20のお題 日常お題 〜学生編〜
08 体育館


 しばらく、わたしにとってここは怖い場所だった。
 季節はそろそろ夏になろうとしているのに、ここだけはどこかひんやりした空気が漂っている。
 放課後の体育館。夕陽が差し込んできて、誰もいないその場所は、授業で使っているときよりずっとずっと広く見えた。
「……はあっ」
 ため息をついて伸びをする。セーラー服姿でこの場所に立っているのは、何だかすごく変な気分。
「あれから、もう半年近く経つのかあ……」
 つぶやきに答えてくれる人は誰もいない。
 そっと周りを見回して、わたしは端の方へと寄った。
 重たい重たい鉄の扉。力をこめると、体育館の中よりもいっそう涼しい空気が流れてきた。
 石づくりの壁と床。漂っている独特の皮の匂い。所狭しとおかれた、跳び箱や得点ボード、ボールが一杯に入った籠……
 とん、と跳び箱にもたれかかった。そうして暗い壁を見つめていると、嫌でもあのときの情景が蘇ってくる。
 
 ――好きなんだ、パステル――
 
 あのとき押し倒されたのがこの跳び箱なのかどうか、よく覚えていない。
 
 ――落ち着いたんなら返せよ。俺だってさみいんだから――
 
 あのとき彼が腰掛けていたのが、この跳び箱なのかもしれない。
 
「トラップ」
 声に出して、えいっ、と腕に力をこめた。
 高い跳び箱によじ登る。あのときの彼と同じように腰掛けて、足を揺らす。
 あのとき彼に出会わなければ、わたしは今頃どうしていただろう?
 多分……多分。この場所には怖くて近寄れなかったと思う。
 いつまでもいつまでもショックを引きずって……きっと、悩んで、苦しんで。
 もしかしたら、学校に来れなくなっていたかもしれない。何となく、そう思った。
「おかしいよね。今は、こんなに平気でいられるのに」
 怖いって思う気持ちが完全になくなったわけじゃないけれど、もう大丈夫だって、そう安心できた。
 怖がることなんかないって。守ってくれる人がいるから。ずっと傍にいてくれる人がいるから。
 それを確認するために、わたしはここに来た。あの日から、たまにこうして一人でこの場所を訪れる。あのときのことを完全に吹っ切ったんだって確認して、そうして自分を安心させるために。
「トラップ」
 もう一度名前を呼んだ。外に聞こえるはずがないってくらいの小さな声で。
 でも、確信していた。こうしてわたしが一人でこの場所にいると、必ず彼は迎えに来てくれたから。
 今日も、きっと……
「……やっぱここにいたのかよ」
 ほら、やっぱり。
 ぎいいっ、と重たい音がした。
 そして、扉の隙間から、毎日のように見ている鮮やかな赤毛が覗いた。
「ったく。おめえさ、そんなにこの場所が好きなのか?」
「……別に、そういうわけじゃないけど」
 隙間から滑り込んでくる、細身の身体。
 ラフに着こなした学生服、少し長めの髪を束ねた、すごく端正な顔立ちの男の子。
 あの日から、ずっとずっとわたしを助けてくれた人……
「トラップは、嫌い?」
 そう聞くと、彼は少し肩をすくめて、ひょい、とわたしの隣に腰掛けてきた。
 狭い跳び箱の上だから、そんなにスペースは無い。自然に身を寄せ合う形になって、胸がドキドキした。
 とん、と肩に頭を乗せる。とくん、とくんっていう静かな音が、微かに聞こえてきたような気がした。
「好きじゃねえな」
 小さく囁かれた後、手が、肩に回された。
 ぎゅうっ、と力をこめられる。暖かさが伝わってきて、傍にいるってことがわかって、それだけで安心することができた。
「あんなことがあったのに。おめえは好きなのかよ?」
「…………」
 あんなこと、っていうのが何を指しているのか、それははっきりとわかった。
 あえて具体的に言わなかったのは、多分、思い出させたくないっていうトラップの優しさ?
 ……違うかな。思い出させたくないのなら、そもそも口に出したりしないかな?
 わからないけど。でも、いいように解釈しようっと。思うだけなら自由だもんね。
「嫌いじゃないよ」
 そう思って、小さく笑った。
 体育館倉庫の中は暗い。もう陽も沈みかかっているから、余計に。
 だけど、怖いなんて感じない。そんな必要、無いから。
「嫌いじゃない。だって、ここは思い出の場所だから」
「んあ?」
「トラップと初めて会えた場所だもん。だから、嫌いじゃないよ」
 むしろ、好きかも?
 そう言って笑うと、彼は一瞬呆気に取られたような顔をして。
 そうして、ひっそりと笑った。「おめえらしい。本当に前向きだよな、おめえは」って、そう言って。
 笑う彼に、わたしは、ゆっくりと唇を寄せた。
 わたしは知ってるから。普段、どこでどんな場所でだろうと、隙あらば! って迫ってくるのがトラップだけど。
 この場所でだけは、彼は、絶対に手を出そうとしないってこと。
 わたしが怖がるかもしれない、怯えるかもしれない、あのときのことを思い出すかもしれない……
 そう思ってくれてるんだと思う。これは、確信。
 わたしもそれに甘えてきた。だけど……もう、半年近い月日が経ってる。忘れることはできなくても、気にしないでいることはできているから。
 そろそろ、ふっきらなきゃ……ね。
「少しずつ進んで行きたい」
 そっと唇を重ねた後、身を離して。
 そう囁くと、彼は、「はあ?」と声をあげた。
「ちょっとずつ、ちょっとずつ前に進んで行きたいんだ……立ち止まってちゃ、駄目だよね?」
 わたしが何を言いたいのかが彼にどこまで正確に伝わったか。それはわからなかったけれど。
 それでも、笑ってくれた。
 くしゃり、とわたしの髪を撫でて。「いいんじゃねえ?」って、そう言ってくれた。
 跳び箱からとびおりる。きっと、もうこうして一人で用事も無いのにこの場所を訪れることはないんだろうな、って。
 そう、確信して……


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