わたしがとび出して言った後、その場にクレイとルーミィ、そしてトラップだけが残された、らしい。
わたしの叫び声から、クレイは下にキットンがいることを知った。そして、その場をとびだしたわたしを、追い掛けようとした。
だけど、そこをトラップに止められたらしい。
「……どうして?」
「わからない。彼が何を考えているのか、俺にはさっぱりわからない……いや、本当はわかっているのかもしれないけれど」
「…………」
「認めたくないだけ、かもしれない……」
クレイの言葉に深々とため息をついて、わたしも、首を振った。
彼の言いたいことはわたしにもわかったから。
認めたくない。トラップが何を考えているのか。
わたしを追い掛けようとするクレイを、トラップは止めた。一体何なのか、と振り向く彼に、問答無用で攻撃を仕掛けてきた……
最初、クレイはトラップを説得しようとしたらしい。だけど、聞いてもらえなかった。
そのうち、目を覚ましたルーミィが暴れ出したから。彼女を置いて、トラップを止めようと必死になって……
本当に一瞬の出来事、だったらしい。
トラップは接近戦はあまり得意じゃないみたいだった。クレイは、よくは覚えていないけど、自分はファイターだったんだろうって、そう言った。
剣を取れば、それをどう動かせばいいか自然にわかった、と。そう言って。
殺すつもりなんて全くなかった。傷つけるつもりだってなかった。
ただ、トラップに馬鹿な真似だけはしてほしくなかった。
それなのに、トラップは聞いてくれなかった……
「本当に、一瞬の出来事だったんだっ……争っても敵わないことを知って、あいつは逃げようとした。そうしたら、ルーミィがっ……」
彼女は多分何が起きているのかわからなかったに違いない。
ただ、目の前で争う二人を、黙って見ていることができなかったんだろう。
「喧嘩は駄目だおう、って。そう言って。あいつは、トラップの脚にしがみついてっ……」
「…………」
それ以上聞きたくはなかったから。わたしは、必死に耳を塞いで、首を振った。
信じられない。信じたくない。
何で、どうして? わたしのことは助けてくれたのに。どうしてっ……
わかってくれたんじゃないの? 信じてくれたんじゃ……ないの?
トラップ……どうしてっ……
「パステル……」
「どうして……どうして、こんなことになるのっ……もう、やだっ……わたしっ……もうっ……!」
「パステル、しっかりするんだ!」
そう言って、クレイは、わたしの両肩をがしっ、とつかむと、強く強く揺さぶった。
「泣いたってしょうがないだろう……今俺達がやるべきことは、泣くことじゃないだろう……?」
「…………」
「何とかっ……逃げ出そう。ノルのためにも……ルーミィのためにも! 俺達までここで倒れるわけにはいかない。そうだろう!?」
泣きながらそう言うクレイの言葉に、わたしは頷くしかなかった。
頷きながら、ルーミィの身体を、もう一度強く抱きしめた。
――彼には気をつけてください――
――彼は恐ろしい人ですから――
耳に蘇るは、キットンの言葉……
「トラップ……」
許さない、と、口の中でつぶやいた。それをクレイは聞いていたはずだけれど、いさめようとはしなかった。
わたしは多分、今まで誰かを本気で憎んだことは一度もなかった。
これまで生きてきて、きっと辛い目にあったこともあるだろうし、苦手な相手だっていたと思う。
だけど、他の誰かを本気で憎んだことはなかったんじゃないか……何となく、そう思った。
「パステル」
「うん……」
だって、今、わたしは。
トラップのことが酷く憎いのに。ルーミィを殺した彼のことを許せないって、そう、心から思っているのに。
彼をどうやって憎めばいいのか。それが、さっぱりわからなかったから……
ルーミィを置いていくしかない、というクレイの言葉に、わたしは必死になって抵抗した。
置いていけるわけがない、とその手を揺さぶって、止めるクレイを振り払ってその小さな身体を抱き上げた。
そんなわけがない、って理性ではわかっていても、感情が追いつかなかったから。
もしかしたら……もしかしたら。
こんなに冷たい肌をしているのも、何かの演技で。ひょっこりと何かの拍子に目を覚ましてくれるんじゃないか。
また、あの可愛らしい笑顔を浮かべて「ぱーるぅ!」って言ってくれるんじゃないか……
そんな風に、思って。
「パステル……」
「……置いていくなんて、できないよ……」
クレイの言葉に首を振って、わたしは、上着ごとルーミィの身体を抱きしめた。
わたしのせいだ。
わたしが、クレイが、トラップが止めるのも聞かずにキットンを追ったりして。
ううん、それ以前に、わたしが、ボーッとして彼女の傍を離れたりしなければ。
トラップのことを信じたりしなければ……?
……わたしの、せいだっ!
「パステル!」
無言で拳を床に叩きつける。そんなわたしの肩を、クレイは凄い力でつかんできた。
優しそうな外見とはうらはらに、やっぱり、彼は鍛えられた剣士なんだ……と。そんなことを今更実感してしまう力強さで。
「……もしも、ここで俺達までやられるようなことがあったら」
「…………」
「それこそ、ルーミィの……いや、ルーミィだけじゃない。ノルの死も。全部、無駄になるんじゃないか……?」
「…………」
死。
死。死……?
そうだ。死んだ。ルーミィも、ノルも。死んだ。もう二度と動かない。二度と……話すことも、笑うことも、喋ることもない。
けれど、わたしとクレイは生きている。
「クレイ……」
「行こう、パステル」
血が出るほどに唇を噛み締めて。
クレイは、そっとわたしの手からルーミィを取り上げると、もう一度彼女の身体を丁寧に上着でくるみなおして……
そのまま、どこかの部屋へと入って行った。
この屋敷は広い。わたし達がいるところは長い長い廊下の真ん中で、その両側にはずらりとドアが並んでいる。
一体、この屋敷のどこにあの黒マントの人がいるんだろう……
そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは、クレイのすることを見ていた。
ルーミィの身体を、部屋の中のベッドに横たえて。小さく目礼する姿を、じっと……じっと、見ていた。
クレイ……
「さあ……」
振り向いたクレイの目は、少し赤くなっているようだった。
「行こうか……」
「……どこへ?」
「どこか、だよ。どこか……」
「…………」
「……脱出できるところへ」
トラップを探そう、とか、キットンを探そう、とか。あるいは、あの黒マントの人を探そう、とか。
そんな言葉が彼の口から出ることは、なかった。
クレイはただ安全のことだけを考えていた。わたしを無事にこの屋敷から逃がそうと。ただ、それだけを……
わたしと。そして。
クレイ自身を……
「パステル? ……どうか、したのか?」
「……ううん」
不安そうな声をあげるクレイに首を振って。
わたしは、彼に促されるままに、その後をついて行った。
それが一番いいんだ、と。頭の中ではわかっていた。
わたしには多分、誰かに殺されそうになったからって。相手に反撃するなんてことは、絶対にできないだろう。
そして、それはクレイもそうだろう。わたしは彼のことをいまだによく知らない。けれど、その言葉の端々から感じられる優しさを考えれば。
きっと、彼は。ファイターなんて職業についている割には……どんな敵を前にしても殺すことにためらいを覚えるような。
そんな優しい剣士に違いないって、そう思えたから。
「パステル」
「クレイ……」
それが一番いい。キットンはわたし達を信用してくれない。トラップは、わたし達を敵だと思っている。
黒マントの人が何を考えているのかはわからない。けれど、誰か一人になるまで殺し合いをしなければ、彼を倒すことはできないというのなら。
わたしは……誰も殺さず、ただ逃げることだけを考えた方が、いい。
それはわかっていたから。わたしは、クレイの言葉に頷くしかなかった。
心の底に残る違和感。頭の片隅にひっかかる何か。
本当にそれでいいのか、と訴えてくる心の声からは、目をそらして……
「行こう、クレイ」
「パステル……」
「行こう……」
ルーミィを寝かせた部屋を、後にした。
一体どこに行けば逃げられるのか。本当に逃げ場所なんてあるのか。
屋敷の中を歩いて歩いて。そうして得た結論は、ひどく絶望的なものだった。
「っ……どうなってるんだ、この屋敷は……」
「…………」
わたしの隣で、壁に身を投げ出すようにして。クレイが、荒い息をついていた。
一体どれくらいの時間が過ぎたのか。既にわたしにはよくわかっていない。多分、クレイにも。
これだけ歩き回ってもあまりお腹が空いた、とか疲れた、とか感じないのは、緊張しきってるせいだろうか。
緊張。
そう考えた瞬間、ぞくり、と背筋が寒くなった。
そう。わたしもクレイも、ひどく緊張していた。
部屋を入るたび、曲がり角を曲がるたび。
そこにトラップが現れるんじゃないか。あるいは、あの黒マントの人が現れるんじゃないか。
そんなことを心配してしまう自分が許せなかった。
……信じようって、そう決めたのに。
一度は信じたのに! それなのに、わたしはっ……
「パステル……大丈夫か?」
そんなわたしの様子を見て。クレイが、心配そうな表情で、わたしの頬に手を伸ばしてきた。
「疲れたんじゃないのか? どこかで休んだ方が……」
「っ…………」
クレイの言葉に、わたしは首を振って答えた。
休んでる場合じゃない。
わたしとクレイがこうしている間にも。もしかしたら……トラップがわたし達を探しているのかもしれない。
彼が何を考えているのか。何をするつもりなのか……
それを考えたら。休むわけには、いかない。
「大丈夫」
「パステル」
「大丈夫だからっ……」
もしも、次にトラップと出会ってしまったら。そのとき、彼がわたし達に武器を向けて来たら。
そうしたら、わたしは……どうするんだろう?
どうすれば、いいんだろう?
答えの出ない疑問を胸に。わたしは、クレイと共に歩き出した。
ゴールの見えない勝負は、まだまだ終わりそうになかった。
いつかは再会するはずだってわかっていた。
けれど、まさかここで。こんな場所で再会することになるなんて……思ってもいなかった。
「……あ……」
「パステル?」
どうにかして脱出しよう、と考えて。わたし達は屋敷の至るところを探してみた。
窓を開けられないかと試してみたり、裏口みたいなものが無いかとあちこちうろうろしたり。
けれど駄目だった。窓にはまっているのはどう見てもただのガラスみたいに見えたのに。クレイの力で椅子を叩きつけても、そのガラスはびくともしなかった。
「魔法で強化されてるんじゃないかな……」
っていうのがクレイの推測だったけれど、魔力の無いわたし達には、それが当たっているかどうか確かめることはできない。
確かなのは。窓から脱出するのは、多分無理だろうな、っていうこと。
「魔法が使えれば」
「クレイ?」
「多分、玄関のドア。あれを閉じたのは……あの黒マントの男の魔法なんじゃないか、って思うんだ」
「うん」
「だからさ。俺が思うに、開錠の魔法が使える奴がいれば、あそこのドアは開けられるんじゃないか、って思うんだけど……」
「魔法……」
「パステルは……」
「無理。ごめん……」
「いや、謝ることはないよ。俺もだからさ」
二人でそう言って、同時に苦笑を浮かべた。
手が全く無いわけじゃないのに、それを試してみることすらできない。
もしももっと仲間がたくさんいたら……わたしとクレイだけじゃなくて。他の四人もいて、みんなで知恵を合わせることができたら。
そうしたら、何かは変わったんだろうか?
……言っても仕方の無いことだけど。
「じゃあさ、玄関に行ってみようよ!」
「パステル?」
「わたし、魔法に関してはよくわからないんだけど……でも、永遠に続く魔法なんて無いんだよね?」
わたしの言葉に、クレイは曖昧に頷いた。
そうだそうだ。わたし達は、今、中途半端に記憶を失っていて。事情はほとんど何もわからないに等しいんだけど。
それでも、持っていた知識が何もかも消えたわけじゃない。多分、これはわたしが冒険者になるときに勉強したこと……だと思う。
どんな魔法でも、効果が永続するなんてことはない。
魔力には限界っていうのがあるから。それが切れてしまえば、自動的に効果もなくなっちゃうんだ、って。
永遠に続くように見せても、それは単に魔力が切れかけるたびに魔法をかけ直しているだけなんだ、って!
「行こうよ! もしかしたら、もう魔法が切れてる、なんてことがあるかもしれないしさ。もしかしたら……」
「パステル」
「窓は駄目でも、ドアならどうにかなるかもしれないじゃない!」
わたしがそう言うと、クレイは苦笑を浮かべて頷いてくれた。
「パステルはすごいな」と。そう言って、頭を撫でてくれた。
前向きなのが、わたしのいいところ。昔、誰かにそう言われた気がする。
それが誰に言われた言葉なのかは、さっぱり思い出せなかったけれど……
そして。
そこでわたしは、望んでもいなかった再会を果たした。
「っ…………!!」
「あ……」
初心に帰ろう、と向かった先は、屋敷の玄関。
そこに何があったのか、忘れたわけじゃなかった。
ルーミィとは違って、わたしには大きすぎて、重すぎて動かすこともできなかった。
あのときのまま放り出された、ノルの身体。
そして、その傍にひざまずいている……赤い髪の、細身の男の子。
「トラップ!!」
叫んだ瞬間「しまった」と思った。
あああ! わたしって、どうしてこう後先を考えない性格なんだろう!?
そんな後悔が瞬時に走り抜けて行ったけれど、いくら後悔したところで、言ったことは取り消せない。
「…………」
わたしの声に、その人は弾かれたように顔を上げた。
ついさっき別れたばかりなのに。何だかひどく懐かしい気がする。
ひどく凄惨な……どこかやつれたような顔でわたしを見上げる、トラップ。
「あっ……」
「…………」
その顔を見た瞬間、言葉を飲み込んでしまった。
腫れ上がった頬。うっすらと服ににじんでいるのは……あれは、血?
さらさらした髪が乱れていた。ついさっきは、確かに彼は、あんな怪我はしていなくて。どこか飄々とした笑みを浮かべていたはずなのに。
今の、彼の姿は……何で言えばいいのか。
まるで、自分より強い相手と喧嘩でもした、みたいな……
誰と!?
「トラップ、その怪我!!」
「……随分仲が良さそうだな……はっ。全くおめでたい奴だぜ」
わたしの言葉を遮るようにして。トラップは、吐き捨てるようにつぶやいた。
その目に宿る光は一体何なんだろう。あれは……あれ、は……
憎しみ?
「トラップ! 大丈夫なの……ねえ、どうしたの、その怪我! もしかして……」
もしかして。もしかして?
だって、今この屋敷にいる人達で……彼とここまで互角に渡り合えそうな人なんて……
キットンにあれができたとは思えない。こう言っちゃ悪いけど、彼はどう見たって争いには向いてなさそうだった。
じゃあ……
「ま、まさかあの黒マントの人に一人でつっこんでいったの!? む、無茶だよ!」
「…………」
「ねえ、一緒に行こうよ、トラップ! 一人でなら無理でも、みんなで行けば何とかなるよっ……ねえ!?」
「はっ……」
わたしの言葉に鼻を鳴らして。トラップは……
するりと、ひどく自然な動作で、武器を向けた。
「相変わらず。鈍い女だな……」
「っ…………」
「一人なら無理? みんななら? 黒マントにやられた……? 本気でそう思ってんのか」
「トラップ……」
「何で」
周囲に、張り詰めた緊張感が漂った。
トラップが、一体何を言いたいのか……それが、誰にもわからなくて。
「俺のことなんか心配するんだ。俺はおめえにとっちゃ敵なのに。俺を殺さなきゃおめえだって帰れねえのに」
「それはっ……」
「自分が俺に殺されるかもしれねえのに、何で」
「トラップは、そんなこと……」
「何で!!」
言いながら、トラップの目は。
さっきから何一つ言うことなく、ただ静かに背後に控えている……「彼」の方へと、向けられた。
「それなのに、おめえは俺じゃなくてっ……『そいつ』を信用するんだよ、パステル!?」
「離れてくださいパステル!」
叫ばれた瞬間、頭上から声がとんできた。
わたし達が降りようとしていたのは二階の正面階段。その階段のさらに上……三階からとんできた声なんだ、と。悟るのに、少し時間がかかった。
「離れてください! 彼なんですよ……ノルを殺したのは、彼なんですパステル!!」
瞬間。
わたしの目の前を、輝く白刃と銀色に光る弾が、横切った。
「っ……なっ……」
言いかけた言葉は中途半端なところで止まってしまって。残りは喉の奥で「ごくり」と音を立てて飲み込まれることになった。
何……何、なんだろう……
このっ……わたしの、喉に食い込んでいるものはっ……
わたしを、背後から抱きしめている……ううん、羽交い絞めにしている、この、腕はっ……
「……動かないでくれないか、トラップ」
「…………」
耳元で囁き声。触れる吐息に背中が「ぞくっ」とするのがわかった。
ずっとわたしを慰めてくれていた声だった。
ずっとわたしを心配して、気遣って、元気付けてくれた声だった。
その声が、今。
全身が震えそうになるほどの恐怖感を伴って、わたしを、縛り付けていた。
「……パステル、ごめんな」
聞こえてくる声の様子に、言葉ほどの罪悪感は感じられなかった。
「ごめんな。大丈夫……すぐに、済むから。痛いのは一瞬で済むと思うから。多分……」
「っ…………」
その名前を呼ぶのが怖かった。口に出せばそれが本当に現実のことになってしまいそうで。それが、ひどく怖かった。
だけど、口に出さずにはいられなかった。
「クレイっ……」
そう、クレイだった。そのはず、だった。
わたしの眼下に……玄関ホールに、トラップがたたずんでいるのが見えた。
その目に光るのは怒りの炎。武器らしきパチンコを構えて、今にもとびかかりそうな形相で。
けれど、動けないまま。わたしを……わたしの背後を、じいっとにらみつけていた。
頭上では「うわああああ! だから言ったのに! どうしましょう、どうしましょう!」なんて騒がしい声が聞こえて来ていた。
あの声はキットン。わたしに「危ない」と声をかけてくれた人。わたしの命を守ってくれた人。
そして。
わたしの喉に、剣を押し当てているのが。その表情がどんなものかは見えないけれど、きっとあの優しい笑顔でわたしを見下ろしているんだろう……クレイ。
「どう、して……」
「どうして? 聞くかな、そんなこと」
しゃべるたびに喉が動いて、歯が食い込みそうになった。
それが怖くて身をそらすと、クレイの胸に頭を押し付けるような格好になった。
服越しに伝わってくる、たくましい筋肉の動き。暴れても逆らっても絶対に敵わないだろうって確信できるような……
「死にたくない。ただそれだけだよ」
「…………」
「わからない。どうして自分でもこんなことができるのか。俺にはさっぱりわからない。けどね、パステル。何もわからないからって、誰かのために自分は死んでも構わないなんて……そんなのは間違ってるって、そう思わないか?」
「…………」
「俺は死にたくなかった。ただそれだけなんだ……ごめんな。本当は、俺は……」
びしっ!
瞬間、鋭い音が響いて、クレイは言葉を止めた。
しばらく沈黙が流れる。彼の視線の先にいるのは……トラップ。
つい今さっき発射したばかりの武器を構えたまま、じりっ、とこちらに歩み寄ろうとして。そのままの姿勢で、固まってしまっている。
「俺には敵わないことはわかってるんだろう? トラップ。ノルのときも、ルーミィのときも。お前は俺には敵わなかった」
「…………」
ノル、ルーミィ。
その名前を聞いた瞬間、胸がひどく痛くなった。
既に死んでしまった彼ら。ノルの身体はわたしのすぐ目の前に倒れていて。最後に見たときは確かにうつぶせに倒れていたはずなのに……トラップの手によってなのか。今の彼は、仰向けにされていた。
そのお腹に走っているのは、ぞっとするような切り傷だった。剣でないとつけられないような、まっすぐに走った大きな傷。
クレイにしかつけられない傷。
きっと、ルーミィも。彼女の小さな身体にも。同じ、傷がっ……
だからなの? だから……クレイは。ノルを抱き起こそうとしたときも、ルーミィを連れて行こうとしたときも……あんなに必死になって、止めたの?
わたしに、自分が殺したことがばれないように……?
「動かないでくれ、トラップ。お前が動けば……パステルは、死ぬことになるよ。お前のせいで」
「…………」
「それは、嫌だろう? 悪い。俺はお前のことなんか全然覚えてないけれど。それでも、他人って言う気がしない。きっと、こんな形で出会ったんじゃなければ、俺はお前と大の親友になれたような……そんな気が、する」
「…………」
クレイの言葉に、トラップは無言。だけど、その表情に浮かぶのは、嫌悪よりはむしろ悲しみのように見えた。
それが、彼もクレイと同じことを思っているんだと伝えてくれた。そして、わたしも。
本当に、そう思う。こんな形で出会ったんじゃなければ。こんな状況で出会ったんじゃなければ。わたし達は……
「……クレイっ……」
ぎりっ、と奥歯を噛み締めて。わたしは、自分の命を奪おうとしている剣をにらみつけた。
この剣が。ノルを、ルーミィを殺した。
そして、次はきっとわたしを。
全てを狂わせたのは誰だろう。
わたし達をこんな目に合わせたのは……
「クレイっ……トラップ……」
許せない。
わたしは今まで、多分誰かを本気で憎んだことは一度も無いと思う。
だけど、今は憎かった。心の底から、憎かった。
わたし達をこんな状況に陥れたあの人のことを。本気で……
殺してやりたいと、そう思うくらいに。
「やめて」
自分がそんな感情を抱くことになるなんて思ってもいなかった。そんな感情を抱けるなんて知りたくもなかった。
けれど、現実を否定することはできない。
怒り、憎しみ。全身をそれらに支配されながら、わたしは、剣を握るクレイの手に自分の手をかけた。
力はこめない。引き離そうなんて、逆らおうなんてそんなつもりはない。
ただ、軽く触れただけ。それだけで、クレイの動きが、ぴくりと……止まった。
「やめよう。もうやめようよ、クレイ」
「……パステル?」
「こんなの、おかしいよ? だって、クレイだって本当は……こんなこと、したくないんでしょ?」
「…………」
「おかしいよっ……どうして、わたし達っ……」
「……ごめんな」
その言葉が誰に向けられたものなのか、それはわからない。
けれど。
その瞬間、わたしを封じる彼の腕に力がこめられた。わたしの顔をそのまま映しそうなほどに手入れの届いた剣が、ぎらりと光を反射した。
反射的に目を閉じていた。「もう駄目だ」と諦めたわけじゃないけれど。どうすることもできないんだ、と。それだけは、悟らずにいられなくて。
っ……ごめん……
ノル、ごめん。ルーミィ、ごめん。最期を見届けてあげられなくてごめん。
キットン、ごめん。信じることができなくて、信じてもらうことができなくて、ごめん。
トラップ、ごめん。疑ってごめん。一瞬でも逃げようとしてごめん。
クレイ。
……あなたに殺されるわたしを、許してっ……
「っ……うわああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
瞬間。
響いた悲鳴は、一体誰のものだったのか……
我に返ったきっかけは、ぼたり、ぼたりと頬の上に滴り落ちる、生暖かい雫。
何っ……
「……トラップっ……!」
カランッ、と音を立てて転がったのは、ついさっきわたしの喉を切り裂こうとした剣だった。
続いて、戒めていた腕が、ほどかれた。
振り仰ぐ。一体何が起きたのか、それを確かめようとして。身もだえした瞬間、あっさりとわたしは自由を取り戻して、反動で床を転がることになった。
何がっ……一体何がっ……
「き……きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」
振り仰いで、そして見た。理解した。一体、今何が起きたのか。何がわたしを助けたのか。
わたしの前の前で、顔を抑えてうずくまっているクレイ。その瞳からほとばしっているのは、雫。
透明じゃない。赤い……どこまでも暗く赤い、生暖かい雫がっ……
「トラップ!?」
「……見てられっかよ……」
ゆらり、ゆらりと。彼の身体が動いていた。
今にも崩れ落ちそうな、震える脚を必死に動かして、わたし達の方へと。
「もう見てられっかよ! そんな痛い顔でもがくおめえの姿なんか……パステルの苦しむ姿なんか、これ以上見てられっかよ!?」
びしいっ!!
続いて聞こえて来たのは、どこかで何かが崩れるような、そんな音だった。
もうすぐ、何もかもが終わるんだ……
その音を聞きながら。わたしは、そんな風に悟らずには、いられなかった。
それが起こったとき。わたしが見たのは、真っ青になって駆け出してくるトラップだった。
その音を聞いて。わたしの後ろでうめき声をあげていたクレイが、ハッ、と身を強張らせた。
背中に衝撃を感じたのはその一瞬後のこと。
「っ……きゃあああああああああああああっ!?」
強い衝撃だった。身体を支えきれなくなって、ぐらり、と、眩暈を起こしたときのように視界がぶれた。
迫ってくるのは階段。踏み出したその場所に、わたしの身体を受け止めてくれる固い床はなかった。
……落ちる!?
わたしが反射的に目を閉じて身体を固くするのと、ガラガラガラッ!! という激しい音が背後から響いてくるのと。
そして、わたしの身体を細い割に力強い腕が抱きとめてくれたのは、ほぼ同時だった。
……何、がっ……
「おい、大丈夫か!?」
頭上から降ってきた声に、顔を上げた。
そこに飛び込んできたのは、意外なくらい間近にあるトラップの顔。
真っ青な顔で、心底わたしのことを心配している、というそんな目で、じいっとわたしを見下ろしていて……
「あ……」
「ど、どーした!? 怪我でもしたかっ!?」
「う……ううんっ……」
その顔を見た瞬間、涙が止まらなくなった。
支えてくれた。抱きとめてくれた。わたしを……助けてくれたんだ、トラップが。
トラップが、わたしを……
「うっ……ひっく……」
「な、何なんだよ!? おい、泣いてちゃわかんねえだろ! どっか痛いのかよ!?」
「違うっ……ちがっ……」
クレイに裏切られた、と知った瞬間。全身が脱力するような絶望を感じた。
自分が助かるために誰かを犠牲にするしかない。そんな状況の中、わたしをいつも励ましてくれた人だったからこそ。その裏切りが辛かった。
だからこそ、余計に。
今向けられた優しさが、嬉しかった。
やっぱり、やっぱり……
何があったのか、どうしてこんなことになったのかはわからないけれど。わたし……わたしと、この人はっ……
「……ったく。いや、今はんなこと言ってる場合じゃねえっ……泣くのは、後にしろ」
そうして。
トラップは、しばらくの間、わたしの身体を抱きとめたそのままの姿勢で頭を撫でてくれていたけれど。
やがて、「はあ」と重い重いため息をついて、そっと、わたしの身体を自分から引き離した。
優しい手つきと痛いため息。それにつられるようにして、彼の視線を追って。
そして、わたしは。そのとき何が起きたのかを、初めて理解した。
「……く、れい……」
「つっ…………」
「キットン……」
「…………」
わたしの背後に転がっていたのは、瓦礫。
視線を上げれば、ついさっきまでキットンが立っていたはずの場所が、もうもうと煙を上げているのが見えた。
何があったんだろう。崩れた? このお屋敷は頑丈そうではあるけれど、結構古い建物。そのせいで?
キットンの立っていた足場が崩れて……それが、わたしと、クレイの上、に……?
「クレイ!? キットン!!?」
慌てて駆け寄ったけれど。瓦礫に埋もれるようにして、キットンはピクリとも動かなかった。
うつぶせに倒れたまま。さっきまで騒がしい声をあげていたはずなのに。今は、わたしが声をかけても、揺さぶっても、ぴくりとも……
し……し、んだ? 事故、で……?
「クレイ……?」
そして。
キットンの隣で、瓦礫に押しつぶされるような格好でそこに倒れていたのは……クレイだった。
背中と、足の上に転がっているのは、わたしの体重以上はありそうな、大きな大きな瓦礫。
慌ててそれを押しのけようとしたけれど、わたしの力じゃどうにもならなかった。
それが歯がゆくて。それでも放っておくことができなくて。手が傷だらけになるのも構わずもがいていると、横から、すっと手が差し伸べられた。
顔を上げる。わたしの横に座り込んでいたのは、真剣な目つきでクレイを見下ろしているトラップだった。
ついさっき、自分の手で傷つけたはずの彼をじっと見下ろして。
わたしがやろうとしていることに、黙って手を貸してくれた。
「トラップ……」
「…………」
言葉はなかった。けれど、彼が今考えていること。それがわたしと同じだということだけは、直感的にわかったから。
わたしとトラップは、しばらく、無言で作業を続けた。
取り除かれる瓦礫。その下から現れる、無惨に押しつぶされた、身体。
「ひっ……」
「おい、生きてるかあ? おい」
息を呑むわたしの横で、トラップがひどく感情のこもっていない声をあげて、クレイの頬をはたいていた。
それが効いたのか。あるいは、最初から起きていたのか。
クレイは、傷ついた瞳を手で庇うような格好で、ゆっくりと目を開けた。
「……無事……だったのか……」
「え?」
「無事、だったのか? パステル……」
「…………」
それが、第一声。
最初は何を言っているんだろうと思った。けれど、少し考えて。わたしは、ついさっきまで、自分がクレイとほぼ同じ場所に立っていたことを思い出した。
あのとき背中に感じた衝撃は。
あのときわたしが突き飛ばされなかったら、多分わたしはっ……
「クレイっ……まさかっ……」
「ははっ……何、やってるんだろうな、俺は……」
「あなた、わたしを……?」
「笑いたければ、笑って、いい……何、やってるんだろうな……今更……今更、どうして……」
あのとき、わたしと突き飛ばしてくれたのはクレイだった。
自分達の頭上に何が降って来るのかに気づいて、わたしを、助けようとして。
ついさっきまで、わたしを殺そうとしていたはずの彼が……わたしを、助けて、くれたっ……!?
「どうしてっ……クレイっ……」
「動かすな馬鹿! 頭を打ってんだぞ!!」
反射的にクレイを揺さぶろうとしたわたしを止めたのはトラップだった。
何も言わない。何も。怒ることも泣くこともせず、ただただひどく冷静な目でクレイを見下ろしているだけ。
けれど、その姿が何だか余計に痛々しく見えた。涙一つ零してはいないけれど。心の中で誰よりも泣いているのは彼だ、と……そんな風に感じて……
「馬鹿だな、おめえは」
「……わかってる、よ……」
「昔っから決まってるだろ。おめえみてえな色男は、絶対悪役にはなれねえんだよ。ったく、無理しやがって」
「はは……よくわかってるんだな、俺のこと……」
「見てりゃわかる。ノルのときだって、ルーミィのときだって……誰よりも近くでおめえを見ていたのは、誰だと思ってる?」
「……そう、だな……」
会話を交わしながら、クレイの顔色がどんどん悪くなっていっているように見えた。
そのお腹から、足から溢れる血は、決して止まろうとはしない。
……死ぬ。
クレイは、今、死のうとしてるんだ……
そんなのって……
「待ってて、クレイ! すぐっ……すぐ、手当て、するからっ……」
そんなの、嫌だ。
そうと悟った瞬間、素直に、そう思うことができた。
やっぱり、わたしの勘は、間違っていなかった。
わたしが出会った彼らは、一体わたしとどんな関係だったのかはわからないけれど。
本当の意味で悪人だった人なんか、誰もいなかった。
きっと、きっとこれから、わかりあえるはずだ。これから、生涯の友達みたいに、笑いあえるはずだって、やっとわかったのに……
こんな終わり方って……!
「絶対に死んじゃ駄目だから! 絶対に助けてみせるからっ……」
上着を脱いで、傷口に押し当てる。必死に止血をしながら、もう片手で荷物を探る。
けれど、薬を探そうとするわたしを止めたのは、クレイ自身だった。
「……いい、んだよ、パステル……」
「……クレイ?」
「いいんだ。どうせ……俺は、どうせ……助からない、だろう、から……」
「クレイ!? 馬鹿、何言ってっ……」
「自分の、身体だ……それに……」
「…………」
「助かりたいとは、思わないから……」
「…………っ!!」
身体が強張った。
ただ淡々と語られる言葉。その言葉が、全てクレイの本音であること。
助かりたくない。今ここで死にたい……それがクレイの望みなんだ、と、嫌というほどわかって。
「クレイ……」
「辛かった……ずっと、辛かったんだ……ノルを、ルーミィを手にかけて。それでも生きたいと願う自分が……」
「クレイっ……」
「誰かの手で、早く終わりにして、欲しかった……」
「…………」
どうして。
どうして、この人は……そんなことを言うんだろう。
わたしはクレイを助けたい。心からそう思えたことが嬉しかった。
それなのに、どうしてっ……
「そんなのっ……」
「甘ったれたこと抜かしてんじゃねえっ!!」
瞬間炸裂したのは、聞いたこともないような、心の底からの怒りを含んだ声。
「トラップ……?」
「甘えたこと抜かしてんじゃねえ。おめえはただ逃げたいだけだ。現実から逃げ出したい。おめえが言ってんのはそういうこったろ?」
「……トラップ」
「甘えんな。今ここでおめえが逃げ出して、それで死んだノルやルーミィに詫びるつもりか。そんなのは俺が許さねえ。例えあいつらが許しても、この俺が許さねえ」
「…………」
「おめえは生きろ。何としても、どんなにみっともなくても見苦しくても生きろ。生きてあいつらに償え。それがおめえにできる唯一の償いだ」
「…………」
「生きろ。……死ぬな。死ぬな、クレイっ……」
「……トラップ……ぱす、てる……」
泣いていた。
わたしの頬を伝うのは熱い雫。それと全く同じものを瞳から零して。
トラップが、泣いていた。クレイの顔を覗きこむようにして。見栄も外聞かなぐり捨てて、泣いていた……
「……ありがとう」
最期に聞こえたのは、そんな言葉。
「もっと、違った形で……会い、たかった……」
「クレイ……?」
「頑張れ」
ぱたり、と。
治療をしようとするわたしの手を押さえていたクレイの手から力が抜けたのは、その数秒後のことだった……