて……
「シロちゃん?」
「ついてきて欲しいデシ、おねえしゃん!」
 ぴょん、とわたしの腕の中からとびおりて。
 シロちゃんは、ぱたぱたと尻尾を振りながら言った。
「僕についてきて欲しいデシ! そうしたら、おねえしゃんはもう泣かなくても大丈夫デシ!」

 胸のドキドキは、いつまで経っても収まりそうになかった。
 わたしの前を颯爽と走って行くのは、犬に見えるけど犬とは思えない、不思議な生き物。
 シロちゃん……背中に小さな羽根が生えた、頭に小さな角が生えた、人間の言葉をしゃべるとっても不思議な……
「パステルおねえしゃん?」
「あ」
 どうかすると足が止まりがちになるわたしを不思議に思ったのか、少し先に進んだところで、シロちゃんはピタリと足を止めた。
 じいっとわたしを見つめるつぶらな黒い瞳。小首を傾げている姿は、とってもかわいらしい。思わず抱きしめたくなるくらいに。
 彼が……あの、黒マントの人の、仲間?
 わたし達の、敵?
「ねえ……ねえ、シロちゃん?」
「何デシか?」
 そっと手を伸ばすと、シロちゃんはためらいなくわたしの腕の中にとびこんできた。
 ぎゅうっと抱きしめる。柔らかくて暖かい感触が、どうしてか、心を落ち着かせてくれた。
 わたし……初めてじゃ、ない?
 前にもこんなことがあった。こんな風にして彼を抱きしめるのは、これが初めてじゃ、ない?
「ねえ、ねえシロちゃん、教えて欲しいことが、あるの」
「何デシか?」
 シロちゃんが向かおうとしていた方向へ足を進めながら、わたしは震える声で聞いた。
「シロちゃん……あの黒マントの人の、『ラスボス』の、仲間……なの?」
「……そうデシ」
 わたしの言葉に、シロちゃんは困ったような顔をしたけれど。
 それでも、頷く表情に、迷いみたいなものは全然見えなかった。
 仲間。わたし達をこんな目に合わせた人達の……仲間……?
「じゃあ、じゃあシロちゃんも……知ってるよね? 見てた……?」
「何をデシか?」
「わたし達が、何をやっていたのか。あの黒マントの人が、わたし達に、何をしろって言ったのか……」
「…………」
 ぎゅうっ、と抱きしめる腕に力をこめる。
 黒マントの人の言葉。倒れたノル。冷たくなったルーミィ。わたしを突き飛ばしたクレイ。死にたくない、と叫んだキットン。
 綺麗なままでいてくれ、と頼んだ、トラップ……
 みんなのことを思い出すだけで、目の奥がひどく痛くなった。
 泣いてもシロちゃんを困らせるだけだとわかっていても。泣かずには、いられなかった。
「ねえ、何で? シロちゃん。わたし達、何でこんなことに……『ラスボス』は、一体何を考えているの?」
「…………」
「シロちゃんは、知ってるんだよね?」
 わたしの言葉に、シロちゃんはすまなそうに耳を垂れた。
 けれど、「ごめんなさいデシ」と言いながらも、教えてくれようとは、しなかった。
「ごめんなさいデシ。僕には言えないんデシ」
「どうして……」
「僕は『ラスボス』じゃないデシから」
 そう言って、シロちゃんはわたしの手からとびおりると、たたたっ、と、走り出した。
「あ、待って!」
「『ラスボス』さんが待ってるデシ! 早く行かないといけないデシ!」
「シロちゃん!」
「パステルおねえしゃん」
 数メートル走ったところで、ぴたり、と足を止めて。
 シロちゃんは、とっても悲しそうな目でわたしを見て、言った。
「僕、おねえしゃんのこと大好きデシ」
「……え?」
「パステルおねえしゃんのことも、トラップあんちゃんのことも、クレイしゃんもルーミィしゃんもキットンしゃんもノルしゃんも」
「え? え?」
「皆さんのことが、大好きデシ!」
「シロちゃん……?」
 シロちゃんが何を言いたいのか、わたしにはちっともわからなかった。
 けれど、彼の頑なな態度から、これ以上聞いても何も教えてくれないだろうということは、何となくわかった。
 何だろう……
 あんなに可愛いシロちゃんが、何で、あんな人に……
 『ラスボス』って、一体誰? 何が目的なの? シロちゃん……?
「シロちゃん……」
「ついたデシ!」
 そうして、そんな追いかけっこを一体どれだけ続けたのか。
 走って走って階段を上って、シロちゃんがようやく足を止めたのは、屋敷の最上階の、一番奥の部屋。
 ……と思われる場所、だった。
 ううう、言い切れない自分が情けない……だって、だってこのお屋敷って、何だかすっごく複雑な作りで……
「シロちゃん……ここに、あの黒マントの人が……『ラスボス』が、いるの?」
「はいデシ」
 荒くなった息を整えようと深呼吸を繰り返して。
 わたしが問いかけると、シロちゃんははっきりと頷いた。
「『ラスボス』しゃんが、おねえしゃんを待ってるデシ。早く行ってあげて欲しいデシ!」
「……その人に、勝ったら……わたし達を、どうしてこんなところに連れてきたのか、教えてくれるの?」
「はいデシ」
「何で、あんなこと、しろって言ったのかも……?」
「教えてくれるデシ。それが『ラスボス』の務めなんだって、そう言っていたデシ!!」
 と、そんなわけのわからないことを言って。シロちゃんは、部屋の扉を、小さく叩いて叫んだ。
「おねえしゃんを案内して来たデシ!」
 その言葉を待っていたかのように、大きな立派な扉が、ゆっくり、ゆっくりと開いた。


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