フォーチュンクエスト二次創作コーナー


トラパス バトルロワイヤル編 5

 ぎぎいぃ……っていう嫌な音。中から溢れてきたのは、白くて濃い、煙。
 ううっ……
 いかにも「強い敵が待ち受けています」という雰囲気に、わたしは腰が引けてしまうのを感じたけれど。
 ここで引き下がるわけには、いかない……
 後ずさりそうになった足を必死に叱咤激励して、わたしは顔を上げた。
 絶対に、許さない。
 負けるわけには、いかない。わたしがここで負けたら……みんなは、何のために、死んだんだろう?

 ――綺麗なままで、いてくれ――

 瞬間脳裏に過ぎったのは、血塗れになりながらわたしに哀願した、トラップの顔。
 彼の目を思い出した瞬間、胸が痛くなった。
 わたしを助けるために自分の命を捨ててくれた彼のためにも。
 クレイのためにも、キットンのためにも、ルーミィのためにも、ノルのためにも。
 わたしは、ここで負けるわけにはいかない。
「……来たか、『勝者』よ」
 一歩足を踏み入れた瞬間、部屋の奥から、そんな重低音が響いてきた。
 煙が徐々に徐々に薄くなっていく。部屋の光景が、少しずつ明らかになっていく。
 そして……
「…………!?」
「よくぞここまで来た、『勝者』よ」
「……あなた……?」
 そこに立っていたのは、一人の男性だった。
 とても背が高かった。その声は確かに屋敷の入り口に現れた黒マントの人の声と同じだったけれど。今はマントを外しているせいか、随分と印象が違って見えた。
 黒い肌、赤い目。きんきらきんの派手なスーツ。年の頃は多分40代くらいの……
「あ、あの?」
「紹介しよう」
 だららららららららららららららら……
 どこかから聞こえてくる派手な音楽。その音に合わせて両手を広げ、その人は、仰々しいお辞儀をしてみせた。
「わしの名前はジェローム・ブリリアント三世。JBと呼んでくれたまい」
「…………?」
「わしがこのゲームの『ラスボス』だ。さあ、勝者よ。この屋敷から脱出したくば、わしを倒してみるがよい!」
 そう言って。
 男性は、しゃきん、と剣を構えると、切っ先をまっすぐわたしに向けて、高らかに宣言したのだった。

 あぜん茫然というのは、多分いまのわたしの状態のことを言うんだろう。
 何……ええと、一体、何がどうなって?
 この人が、あの黒マントの男性? わたしが、この人と戦えば……今の状況も、どうしてこんなことになったのかも全部説明してもらえる? そして、わたしは……家に、帰れる?
 何で……
「だ、誰?」
「うん、聞こえなかったのかね? わしの名前はジェローム・ブリリアント……」
「ち、違うっ! そうじゃなくて……」
 違う。聞きたいのは名前なんかじゃない。そんなことじゃない。
 わたしが聞きたいのはっ……
「あなたは……わたしのことを、知っているんですか?」
「ううん?」
 わたしの質問に、ジェローム・ブリリアント三世……な、長い名前だなあ……JBさんは、鋭い目つきで、じろりとわたしをにらみつけた。
 その人間とは思えない真っ赤な瞳に、ぞくり、と背筋が震えた。
 違う。この人がわたしのことを知っているのか……わたしや、トラップやクレイとどんな関係にあるのか。それも、もちろん聞きたいことの一つではあるけれど。
 本当に聞きたいことは、そんなことじゃない……
「……あなたは……」
「わしの正体が気になるかね」
 どう聞けばわからなくて口ごもるわたしを見て、全てを悟ってくれたのか。JBは、ふふん、と身をそらすと、しゃきんっ、と剣を振り回した。
 びゅんっ! という風きり音。同時に、はらり、と舞い落ちたのは……わたしの、前髪。
「JBしゃん」
「わかっておる。戦いの前に命をとるような無粋な真似はせん。それでは『ラスボス』の醍醐味が無いではないか」
「でも、パステルおねえしゃんが困ってるデシ。どうして教えてあげないんデシか?」
 交わされる会話は、状況には全く似つかわしくない、ひどくのんびりとしたもので……けれど、わたしは、その声にまともに答えることができなかった。
 がくがくと膝が震えた。動きを目で追うことすらできなかった剣捌き。この人が何者であろうと、わたしとどんな関係であろうと、その腕は間違いなく一流で。わたしみたいな何もできない女の子では、絶対に敵うわけが無い相手だってことが、今更ながらに実感できて。
 けれどっ……
「…………」
 無言でショートソードを構えたわたしを見て、JBは、満足そうに微笑んだ。
「さて、下がっておれ。ここから先は『ラスボス』と『勝者』だけの戦いだ」
「……わかったデシ。でも、JBしゃん……」
「わかっておるわかっておる。さあ、そこで見ておれ」
「はいデシ」
 JBに言われて、シロちゃんがたたたっ、と壁際の方に走って行った。
 この部屋は広いから。あそこまで行けば、戦いに巻き込まれることは無いだろう。
 戦い……って言うほど立派なものになるかはわからないけれど。
 がくがくと踊り始めた膝を叩いて、わたしは、きっ、とJBを睨み据えた。
 この人だけは、許せない。
 どんな理由があったのかなんて知らない。どんな事情があったのかなんて知らない。けれどっ……どんな理由だとしても、わたしは、絶対にこの人を許すことができない。
 こんなっ……人の命を弄ぶようなっ……こんなこと、絶対に、絶対にっ……
「良い目をする。おお、わくわくするぞ。これが『ラスボス』の気持ちというものなんだろうな。うむ」
 そんなわたしを見るJBの眼は、あくまでも楽しそうだった。そりゃあ、彼にしてみれば、わたしみたいな女の子なんて恐れる理由は無いんだろうけど……そうだとしても、悔しい。
 ……トラップ。ごめん。せっかく、あなたが守ってくれたのに。
 綺麗でいてくれって、そう言ってくれたのに。ごめん。わたし……今……
 自分を抑えることが、できないよっ……
「っ……あああああああっ……!!」
 ショートソードとは言え、あまり使い慣れていないらしいわたしの手には、少し重い。時間が経てば、そのうち腕が上がらなくなるだろう。
 勝機があるとしたら、今しかない。まだわたしの体力が残っていて、JBも油断してくれている、今しかっ……
「えええええええええええいっ!」
「ぬっ!」
 ぎんっ!!
 ショートソードを構えたままつっこんでいく。そんなわたしの動きに、JBは少しだけ目を細めて。そのまま、身を引くことなく、一歩踏み出してきた。
 間合いがずれる。ただそれだけのことで威力が半減したショートソードは、JBの長剣にあっさりと阻まれた。
 均衡を保てたのはほんの一瞬だけ。次の瞬間には、わたしは、弾き飛ばされるようにして後ろに転がっていた。
 っ……つ、強いっ……やっぱりっ……
「っ……つうっ……」
「ふむ……わしの勘では、クレイか、もしくはトラップが勝ちあがってくるものと踏んでおったのだが……」
 そして、そんなわたしを見ても、JBはとどめを刺しに来ようとはせず。わたしが体勢を立て直そうとするのを、黙って見つめている。
 油断している。そして、油断しても勝てると踏まれている。それがひどく情けなかった。
 わたしだって……わたしだって、冒険者のはずなのに……何でっ……
「クレイの剣技はなかなかのものだった。トラップの抜け目のなさを、わしはこれでも一目置いておった。不思議だな。それなのに『勝者』はお前なのか、パステル」
「…………」
「どうして、お前が勝ち残った?」
「…………!!」
 言われた瞬間、ズキンッ、と胸が痛くなった。
 どうして、勝ち残ったのがわたしなのか。
 わたしが勝ち残っても何の意味もなかったのに。わたしじゃJBに勝てない。残ったのがクレイだったのなら、あるいはトラップだったのなら、ノルだったのなら……JBに勝って、無事に元の居場所に戻ることができたかもしれないのに。
 みんなの死を、無駄にしないですんだかもしれないのにっ……
 何で……
「みんながいたから」
「ううん?」
「みんなが居たからっ……だから、わたしはここまで勝ち残って来れたの……わたしの力じゃない。わたしが生き残れたのはみんなの力だった……」
「…………」
「だから、わたしは……負けるわけには、いかない」
 弾き飛ばされたときに打ったのか、背中がひどく痛かった。
 けれど、その痛みを無視して、わたしは、震える手でショートソードを構えなおした。
 みんなに会えてよかった。みんなのおかげで、わたしはここまで来れた。
 ここでわたしが諦めたら、みんなの死を無駄にすることになる。
 それは、絶対に許されない。ここに立つことになった以上。わたしは、絶対に勝たなくちゃいけないっ……
「勝負よ、JB……わたしは絶対に引かない。絶対に死なない。どれだけ馬鹿にしてくれても構わない。無謀だって笑ってくれても構わない。トラップのために、クレイのために、キットンのために、ルーミィのために、ノルのためにっ……わたしはっ! 絶対に……あなたに勝ってみせる!!」
「……ふむ」
 わたしの言葉を、JBは笑ったりしなかった。
 その表情に浮かぶのは賞賛。口元に浮かぶのは、紛れもない笑み。
「失礼した。先の発言、お前を馬鹿にした発言であったと認めよう。さすがは『勝者』だ。パステル。お前はここに立つにふさわしい、勇者だ」
「…………」
「わしも答えねばならんな、お前の思いに」
 瞬間。
 JBの身体から、スモークのように、光が、ゆっくりと零れ出した。
「油断していた。この姿のままで十分だと思っていたし、実際に勝てないとも思わんが。お前が持てる力の全てをわしに賭けてくれるというのなら、わしはその思いに答えよう」
「っ…………!」
 背中を、嫌な汗が伝っていった。目の前に立つJBの身体が、急に大きくなったような、そんな気がして。
 ……ううん……違うっ……気のせいじゃ、ないっ……
「あ……」
 ご、ご、ご、ご、ご……と、地鳴りのような音が響き渡った。
 ぐらり、ぐらりと足元が揺れて、眩暈のような感覚が襲ってきた。
 揺れている……重みに耐え切れなくなった? JB……?
「あ……あ……ああっ……」
「お前も大体悟っていたと思うがな。わしの正体は、人間ではない」
 カッ!!
 一瞬、視界が焼け付くような眩しい光が走った。
 反射的に目をそらす。瞬間、辺りをすさまじい暴風が吹き荒れて、わたしは、そのままふっとばされそうになった。
 っ……まさかっ……まさか、まさかっ……!?
「ああっ……」
「喜ぶがいい、パステル。わしがこの身体を見せるのは、お前を真の強者であると認めた証だ」
 しゅううぅぅぅ……
 閉じようとする目を無理やり開いた。
 顔を上げる。そこには、既にさっきわたしが相対した男性はいなかった。
 そこに立ちはだかっていたのは。
 山のように大きな体躯と、どんな剣も弾いてしまいそうな固い鱗に覆われた身体。真っ赤に燃える目と、どんな岩でも噛み砕いてしまいそうな鋭い牙を持つ……
「ああ……」
「改めて紹介しよう。わしの名前はジェローム・ブリリアント三世……」
 ばさりっ、と翼が翻った。その瞬間、ぶつんっ! という音と共に、わたしの髪をまとめていたリボンが切れて、風と共にどこかに飛んでいった。
「誇り高きブラックドラゴンの一族だ。さて。では戦いの続きをしようではないか、勇者、パステル」
 その声に、わたしは答えることができなかった。
 出会ったら迷わず逃げろと言われている、モンスターの中でももっとも恐ろしいものとして上げられるドラゴン。
 そのドラゴン種族の中でも最強と誉れ高いブラックドラゴンを前にして。
 わたしは、情けなく震えていることしか、できなかった。

 ブラックドラゴン。熟練の冒険者でも勝つことは難しい。もしも運悪く相対してしまったのならば、迷わず逃げろ、と言われている。
 運が良ければ逃げることができる。決してまともに戦おうなんて考えてはいけない。最大にして最強のモンスター……
「うっ……」
 わたしの目の前に、そのブラックドラゴンが、いた。
 らんらんと光る赤い目で、わたしを、じいっ、と見ていた。
 ドラゴンの恐ろしいところは、そのどんな攻撃も弾き飛ばしてしまうような硬い鱗、少々の傷なんてものともしない回復力、鋭い牙、爪……と色々あげられているけれど。
 何より恐ろしいのは、彼らの口から吐き出される、ブレス。
 ブラックドラゴンは毒のブレスを吐けるという。この毒は非常に強力で、例えば「その間息を止めていれば」とか、そんな程度でどうにかなるような代物じゃない、ってことだった。
 つまり。
 彼が今この瞬間にわたしを殺そうとすれば、わたしには、それに対抗する術が全くない、ということ。
 わたしの力ではドラゴンの鱗を傷つけることなんてきっとできない。
 魔法を放つことだってできない。毒のブレスをとっさに避けられるほど素早く動けるわけでもないし、力があるわけでも無い。
 何も、できない……わたしには、何もっ……
「どうした、パステル? かかってこんのか」
 そして、そんなわたしを見て。
 ブラックドラゴン……ううん。全てをしくんだ「ラスボス」であるJBは、微かに不満げな口調で、そう言った。
「あ……」
「どうした。先ほどまでの威勢は? それとも……わしのこの姿が、恐ろしいかね?」
「…………」
 恐ろしいに決まっていた。
 ううん。今のわたしみたいな状況に置かれて、怖がらない人なんてきっといないだろう……それくらい、目の前のドラゴンには、威圧感があった。
 わたし達みたいなちっぽけな人間は決して逆らってはいけないという、そんな風格が。
 ……で、でもっ……
「つまらぬ。それではわしは何のために変身したのかね。これでも変身には相応の力を消費するというのに……勇者パステル。どうした、かかってこんか?」
「…………」
「……死んで行った仲間のために、わしを倒すのでは、なかったのか? あの言葉ははったりかね、それとも?」
「…………!」
 びくん、と、身体が震えた。
 死んで行った、仲間。……仲間。
「……仲間、だったの? やっぱり。わたし達は……」
「うん?」
「トラップや、クレイや、キットンやノルやルーミィは……やっぱり、わたしの仲間だったの? わたし達は……どうして、ここに連れてこられたの? 何で、こんなことを?」
「……それは、お前がわしに勝てたら教えよう、と。そう言わなかったかね?」
「っ…………」
「何の見返りもなくほうびがもらえるほど世の中は甘くない。相応の報酬が欲しければそれなりの努力をすることだ。勇者、パステル。知りたければわしを倒せ」
「…………」
「恐ろしいか?」
 もう一度、同じことを聞かれた。
 恐ろしいか……恐ろしいか?
 そう、恐ろしい。とてもとても恐ろしい。
 けれど。こうして、わたしが怯えて脚を止めていること……それに、何の意味があるんだろう?
 その気になれば、JBは今この瞬間にもわたしを倒すことができる。それをしないのは……わたしを待っていてくれているのは……
 さっきのわたしの決意が気に入ったからだ、と。彼は、そう言った。
 もしも、わたしがここで怖気づいて逃げようとすれば。彼はきっととてもがっかりするだろう。がっかりして……そして、もう遠慮なんかしないだろう。
 逃げ切ったところで、わたし一人ではこの屋敷から脱出することはできない。どうにも、ならない。
 ……怯えて震えて、犬死にすることだけはできない。それだけは、絶対にできない。
 みんなのためにもっ……
「……ひ、一つだけお願いがあるの、JB……」
「うん? 何かね? お願い?」
「虫のいいお願いだ、ってことはわかってる。でも……見れば、わかるでしょう? ここにはわたし一人しかいない。わたしはっ……剣もろくに使えないし、魔法も使えない。非力な、ただの人間なの……」
「ふむ」
「普通に考えたら、わたしはあなたに絶対に勝てない。だけど、わたしは絶対に負けるわけにはいかない……JB、言ったよね? わたしは、ここに立つにふさわしい『勇者』だって……!」
「……言った」
 こくり、と頷いたのかどうか。ドラゴンの身体は巨大すぎて、わたしにはよくわからなかったけれど。
 吹き荒れる風が、JBの動きを教えてくれた。髪をかき乱すその風が、わたしに、わずかばかりの冷静さを与えてくれた。
 ……考えて。考えるのよ、パステル!
 わたしだって冒険者なんだからっ……何の力も無いなんて、そんなわけがない。わたしにだって何かある。何かできることがあるはずなんだからっ……
「だったらチャンスが欲しいの! わたしは、この剣一本であなたに立ち向かってみせる。絶対に逃げ出したりしない、背中を向けたりしない。あなたの思いに応えて、全力で向かってみせる」
「…………」
「だからっ……あなたも、それに応えて欲しい。ブレス一発で、わたしなんか簡単に吹き飛ばせる。それがブラックドラゴンでしょう? だからっ……」
「ふむ。お前の言いたいことは、わかった」
 そこまで言ったところで。
 JBは、ばさりっ、と翼を翻して。感情の読めない静かな声で、言った。
「わしに力をセーブして戦え、と。そう言いたいのかね?」
「…………」
「全く。それならわしは何のために正体を現したのかね。全力で向かってくる『勇者』に全力で立ち向かう。それが『ラスボス』の醍醐味だというのに」
「だ、醍醐味だ、って言うのならっ!」
 その言い方が腹立たしい。まるでゲームを楽しむかのようなそんな口調が、とても、とても腹立たしい。
 わたしは必死なのに。他のみんなも、生きるために、みんな、みんな必死だったのにっ……!
「醍醐味だって言うのなら、す、少しは! 『いい勝負』になるようにはからってくれてもいいじゃないっ!」
「んん?」
「このまま、わたしがあなたのブレス一発で倒れちゃったら! そ、それこそっ……そんな情けない『勇者』相手に本気を見せた意味が無いっ……そうでしょう!?」
「ふむ」
 破れかぶれに叫んだ言葉だった。けれど、それはJBに、大きな動揺を与えたらしい。
 何となくわかってきた。この人が、一体何を考えているのか。何を望んでいるのかっ……
 わたしに力は無い。技術もない。だけど、考えることはできるっ……た、確かに、そう頭のいい方とは言えないけどさ、わたしはっ……
 だけど、みんなのためなんだからっ……みんなのために、わたしは、持てる力の全部を、出し切ってみせる!
「お前の言うことも、確かに一理はあるな」
「…………」
「……良かろう。それでは、こうしようではないか」
 瞬間。
 JBの口から、見も凍るような咆哮が漏れた。
 首をすくめる。建物がびりびりと振動する。それだけで大抵のモンスターは恐れ入ってしまうだろうと確信できる、力強い、咆哮。
「勇者パステル。一度だけ、お前にチャンスをやろう」
「…………」
「わしは、お前の一太刀を、ただ一度のみ、反撃することなく受け入れると誓おう。手出しはせぬ。遠慮はいらん。かかってくるがよい」
「…………」
「もしも、その一撃でわしを傷つけることができたのなら……そのときは、お前の勝利であると、認めてやろうではないか?」
「…………!」
「どうかね? これは出血大サービスというものだ。バランスが悪すぎると、以前あの赤毛の小僧にも言われたからな。これくらいは……」
 赤毛の小僧? それって……
 JBの言葉に、何かひっかかるものを覚えたけれど。
 わたしは、その疑問を振り払って、キッ、と前を睨み据えた。
 さっきも言ったと思うけど、ドラゴンの鱗って言うのは、熟練の剣士でも傷つけるのは難しい。それくらいに、硬い。
 だけどっ……このチャンスを逃したら、もう、わたしに勝機は、絶対になくなる。
 今しかない。これに賭けるしかないっ……
「わかったわ……」
「来るが良い」
 馬鹿にするような響きは一切なかった。
 ばさり、と、翼が、広げられた。
 両手が下ろされる。赤い目が、わたしを見据える。早く来い、と言わんばかりに。
 ……言われなくてもっ……
「……あああああああああああああああああっ……!」
 ショートソードを構える。この一撃に全てをかける……と、そんな気持ちをこめて、走った。
 そのときだった。
「パステルおねえしゃん!!」
 闇を貫いたのは、そんな、とてもとても可愛らしい、あどけない声。
「パステルおねえしゃん! JBしゃんの弱点は、爪デシ! 爪の付け根デシ!! そこには鱗が生えてないんデシ!!」
「……貴様っ!?」
 シロちゃんの声に、JBがうろたえたような声をあげた。けれど、わたしは、それに何の反応も返せなかった。
 剣を構えたまま。
 わたしは、ブラックドラゴンに……史上最強と言われるモンスターに、つっこんで行った。

 その瞬間、視界は白一色に塗りつぶされた。
「…………っ!!」
 悲鳴をあげたのかどうか、それもわからなかった。ただ、わたしは、自分の顔を腕で覆って、その場に伏せることしかできなかった。
 何がっ……何が、起きてっ……
 JBはっ……!?
「おねえしゃんっ!!」
 どこからか、シロちゃんの声が聞こえた。
 彼はJBの仲間……つまりは、わたしの敵、のはずなのに。
 その声は、心からわたしを心配しているように聞こえた。どうしてだか、信じられるって、そう思えた。
「シロちゃんっ……」
 わたしは大丈夫。
 怪我もしていない。どこも痛くない。大丈夫だから……
 ううん。もしかしたらっ……
 痛くないのは、痛みを感じられなくなってるから……?
 だって、だって……! おかしいよっ……わたしみたいな、ごく普通の女の子がっ……ドラゴンを相手に、勝てるわけがっ……
「……見事だ」
 しゅうううう……と、微かな音が聞こえた。
 それと同時、目が痛くなるくらいに輝いていた光が、すうーっ……と、消えていった。
 おそるおそる目を開ける。最初、目の前の光景が何なのか、何が起きたのか……わたしには、わからなかった。
「……JB……?」
「見事だ、勇者パステル」
 わたしの声に、微かな笑い声で答えて。
 わたし達の最大の敵であるはずのブラックドラゴンは、ゆっくりと、その変身を解いた。
 広い部屋が狭苦しく感じるような巨体が、目の前で縮んでいく。それは、とてもとても不思議な光景だった。
 そうして、全てが収まったとき。わたしの前に立っていたのは、やや大柄で、赤い目と黒い肌をした、男性……
 この部屋に初めて入ったとき、「ラスボスだ」と自ら紹介してくれた男性だった。あのときと違うのは、彼のズボンの左足の裾が、僅かに切れていて。
 そうして、そこから、一筋の血を流していた、ということ……
「……あ……」
「ホワイトドラゴンの力を借りたとはいえ。わしの身体を見事傷つけるとは……お前の勝ちだ、勇者パステル」
「あ、わたし……」
「どうした? 喜ばぬのか?」
 くたり、とその場にへたりこんだわたしを見て。JBは、不思議そうな声をあげたけれど。わたしは、それに応えることができなかった。
 ……傷つけて、しまった……
 誰も傷つけたくない、って、そう思ってきたのに。確かにJBはわたし達の敵で……絶対に許せないって、そう思った人だけどっ……
 混乱していた。目まぐるしく変わる状況の中で、わたしは、自分がどれくらい疲れ切っているのかを、改めて悟ってしまった。
 矛盾した思いに振り回される。傷つけたい、傷つけたくない、憎い、憎みたくない……そんな混乱の中で。
 わたしにできたことは、ただ、涙を流すだけ。
「う……」
「な、何だ!? どうしてお前が泣く必要がある!?」
「だって……だ、だって……」
「JBしゃん! パステルおねえしゃんをいじめちゃ駄目デシ!! おねえしゃんは『勝者』デシ!!」
「わ、わしは何もしておらんぞ!!」
 JBとシロちゃんの会話を聞きながら、わたしは、ひっくひっくと小さな子供みたいに泣き続けた。
 どうしてだか。頭の中に勝利の喜び、みたいなものはなく。
 ただ、悲しみだけが、いっぱいに溢れていた。
 ……もしも……
 みんなと一緒につかんだ勝利だったのなら。みんなで力を合わせて勝ち取れた勝利なら。
 きっと、素直に喜ぶことができたんだろうに……
「うーっ……」
「だ、だから泣くなと言っておるだろう! どこの世界に『ラスボス』に勝利して泣く勇者がおるというのか!」
「……わたしは勇者なんかじゃない……」
 JBの言葉に、ゆっくりと立ち上がる。
 そうして、つかんでいた剣を、投げ捨てた。JBの血がわずかにこびりついたそれを、思い切り、遠くに。
「わたしは勇者なんかじゃない! 戦いたくてここに来たわけじゃない……こんな、こんな結末が見たくて頑張ってきたんじゃない!」
「パステル……?」
「どうして? どうしてこんなことになるの!? どうしてこんなことをしたのっ……」
 そのまま、わたしはためらいなく、JBの胸にとびこんでいた。
 相手は恐ろしいブラックドラゴンなんだ、とか。そんなことは、全く頭に浮かばなかった。
 目の前で和やかにシロちゃんと談笑している、恐ろしいブラックドラゴン……
 この人は、本当は、こんなことをするような……あんなひどいことを命令するような人じゃない……
 そんな風に思ってしまった自分が信じられなかったからこそ。
「何で? 何で? 何でっ……」
「こ、こら、やめないか……こら!」
 ぽかぽかと胸に拳を叩きつけるわたしを、困ったように見下ろして。
 JBは、深い深いため息をついて、ぐいっ、と、わたしの身体を引き剥がした。
「何でっ……」
「ええい、少しは落ち着かんか。言われなくとも説明はする。そういう約束だったからな」
「……JB……」
「全く。とんだ『勇者』もあったものだ。世の中、想定通りにはいかぬものよな」
 ぐしゃり、とわたしの頭を撫でて。
 そうして、JBは、ゆっくりと後ずさると、部屋の中央に置かれていた大きな椅子に身を沈めた。
 とてもとても立派な椅子だった。まるで、王様が座るみたいな……
「わけがわからないのも無理はない。どうしてこんなことをするのか、と。聞きたいのはそれだけかな? パステル」
「……はい……」
「説明しよう。『勝者』たるお前には、それを聞く権利がある」
 頷くわたしを見て、JBは、マントを翻した。
 それと同時、とことこと走ってきたシロちゃんが、ぴょん、と、わたしの胸にとびこんできた。
 ……シロちゃん……
 ぎゅうっ、と、その暖かい身体を抱きしめて。わたしは、キッ、と前方をにらみすえた。
 どんな話を聞かされても驚かない。そして……
 どんな事情があったとしても、許さない。許しちゃいけないんだ、と。そう、言い聞かせて。
「JB」
「説明しよう。……そもそも、人間の力、というのは、単純に体力や力だけで推し量れるものではない。そうは思わんか? パステル」
「……ええ?」
「窮地に立たされたとき。親しいものが傷つけられたとき……そう言ったとき、思わぬ力を発揮するのが人間だ。そうは思わぬか?」
「…………」
 JBの言葉は、わかりやすかった。
 それはその通りだと思ったから、素直に頷くことができた。
 そう……だ。普通に戦えば、キットンがクレイに勝てる……なんて。そんなことは、ありえなかったはずだ。
 キットンが生きるために必死だったから。クレイが動揺していたから?
 トラップが傷つけられるのを見た瞬間、わたしは、自分でも信じられないくらいに……怒りに、身を任せることができた。
 あのとき、激情の赴くままにキットンにとびついていたら。わたしは……
 そこまで考えて首を振った。それは、あまり考えたくないことだから。
「わかります」
「そうであろう。わしは知りたかった。人間の『本当の力』というものを知りたかった。親しいものを失って、お前達がどれほどの『力』を発揮できるか……」
「……まさかっ……?」
 JBの言葉は、あまりにもわかりやすかった。
 聞き捨てることなんか、到底できないくらいに……
「まさか、あなたは……」
「そろそろ、このゲームも終わる」
 ぱちん、と指を鳴らして、JBは立ち上がった。
 それと同時、不意に……わたしの視界が、ぐしゃりっ、と、歪みを見せ始めた。
「JBっ……何をっ……!?」
「全てを説明しよう、パステル。ゲームは終わった。とても楽しかったぞ、パステル……」
「何、をっ……」
 ゲーム。ゲーム? そう。トラップも言っていた。これは、ゲームだって……
 わたし達に殺し合いをさせて楽しむ、あまりにもひどい、ゲームだって……!
「JB!!」
 叫んだ瞬間、ぐるり、と世界がひっくり返って。
 そのまま、わたしの意識は、闇の中へと沈んで行った――

 目が覚めた瞬間、わたしは、広がる光景に驚愕することになった。
 な、な、なっ……
「トラップ! クレイ、キットン、ノル、ルーミィ、シロ、ちゃん……?」
「パステル?」
「ど、どうした?」
 大きな机。その上に置かれているのは、ミニチュアの……ちょうどシロちゃんくらいの大きさの、お屋敷。そして、それを取り囲むようにして置かれた椅子。
 そこに腰掛けて。どこかぼんやりした目で、屋敷を眺めていたのは……見慣れた、パーティーの、みんな……
「な、何で!? 何で何で何でっ……」
「おい、どーした? パステル。おめえ、ついにおかしくなったか?」
 向かいに腰掛けていたトラップが、怪訝な顔で失礼なことをのたまっていたけれど。それに反論することもできない。
 な、何で……何が、どうなって?
 わたし、確かっ……あの、お屋敷で……みんなはっ……
「何で……」
「どうだったかね、パステル」
 不意に、背後から響いた声に。わたしは、びくんっ、と、身体がひきつるのがわかった。
 振り向く。そこに立っていたのは、妙に満足そうな笑みを浮かべた、長身の……
「JB……」
「どうだったかね、パステル。わしが作った、最新のゲームは」
「……げー……む……?」
 ああ……そう……そう、か……
 JBの言葉を聞いて。わたしは、思い出していた。
 こうなった経緯を、今まで起きたことの真相を、全て。
「ゲーム……新作ゲーム、試して、欲しいって……実際にゲームの世界を体感できるって……」
「その通りだ」
 わたしの言葉に大きく頷いて。JBは、ぽんぽん、と、わたしの背中を叩いてくれた。
 他の面子はわけがわからないという顔をしている。一体、自分達が「ゲーム」でどんな目に合ったのか。そんなことは全く覚えていない、と。そんな顔で。
「他のメンバーの記憶は、全て消した。覚えているのは、パステル。『勝者』たる、お前だけだ」
「……JB……?」
「悪かった」
 ブラックドラゴン……冒険者ならずとも、出会った人なら誰もがその存在に恐怖すると言われている、伝説のモンスターが。
 今、ただの女の子でしかないわたしに、素直に、頭を下げていた。
「能力値などでは図れない、人間の本当の底力というものを見たかった。記憶を消した状態でゲームに挑ませたのもそのためだ。知り合いですらない、赤の他人相手なら。迷わず自分の命を優先できるだろう、と。そう思った」
「…………」
「わしは、どうやらお前達の絆を……人間の心を、甘く見ていたらしい。謝罪しよう、パステル」
「……JB……」
 一体何だったんだ。どんなゲームだったんだ? と、首を傾げるクレイやトラップを身ながら。JBは、何度も何度も頭を下げてくれた。
 この人は、本当にゲームが好きなだけで。話に聞くほど、噂で聞くほど、残虐でもないし非道なわけでもない……
 それは、わかっていたから。わたしは、怒ることができなかった。
 みんなは覚えていない。あの屋敷の中で、一体何が起きたのか。
 誰が何をしたのか。何を考えたのか。何も、覚えていない……
「JB……お願いが、あるの」
「何かね」
「わたしの記憶も、消して」
「…………」
 わたしの言葉に、JBは無言。
「わたしの記憶も消して。わたしも忘れることにする。ゲームの中の出来事だったんだよ。みんな本気じゃなかった。そうに決まってる……もしも、記憶がちゃんと残っていたら。仲間だって、覚えていられたら。きっと、みんな……力を合わせてあなたに挑むことができたと思う。そうに決まってるから」
「パステル」
「わたしは忘れる。忘れたい……」
 ぼろり、ぼろりと涙を零すわたしを見て。トラップが、キットンが、驚いたように立ち上がった。
 その様子を見て。隣に座っていたクレイが、何が起きたのか、という目で、JBを振り仰いだ。

 この世の中で、一番大切なのは自分の命。それは、誰だってそうだろう……
 あのゲームの中で起きた出来事を、わたしは否定しない。わたし自身ですら、一時とは言えそう思った。
 けれど。否定はできなくても。それを認めるのは、辛かった。
 それが自分の醜さから目をそらす、とてもとても卑怯な行為だとわかっていたけれど。
 それでも、わたしは……

「お願い」
 そう繰り返すと、JBは、軽く目を伏せて。
 次の瞬間……わたしの頭の中で、真っ白な光が、弾けとんだ。

「結局何だったんでしょうねえ?」
 首をひねるキットンに、わたし達は答えることができなかった。
 本当に何だったんだろう? 「新作ゲームができた!」って、JB、あれだけ張り切ってたのに。
 急に、「このゲームは中止だ!」なんて……一体、何があったのかなあ……
「ゲームの中の世界を体感できる、か。面白そうだったんだけどなあ」
 わたしの横で残念そうにため息をついたのはクレイ。その言葉に、わたしは一も二もなく頷いた。
 本当にそうだよね。昔、扮装までさせられてゲームに付き合わされたときは、「うーん」なんて思ったものだけど。
 自分じゃない自分になれるっていうのは、何だかとても楽しかった。
 あれを紙の上でやるんじゃなくて、実際に体感できるってことは。もしかしたら、わたしがファイターとして剣を振り回したり、魔法使いとして魔法が使える……ってことでしょう?
 それで、何だかすっごくわくわくしない!?
「そうだよねえ。中止ってことは、何か欠陥でも見つかったのかな? 今度は成功するといいね」
「ぶわーか!」
 そうやって笑うわたしに、つめたーい声を浴びせたのは。一人不機嫌そうな顔で腕組みをしていた、トラップ。
「トラップー!?」
「ばぁかっ! あに呑気なこと言ってんだか! ゲームってのはなあ、それが所詮ゲームだってわかってるから楽しいんだよ! 中途半端なリアリティなんざいるかっ」
「何よ、その言い方!」
「だってそうだろーが。どんだけリアルに作られたって所詮ゲームだろ。現実のモンスターが、自分の攻撃が終わったからって、俺達の攻撃が終わるまで律儀に待っている……なんて親切なこと、してくれると思うか?」
「う……い、いや、それは、そうですけど……」
 トラップの言葉に、ぐうの音も出せずに詰まると。彼は「第一な!」と言って、びしっ! と指をつきつけた。
「現実の世界じゃあ、モンスターが怖い、レベルがつりあわない……それがわかるから、迷わず逃げるって選択肢を選べるんだ。隠れたりやり過ごしたり。生き残るためにはそれこそ何だってやる。それがクエストってもんだ」
「う、うん」
「ゲームの世界じゃなあ、違うんだよ。一人二人死んでも、誰か一人でも勝ち残ればそれで戦闘勝利だ。ゲームにもよるだろうが、薬草なんかを使えば死んだ連中だって簡単に復活する。怪我をしても、薬一つで簡単に傷が治る。そんな世界に浸りきってみろ。そのうち現実とゲームの区別がつかなくなるぜ」
 そう言って、トラップは、深い深いため息をついた。
「ゲームはゲーム、現実は現実だろ。変なリアリティなんざいらねえんだよ。知りたくもなかったことを知っちまうかもしんねえしな……」
「……え?」
「いや。こっちの話」
 そう言って、トラップは軽く首を振った。その表情は、何というか……妙に、辛そうだった。
 ……どういうことだろう?
「まあ、トラップの言うことも一理あるよな」
「現実主義者ですねえ、彼は。でもまあ、何かと言うと現実を忘れがちな私達には、ありがたい存在ですね。よくでこぼこパーティーって言われますけど。我々は何だかんだでバランスが取れたメンバーだと思いますよ」
「ああ、そうだな」
 ほがらかに笑うクレイとキットンの横で、トラップが笑っていた。
 妙に痛々しい、冷めた笑みを浮かべていた。
 トラップ……?
「あんちゃん」
 すると。
 そんなトラップの足元に、シロちゃんがとんできて。そのまま、トラップの肩に、ぴょんっ、と飛び乗った。
「あんちゃん……もしかして、覚えてるんデシか?」
「…………」
 シロちゃんは、そんなことを言って、トラップの頬に、頭を摺り寄せた。
「JBしゃんの魔法……効かなかったデシか?」
「……いや、効いた。効いたさ。俺だって忘れてた。最初は……けど、な」
 二人の会話を聞くともなしに聞きながら。わたしは、今夜の夕食は何にしようか……と、そんなことを考えていた。
「あいつの様子が、変だったから」
「あんちゃん」
「記憶を消せ、とか言ってたよな。あいつが忘れたがった記憶。それが何なのか、知りたくて。後で、あのおっさんに頼んだ」
「……あんちゃん……」
「俺は、後悔なんかしねえ」
 遠ざかる二人の会話を聞きながら、足元にまとわりついてきたルーミィを抱っこする。
 きらきら輝く瞳で「ぱーるぅ!」と叫んで。ルーミィは、わたしの首にかじりついた。
「後悔なんかしねえよ。あいつが覚えていられなかったことを、俺が覚えていてやる。俺は現実から目を背けたりしねえ……ゲームの中だろうと。実際に起きたことを取り消すことなんかできやしねえ」
「…………」
「いつか、あいつにそれを教えてやるさ。現実を受け止められるくらいに、あいつが強くなったらな」
「おねえしゃんは、強いデシよ」
「ああ、強い。だけど今はまだ駄目なんだよ。あいつは俺達に甘えてるから。今は駄目だ……もっと、大人になったら、だな」
「大人デシか」
「ああ。あいつが一人で生きていけるようになるまで。俺は、傍についていてやるから」
「あんちゃんは、嘘はつかないデシ」
 振り向くと、シロちゃんがトラップの頭に飛び乗るのが見えた。
 何だか妙に深刻な顔をしてはいるけど。仲が良さそうな二人。その会話の意味はわからなかったけれど。それは、見ていてとても微笑ましい光景だった。
「僕も覚えてるデシ。あんちゃんと一緒に覚えてるデシ」
「ありがとよ、シロ。……秘密だぜ、これは。俺達だけの秘密」
「はいデシ」
「いつか、終わるときが来たら。離れ離れになるときが来たら……ま、どうすっかな。そんときの状況にもよるな。そのときが来たら、考えるか」
「はいデシ!」
 元気良く答えるシロちゃんの声が、空に吸い込まれるように消えて行った。
 いつもと変わらない笑みを浮かべたトラップが、わたしの顔を見て。ふっ……と、妙に優しい、大人っぽい笑みを返してくれて。
 どうしてだか、その笑みに、胸が高鳴ってしまったのが、不思議だった。


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