フォーチュンクエスト二次創作コーナー


ギア×マリーナ 後編

 誰かを愛しいと思ったのは随分と久しぶりだった。
 自分でも不思議に思う。「彼女」をそんな目で見るようになるとは。
 昔愛した女性とは何もかも違う、強いようで弱い……どこか、「守ってもらうこと」を拒絶しているかのような。それでいて、心の底では守って欲しいと切望しているかのような、そんな女性。
 初めて会ったときにどんな印象を抱いていたかは既に忘れた。そして特に問題でもない。
 大切なことは。
 今、俺は。彼女のことを大切にしてやりたい、と……少なくとも、あの酒場での久しぶりの再会時のような、痛い表情だけはさせたくない、と。
 そんな風に思っているということ。
 これが愛なのかどうかはわからない。ただの同情、あるいは憐憫かもしれない。
 だが、それで彼女が幸せそうに笑ってくれるならば。
 俺に愛されることを心の底から望んでいるのならば、それに答えてやりたいと、そう思った。
 ……問題は。
 彼女は本当に俺の愛を望んでいるのか。ただ現実を否定したいだけ、ただ逃げたいだけじゃないのか、ということ。
 もっとも、その答えは俺にはわからない。そして恐らく、彼女自身にも。

「っ……あ……」
 身体を起こしたとき、光の下に自分の身体がさらされていることに気づいて、慌ててシーツを胸元まで引き上げた。
 今更……って苦笑が漏れそうになったけれど。慣れることは当分できなさそうだった。
「もう帰るのか」
 わたしの隣で、シーツにくるまるようにして寝ていた人影が、身を起こすことなく言った。
 けれど、その口調はしっかりとしていて。多分、彼がずっと前から起きていたんだろうな、ってことは、わかった。
 そして、起きてはいたけれど。眠っているわたしを気遣って、ただ見守っていてくれたんだろうな、ってことも。
「ええ。きっと、みんな心配しているだろうと思うし」
「心配か」
「パステルなら、多分ね」
「確かに」
 わたしの言葉に低く笑って、彼は、ゆっくりと身を起こした。
 滑り落ちていくシーツと、あらわになる、均整の取れた身体。
 ギア・リンゼイ。かつてパステル達と一緒にキスキン王国のごたごたに巻き込まれたとき手を貸してくれた、凄腕の剣士。
 そして、今……
 わたしの、「偽りの恋人」となってくれている、男性。
「今日も、ありがとう」
「……礼を言われるようなことをした覚えはないな」
「相手をしてくれて、ありがとう。わたしの思いを、受け止めてくれてありがとう」
「…………」
「今は、それでいいの。受け止めてくれるだけで……」
「そうか」
「いつか、きっと……」
 その続きを、うまく言葉にすることはできなかった。
 黙ってベッドから下りて、床に落ちた服を身につける。
 そのまま部屋の外に出た。最後まで振り返らないまま、宿をとび出す。
 ギアが泊まっている宿。パステル達がよく利用しているみすず旅館とは違う、少し立派で部屋も広い、宿。
 顔を見ることができなかったのは、彼の本音を知りたくなかったから。
 そして、自分の本音も。
「……わたしはっ……」
 ギアを愛したいと思った。きっと愛せると思った。
 そして彼はわたしの気持ちを受け止めてくれた。
 けれど。受け止めてくれただけで、何も与えては、くれない。
 そして、わたしも。
 押し付けているだけで、何も与えては、いない。
「……いつになったら」
 いつになったら自分の思いに決着をつけることができるんだろう。いつになったら……わたしは、ギアに、「本当の愛」を、抱くことができるんだろう?
 いつになったら……ギアは。
 わたしを、愛してくれるんだろう?
 こんな関係は間違っている。それはわかっていても。
 今、わたしは。彼にすがる以外に、自分を保つ方法が、わからなかった。

 ガタン、とドアが開く音に、俺は弾かれたように顔をあげた。
 いつの間にか、寝ていたらしい。
「……あ」
「あら、クレイ」
「マリーナ……」
 俺を見て、彼女は意外そうな顔をした。
 どうして俺がこんなところにいるのか、と。そんな顔で。
「どうしたの? 今日はバイトは?」
「……いや。今日は、何も無いよ」
「そう」
 いつも通りの会話だった。いつも通りの彼女だった。
 けれど。
 彼女が一体どこに泊まってきたのか。そして何をしてきたのかをわかっているからこそ。いつも通りの笑顔が、どうしようもなく、痛かった。
「マリーナ」
「ごめんなさい。わたし、ちょっと寝なおしてくるわね」
 俺の言葉を遮って、彼女は、ふい、と背を向けた。
 柔らかい拒絶。俺の顔なんか見たくないんだ、と。そんな態度で。彼女は、二階へと上がっていった。
 後に残されるのは、俺一人。
「…………」
 拳をテーブルに叩きつける。
 俺に何を言う権利も無い、とわかっていても。それでも。どうしてだか、やり場のない、理由もわからない怒りがわきあがってくるのが、わかった。
「俺は馬鹿だ」
 トラップにも散々言われた。口には出さないが、マリーナも、そしてギアも、同じように思っているだろう。
 あの日。
 彼女がギアの元に去った日から。どうしてだか彼女のことが気になって仕方がなかった。
 拒絶したのは俺なのに。今更、俺に何を言う権利も無いって、そんなことはわかっていたのに。
「おめえって、本当の馬鹿だな。俺な。おめえはいずれマリーナと一緒になるもんだと思ってたよ。俺はマリーナの気持ちを知っていた。んで、おめえは鈍い奴だけど、多分……いや絶対に、マリーナのことを心の底では思ってるんだろうって、そう信じてたよ。おめえが例え気づいてなかったにしろ」
 そう言ったのは、多分俺のことを俺以上によくわかっている幼馴染。
「なのに、おめえはマリーナの気持ちを拒絶して? よりにもよってギアの野郎に寝取られて。んで、何もかも終わってから後悔か? 本当に、今度という今度は見損なったぜ、クレイ」
 吐き捨てるように言われても、何一つ言い返すことができなかった。
 ああ、確かにその通りだ……と、自分でも、認めるしかなかったから。
 頭を抱えて、テーブルの前に座る。
 マリーナのことを好きなのかどうか……女性として思っているのかどうか。それは正直、今でも確信が無い。
 好きなのは確かだけれど、それは妹に対する思いだと思っていた。家族に対する愛情だと、そう信じていた。
 けれど、今となっては……
 自分の気持ちが、もうわからない。
「ギアじゃなくて、例えばトラップとでも付き合い始めたのなら。こんな風に思うことはなかったのか? 相手がギアだから? それとも……誰と付き合うとしても、納得なんかできなかったのか? マリーナ……」
 多分、問いかけたところで誰からも返事はもらえないだろう。
 マリーナ自身からも。
 彼女が消えた二階を見上げて。俺は、小さく息をついた。
 多分、今夜も彼女は彼の……ギアの元に行く。そう考えただけで、また眠れなくなりそうだという嫌な予感だけが、残った。

「あ……マリーナ。お、お帰り」
 部屋に戻ると、引きつったような声がとんできた。
 顔をあげる。視線の先にいたのは、パステル。
 クレイと一緒にパーティーを組んでいる、わたしの幼馴染、トラップの恋人にして、わたしの大切な、親友。
「ただいま」
「あの……ね、マリーナ。あの……」
「ええ。ギアのところからの帰りよ」
 隠すようなことでもないから、素直に教えてあげた。
 そして、それがどういう意味かもわかったんでしょうね。パステルは、真っ赤になって目を伏せた。
 ……昔の、出会った頃のパステルだったら。女が男の部屋に泊まってくる、っていう意味がわからなくて、「何しに行ったの?」なんて真顔で聞いたんでしょうけれど。
 成長したじゃない。それもこれも、トラップのおかげ……ということかしら。
「パステル」
「え?」
「何か、用?」
「…………」
「わたしに用があったから。だから、待っててくれたんじゃないの?」
「う……ん。ええと」
 わたしの言葉に、パステルはしばらく困ったように視線を彷徨わせていたけれど。
 やがて、意を決したように顔を上げた。
「あの、あのね、マリーナ。マリーナは……それで、幸せなのかなあ、って」
「…………」
「わたし……さ。マリーナの気持ち、知ってたよ? マリーナがずっと誰のことを好きだったのか、知ってたし……できれば、幸せになって欲しいって、そう思ってた」
「……ありがとう」
「あのさ、クレイ……ずっと、マリーナのこと、心配してたよ」
「知ってるわ。下で会ったもの」
「マリーナが、ギアのところに行ってるの知って……何だか、落ち込んでたみたい、だけど」
「…………」
「あの、あの……」
「それで?」
 放った言葉は、自分でも驚くくらい冷たいものだった。
「それで……何が言いたいの? パステル」
「…………」
「まだ諦めるには早いって。そう、言いたいの?」
「…………」
「もう遅いわよ」
 パステルが悲しそうな顔をするのを見て、胸が痛くなった。
 彼女に当たっても仕方がない。それはわかっていたけれど。けれど、それでも……言わずには、いられなかった。
「わたしはとっくに諦めたのよ、クレイのことを。今、わたしの中に彼を好きだったわたしはどこにもいないの……今更、そんなこと言われても、困るだけ」
「マリーナ」
「それに、クレイは優しい人だから」
「…………」
「優しくて残酷な人だから。優しくて卑怯な人だから。自分のせいでわたしが自暴自棄になるのを見ていられなかった。心配している理由は、多分そんなところなんじゃない?」
「マリーナ!!」
「わたしは、もう彼の優しさに期待を抱くのが嫌なの」
 ぴしゃり、と言い放って、パステルに背を向けた。
 そう、それがわたしの本音。
 もうクレイのことなんか何とも思ってない……思っているはずがない。
 もしも彼のことがまだ好きだというのなら。ギアに平気で身を任せられるはずがない。
 わたしは、そんなに軽い女じゃない。
 クレイのことが好きだった十年は……そんなに軽いものじゃ、なかった。
「もう期待を抱いては裏切られることに疲れたの。ねえ、パステル、知ってた?」
「……え?」
「クレイが、ずっとあなたのことを見ていたこと」
「…………」
「もしもあなたがトラップとつきあわなかったら。クレイは、今、誰のことを思っていたのかしらね」
 それはひどく意地悪な言葉だった。
 それを聞かされて、パステルがどれだけショックを受けるか。それがわからなかったわけじゃないけれど。
 素直に自分の思いに身を任せられる彼女のことが羨ましくて妬ましかったからこそ。
 言わずには、いられなかった。
「ごめんね、休ませてくれる?」
「…………」
「心配かけてごめんね。わたしは大丈夫だから。だから、パステルが心配するようなことなんか、何も無いから」
 そう言うと、パステルは、小さく「ごめん」とつぶやいて、部屋を出た。
 バタン、とドアが閉じる音を聞いた瞬間、涙が零れたけれど。
 その涙が一体何に対するものなのかは、自分でもよくわからなかった。

 わたしの顔なんか見たくないんだ、って。そんな風に思った瞬間、泣きそうになってしまった。
 マリーナがいる部屋のドアの前で。わたしは、動くことができなかった。
「マリーナ……」
 もしも、わたしがトラップと付き合わなかったら。
 トラップのことを好きにならなかったら。
 そうしたら、クレイは一体誰のことを好きだったのか?
 そう言ったマリーナの口調は冷たかった。
 彼女はいつだって優しかったのに。明るく笑っていて、人に対する嫉妬とか憎しみとか……そんな醜い感情を表に出すことは、絶対になかったのに。
「……マリーナ」
 小さくつぶやいた言葉に、返事は無い。
 わたし……もしかして、マリーナに嫌われてる?
 そう考えただけで、胸いっぱいに悲しみが広がった。
 クレイがわたしのことをどう思っていたのか。それはわたしにはわからない。
 わたしは今まで、クレイのことをそんな風に見たことはなかった。頼りになるパーティーのリーダーで、そしていつだってわたし達のことを優しく見守ってくれた、お兄さんのような人だって……そう思っていたから。
「クレイが、わたしのことを……見ていた?」
 そんなの嘘だよ。何かの勘違いだよ、って。そう言ってあげられたらどんなにかよかっただろう?
 けれど、言えなかった。
 思い出そうとしても、ちっとも思い出せなかったから。わからなかった。
 今から考えてみると、わたしは、自分で思っていたほどクレイのことをわかってはいなかった。ううん、クレイだけのことじゃない。マリーナのことも、ギアのことも。もしかしたらトラップのことも。
 わたしは上辺だけの彼らしか見ていなくて。彼らが心の底で何を考えているのかなんて、本当はちっともわかってなかったんじゃないか、って。
 そう思えて、仕方がなかった。
「……ごめん」
 ごめん、マリーナ、ごめん。
 わたしはマリーナのことが大好き。この気持ちは嘘じゃない。
 だけど、わたしには何もできない。何もしてあげられない。
 クレイはもしかしたらマリーナのことが好きなんじゃないかって、そう思った。彼女がギアの元に行くとわかった途端に自分の気持ちに気づいてしまったんじゃないか、って。
 そんな彼のことを鈍いって思ったし、怒りさえ覚えた。それでも……わたしには、何もできない。何も、言えない。
 どうして、どうして……もっと早くに気づかなかったんだろう。気づいて、あげなかったんだろう?
 鈍いわたしに鈍いなんて言われたくないと思うけれど。それでも、言わずにはいられない。
 わたしにだってわかったのに。マリーナの一途な思いは。
 なのに、どうしてあなたにわからなかったのよ……と、そう言ってしまいたい。
「……クレイの馬鹿……」
「何やってんだ、おめえ」
 どきっ!
 口走った瞬間声をかけられて、文字通りの意味で心臓が縮み上がりそうになった。
「あ……トラップ」
「『あ』じゃねえ。マリーナと、話したんだろ?」
「……うん」
「どうだった」
 トラップの言葉に、引きつった笑みを返すしかなかった。
 多分、彼も心配なんだと思う。マリーナは、トラップにとってはずっと一緒に暮らしてきた本当の妹みたいなもので、家族みたいなもので。
 そして……多分、だけど。彼女のことを、昔好きだったんだと思う。
 好きで好きで、だからクレイへの気持ちにも気づいてしまって諦めた。
 そんな相手、だと思う。
 だから……マリーナには幸せになって欲しいって、心から、そう思っているだろう。
 何も言わないのは、自分が何を言っても変わらないって、それがわかっているから?
「マリーナは……もう遅いって言ってた」
「そうか」
「クレイのことを好きな自分は、もうどこにもいないんだ、って……」
「……そうか」
「そんなわけ、ないのに」
 言った瞬間、ぼろぼろと涙が溢れ出してきた。そして、そんなわたしを、トラップは優しく抱きしめてくれた。
「おめえが泣く必要なんか、どこにある」
「…………」
「マリーナは自分で選んだんだ。俺達には今更何も言えねえ。あいつは頭のいい奴だ。自分で選んだ道を後悔するような、そんな馬鹿じゃねえ」
「…………」
「だあら、心配することなんか、ねえんだ……泣くなよ」
「……トラップ」
 胸元にすがりついて、わんわんと泣いた。
 マリーナは、ギアに対して、こんなことができるんだろうか。
 こんな風に、自分の気持ちをぶつけることが、できるんだろうか……
 そんな風に思いながら。
 わたしは、わたしの思いを力強く受け止めてくれる人がいるという幸せに、浸っていた。
 そんな自分が、許せなかった。

「……ごちそうさま。じゃあ、わたし……」
 そう言うと、みんなの顔が、一斉にあがった。
 いつもの夕食の場。集まっているメンバーも同じ。けれど、表情だけが、違う。
「……いってらっしゃい」
 最初に声をあげたのはパステルだった。そして、他のみんなは、口を開かないまま、自分の食事に戻った。
 わたしがどこに行くのか。何をしてくるのか。それがわかっているから何も言う必要なんかない、と……あるいは、何も言う権利なんかない、と。そんな顔で。
「じゃあね」
 クレイやトラップの視線を受け止めるのが辛かったから。わたしは、それ以上何も言わず、背中を向けた。
 トラップのどこか怒ったような目。クレイの、ただただ悲しそうな目。そして、パステルの……傷ついたような、目。
「……そんな目で、見ないで」
 朝、パステルに言われた言葉が、耳に突き刺さる。
 わたしがギアの元に行ったと知ってから、クレイはわたしのことをずっと心配しているみたいだった。今朝だって……落ち込んでいたみたいだって、そう、言われた。
 だけど、だからどうだって言うの?
「クレイがわたしを好きになってくれる……そんなこと、あるわけがないわ……」
 子供の頃からそうだった。
 彼にはサラという立派な婚約者がいて。そして、冒険者になってドーマを出た後は、パステルという子が傍にいて。
 いつだって、彼の傍には、わたしなんかかないっこない素敵な女性がいた。
 彼がわたしを「家族」以上の目で見てくれることなんか決してない。決して……
 だから……
「それはただの同情と憐憫。誰かを傷つけたりしたくない、自分が悪者になりたくないっていう、卑怯な偽善……クレイ。あなたは優しすぎるのよ。そんなあなたのことが大好きだった。大好きだったけれど……」
 けれど、今は。その優しさが憎い。
 わたしがギアのことを利用しているのは、彼が一番わかっているはずなのに。
 そのことに対して怒ったりせず、ただわたしのことを心配してくれている。その目が、とても、とても……痛い。
「……こんばんは」
「今日も来たのか」
 通いなれた道を歩いて、ドアをノックする。
 内側で鍵が開く音がした。顔を覗かせると、そこに立っていたのは、黒衣の剣士。
「今日も、いいかしら」
「予定が入っていたらここにはいない」
「……そうよね」
 ドアを閉める。そのまま一気にその広い胸元に身を投げ出した。
 よけることも突き放すこともなくわたしを受け止めてくれる、力強い身体。
「……抱いて」
「望むのなら、いくらでも
「望まないのなら最初から来ないわ」
「なら、わざわざ言わなくてもいい。……明かりは?」
「あなたの、好きなようにして」
 わたしの言葉に、ギアは。苦笑めいた笑みを返して、明かりを消した。
 真っ暗な中で、衣擦れの音だけが響く。ついで身体を走り抜けたのは、もうすっかり慣れてしまった……純粋な、快感。
「……あっ……」
「マリーナ」
「ああっ……」
 わたしは、一人じゃない。
 クレイもトラップもいなくなって、またわたしは一人になった。エベリンで店をやっていくことで自立できたのは嬉しかった。誰に迷惑をかけることもなく、胸を張って生きていけるのは、楽しかった。
 それでも。
「ギア……」
 誰かが傍にいてくれる。誰かがわたしを見てくれる。守ってくれる。
 それを嬉しいと思ってしまう自分が、そこにいた。
 ……わたしは、そんな弱い女じゃないって思っていたのに。
 誰かに守ってもらわなければ何もできないような、そんな女じゃないって。そう、思っていたのに……
「ギア……」
「マリーナ」
 優しく耳元で囁かれた。
 あの鋭いナイフのような面差しからは想像もできない、暖かい声で。
「無理しなくても、いいんだ」
「…………」
「無理なんか、する必要はない」
「……ギアっ……」
 もしも、トラップやパステルや、あるいはクレイにそう言われたのなら。
 わたしは、「無理なんかしてないわよ」と、いつものわたしを装って、強がったんだろうけれど。
 どうしてだか。ギアには、そんな気にはなれなかったから。
「ギア……ギアっ……」
 寂しい。傍にいて欲しい。一人に、しないで欲しい……
 そんな思いを、素直にぶつけることが、できた。

「……クレイっ……」
 マリーナを見送った後。俺の視線は、自然とそいつに向けられた。
 俺の二十年来の幼馴染。多分、誰よりもたくさんの時を過ごしてきた相手。
「おめえっ……本当にいいのかよ?」
「いいのか、って……」
 俺の言葉を受け止めて、戸惑ったように顔をあげるクレイ。
 その表情は、いつもと変わらねえように見えた。変わらねえように見えたからこそ、余計に怒りを煽った。
「トラップ……」
 横に座っていたパステルが心配そうに腕を引いてきたが、それに答えてやる余裕もねえ。
 マリーナのことが心配だから。大切だからこそ。
 俺は、今のあいつを見ていることが、できねえ。
「おめえ、何で引きとめねえんだよ」
「何で、って
「マリーナが喜んでギアのところに行ってるように見えるか!? おめえにだってわかるだろう!? あいつが、あいつが好きなのはなあっ……」
「トラップ!!」
 強い強い声が、俺の言葉を遮った。
 視線を落とす。必死の形相で俺の腕にすがりついているのは、俺の一番大切な女、パステル……
「クレイは……わかってると、思う」
「…………」
「わかってるけど、だけど、言えないだけだと、思う。クレイは、優しいからっ……」
「……優しい?」
 言われた台詞を鼻で笑い飛ばす。
 ああ、そんなことはわかっている。クレイが優しいいい奴だっていうのは、多分他の誰よりも、俺が一番わかってる。
 わかっているからこそ……
「おめえのそれは、優しさなんかじゃねえ」
「トラップ!」
「おめえはマリーナを、どう思ってるんだよ?」
 パステルの言葉を無視して、テーブルに掌を叩きつける。思った以上に大きな音が響いて、夕食の皿が、少しばかり浮いた。
「どう思ってんだよ、マリーナのこと」
「どう、って」
 その言葉に、ようやくクレイは顔を上げた。その表情は……何つーか。
 一言で言えば、参っていた。
「……大切な幼馴染だと、そう思ってるよ」
「本当にそれだけか」
「…………」
 他に何があるんだ、という弱々しい抗議を無視して、胸倉をつかみあげる。
 マリーナの幼馴染として。そして、クレイの幼馴染として。
 俺は、どうしても、こいつに一言言わなくちゃならねえ。
「マリーナがギアの元に行くのが気にいらねえんだろ」
「…………」
「けど、どうして気に入らねえのか。それがわからねえんだろ?」
「…………」
「自分の気持ちがわからねえんだろ。そうなんだろ!?」
 強く揺さぶっても、クレイの奴は逆らおうとはしなかった。
 ただただ、苦痛を堪えているかの表情で、うつむいたまま。
「おめえは、何でそう、鈍いんだよっ……」
「…………」
「パステルのときだって! おめえはっ……」
 口走った瞬間「しまった」と思ったが。けれど、言っちまったことは、今更取り消せねえ。
 取り消せねえのなら……続けるまでだ。
「おめえはいつだってそうだ! 自分の気持ちに言い訳ばっかして、つまんねえ勘違いばっか繰り返して……どうしてもっと素直にストレートに考えられねえんだよ? 何とも思ってねえ相手だったら、他の男に取られたからって苦しむ必要なんかどこにもねえだろ? ただの幼馴染だって思ってるのならっ……」
「俺に今更何が言える!?」
 ぐいっ、と、手首をつかみあげられた。
 その力の強さに顔をしかめそうになったが、今、ここで目をそらすわけにはいかねえから、と。ぐいっ、とその目を見返した。
 いつもいつも優しい光をたたえた鳶色の目が。俺を、ひどく辛そうに、見つめていた。
「……俺には何も言う権利なんかない。俺はマリーナのことが好きだ。でも、それは家族としての好きだって思ってたんだ……いや、今でも思ってる。女の子として好きなのかどうか……俺にはまだわからないんだ。ただ、俺はこう思ってる。誰と一緒になろうと、マリーナには幸せになって欲しい……そして、多分俺にはそれは無理だって思った。俺と一緒になったって、多分マリーナを苦しめるばかりで、幸せにはしてやれないだろうって、そう思った」
「…………」
「ギアと一緒になって幸せに笑ってくれるのなら、多分俺だってこんなに彼女が気になることはなかったはずだ。幸せそうには見えないから。いつだって辛そうな顔をしてるから。だから気になってるんだ……ああそうだ。自分でわかっている。俺はただ自分が悪者になりたくないだけだ。俺に振られたせいで彼女が自暴自棄になった。そんなのに耐えられないだけだっ……それがわかっているから!」
 俺の手首をつかんだまま、力なくうなだれるクレイ。
 こいつのこんな顔を見たのは……もしかしたら。長い付き合いの中でも、初めてかもしれねえ……
「それがわかってるから。俺は、何も言うことができないんだっ……本気で彼女のことが好きだというのなら、こんな身勝手な思いを抱くわけがない。本気で気持ちに答えてあげられない以上、俺には何も言う権利はない……そうだろう!?」
 ……こいつは、どこまで。どこまで……
 優しくて、自分に、厳しいんだ?
 恋愛が、そんな綺麗なもんだったのなら。ただ相手のことを思うだけですむようなもんだったら。
 誰だって、苦しんだりはしねえはずだ。
「……馬鹿だ、おめえは」
「トラップ?」
「本当に、馬鹿だ」
 マリーナも、クレイも。
 大切な幼馴染だからこそ。俺は、二人には幸せになってほしかった。
 だから。
「……来い」
「トラップ?」
「いいからっ……来いっ」
 だから、俺は。
 このまま黙って見守っているだけなんて、できねえんだよ、絶対に。
「あがいてあがいて、それでも諦めきれねえのが恋愛だろ。そうじゃ、ねえか……」
「…………」
 俺の言葉に、答える奴は、誰もいなかったが。
 俺を止める奴も、誰も、いなかった。

 いつものように、ギアに身を任せていたときのことだった。急に外が騒がしくなったのは……
「…………?」
 その音にギアも気づいたんだろう。隣で、彼が身を起こすのが、わかった。
「……ギア」
「……来たようだな」
 わたしの言葉に軽く頷いて、暗がりの中、服が渡された。
 それを身につけている間に、ギアが起き上がって、部屋の明かりをつけた。
 多分、剣士として鍛えられている彼には、その声が誰の声なのかとっくにわかっていたんだろう。
「……何で」
 何で、こんな時間に、彼らが。
 そんなわたしのつぶやきに、答えてくれる人はいない。
 窓の外で騒いでいた声は、すぐに宿の中へと移動してきたみたいだった。
 そして。
 迷うことなく、この部屋に、一直線に向かってきた。
「……あ……」
「さて」
 ギアがドアの方を振り向いた。そして、まるでそれを狙っていたかのように、ノックの音が響いた。
 誰だ、という誰何の声もあげず、ギアがドアを開く。
 彼の身体の影から見えたのは……わたしが予想していた、そのままの光景。
「……クレイ、トラップ……パステルまでっ……」
 何で、どうして。
 いきなりのことに、頭が混乱していた。パニックになっていた、と言ってもいいかもしれない。
 それは、人の顔色ばかりうかがって、先読みすることばかり慣れていたわたしにとっては、ほとんど初めての経験。
「何……一体」
「ギア!」
 わたしの言葉を遮って、真っ先に声をあげたのは、トラップ。
 そして、彼に突き飛ばされるようにして部屋にとびこんできたのは……クレイ。
「……こいつが、おめえに話があるそうだ」
「ほう?」
 トラップの言葉に、ギアは無表情で答えて。
 そして、代わりに血相を変えたのは、クレイ。
「おい、トラップ!?」
「そうなんだろうが!? 話があるんだろう? だあらぐずぐず悩んでたんだろう!? 俺はなあ、もううんざりなんだ。ガキの頃からおめえらはいっつもそうだ。本音を隠して相手のことばっか考えて。たまには自分にわがままになったっていいだろうが!? マリーナっ……」
 そう言って、トラップの目が、まっすぐにわたしを捕らえた。
 それは、ひどくひどく悲しそうな視線。
 トラップからそんな目を向けられることになるとは思わなかったから。少なからず、驚いた。
 けれど。
 そんな彼の目を見ても、ギアは何も言わない。かけらほどの動揺も見せず、ただ冷めた目で、クレイを見下ろしているだけ。
 ……何を、考えているの? ギア。
 あなたは……何を……
「……トラップは、ああ言っているが」
 沈黙が随分流れたように感じたけれど。多分、それはほんの数十秒くらいのことだったと思う。
 次に響いたのは、ギアの、どこか冷めたような、それでいて面白がっているような、とても複雑な、声。
「俺に話が?」
「…………」
「何が、言いたい?」
「…………」
 ギアの言葉に、クレイはうつむいたままだった。
 床につかれた拳がぶるぶると震えている。何かに葛藤している……そんな、顔で。
「……俺は」
 一体、何がきっかけになったのかわからない。
 ギアの言葉か、それともトラップの言葉か……あるいは、最初から覚悟を決めていたのか。
 それはわからないけれど。
 顔を上げたクレイは、何だか、今までに見たこともないくらい……ひどく、ひどく真面目な目をしていた。
「俺は、多分今でも……自分に自信がない」
「…………」
「あなたみたいに自分に自信を持つことなんか、多分俺には一生無理なんじゃないか、って……そう、思います」
「…………」
「こんな俺には、誰かを守ってやるとか……幸せにしてやるとか。そんな風に言い切る資格なんか無いって、そう思ったから。だから……好きな相手に堂々と好きだと言える、あなたや、トラップのことが……ずっと、ずっと羨ましかった」
「…………」
 その言葉に、トラップが軽く眉をあげるのが見えたけれど、何も言おうとはしなかった。
 パステルは、その後ろでハラハラしている。一体クレイが何を言い出すのか、と。そんな顔で。
 そして、それはわたしも同じだった。
 クレイの言いたいことがわからない。彼が一体何を言おうとしているのか……
「……クレイ?」
「羨ましかった。俺には絶対に言えないから。相手を幸せにしてあげたくても自信がない。もし俺のせいで不幸になるようなことがあったら、って。そんなことばかり考えて、結果的に相手を余計に傷つけて……そんな自分が、許せなくて……」
「…………」
「自分の思いに気づいてもいない俺に、何を言う資格も無いって、そう思っていた。けれど、それでも放っておけなかったんだ……マリーナ、君の、ことが……」
 クレイの視線が、ギアからそらされた。
 わたしの、方へと。
「君が幸せそうに見えないから。ヤケになってギアの元に行ったんじゃないかって……それが不安だった。けれど、そんな風に思うこと。それが余計に君を傷つけたんだってわかって……ますます、何も言えなくなった」
「…………」
「……ギア」
 クレイが、立ち上がった。
 上背のある彼は、ギアとほとんど体格は変わらないはずだけれど。
 その姿は、何だかやけに大きく見えた。
「……あなたは、マリーナを……幸せにすることが、できますか?」
「…………」
「マリーナを泣かせたりしないって。そう、言い切れますか?」
「…………」
 ギアは無言だった。クレイの顔を探るような目で見たまま。わたしの方を、振り向こうともしないまま。
 ……何を、言おうとしているの? クレイ。そして……
 何を考えているの? ギアっ……
「答えてください……ずっと、ずっと聞きたかったんです。あなたは、マリーナのことをどう思っているのかっ……」
「……もしも」
 そして。
 会話が動いたのは、それから数秒後のこと。
 それまで、ずっと無言を貫いていたギアが。ようやく重たい口を開いたのは、それだけの時間が経ってから。
「もしも俺が、『そんな自信は無い』と、そう言ったら。お前は、どうするつもりだ?」
「…………」
「自分なら彼女を幸せにできる。そんな俺には彼女はやれない……とでも言うつもりか?」
「…………っ」
 クレイの拳が震えていた。
 ギアの、はぐらかすような言葉が許せなかったんだろうと思う。クレイは真剣だったから。今、彼は……多分、わたしが知っているどんな彼よりも、真面目に、わたしのことを考えてくれているから……
「……俺は」
「…………」
「きっと、マリーナは……俺と一緒になったら、泣くことになるんじゃないかって、そう思って、ました」
「……そうか」
「うちは……厳しい家で。俺には婚約者もいて。そんなのは親同士が決めたことで、大切なのは本人同士の気持ちだろうってそう思っていたから、俺はあまり気にしたこともなかったけれど。でも、よく考えたら……あのおじいさまが、サラの……婚約者以外の女性と結婚するって聞いて、黙っているとも思えなくて。きっと、俺と一緒になる人は、ひどく苦労するだろうなって……」
「…………」
「そんな風に考えたとき、わかったんです」
 その言葉を聞くのがもっと早かったら、って。そう思った。
 けれど、それはもう思っても仕方の無いこと。
「そんな風に思うこと、それが、俺がマリーナのことを大切に思っているっていう証拠じゃないか、って……真剣に思ってるからこそ、将来のことまで考えて……素直に『好きだ』って思いを告げられない。そうじゃ、ないかって!」
 その言葉に。周囲が、一気に凍りついた。
 トラップも、パステルも。ギアも……そして、わたし自身も。
「……クレイ」
「マリーナ」
 つぶやくわたしを見るクレイの目は、優しかった。優しい目で……わたしに、手を差し伸ばした。
「……今まで気づかなかった。いや、多分今でもわかってないと思う。だけど、それが正直な気持ちなんだ。……もしも」
「…………」
「もしも、君が望むのなら。俺は……」
 その言葉に対する返事。そんなものは、最初から決まっていた。
 顔を上げる。今までずっとわたしの気持ちを受け止め続けてくれた、とても、とても優しい人の顔を。
 彼は何も言わなかった。ただ、ひどく暖かい目で、わたしを見ていた。
 止めようともしない。行くなとも言わない。そんな彼の顔を見た瞬間……決意は、固まった。
「マリーナ」
 後ろからとんできたのは、聞き慣れた、声。
「俺は君を幸せにするとは言えない。所詮は流れの傭兵で、本当に人を愛した経験があるかも怪しい、未熟な男だ。君が望むような愛を与えてやれるかどうか、俺には、言い切る自信はない。多分、一生出ない」
「…………」
「けれど」
 その言葉が、聞きたかった。
 わたしは、多分、ずっと前から……
「俺は……」

「本当にいいのか」
 俺の言葉に、彼女は軽い笑みを浮かべて。そうして、俺に身を持たせかけてきた。
「どうして、そんなこと聞くの?」
「……いや」
「わたしは、自分で選んだ道を後になって悔やむような、そんな愚かな女じゃない」
「…………」
「わたしは自分でここにいることを選んだのよ、ギア……」
 俺の言葉に笑みを浮かべているのは、マリーナ。
 どこか愛に飢えたような目をしていた、今まで愛した他のどの女性とも違う、ひどく不思議な女性。
「君は、クレイのことが好きだったんじゃないのか」
「ええ」
「あのとき、クレイは君をさらいに来たんだろう」
 ひどく回りくどい言い方をしてはいた。
 自分で自分の気持ちに整理がついていないとも言っていた。
 それでも。
 俺をにらみつける目だけは、本物だと思ったから。
「なのに、どうして俺を選んだ?」
「わたし、言わなかったかしら、ギア。あなたのことを好きになりたい、愛したいって」
「……聞いた」
「だから、あなたを愛することにしたの。そして、実際に愛している……それじゃ、不満?」
「……いいや」
 わかりやすい答えだった。けれど、謎はちっとも解けていない。
 俺は彼女の思いを、多分誰よりも知っていた。彼女がクレイに抱いていた思いは、簡単に忘れられるようなものじゃなかった。
 ……一体、何が、彼女を変えたのか。
「俺でいいのか」
「あなたじゃなきゃ駄目だって、そう思ったの」
「……理由を聞いてもいいか」
「聞きたい?」
 俺の言葉に、小首をかしげるような仕草をするマリーナは、ひどく大人っぽく見えた。
 大人っぽく見えたが、同時に……年相応の子供らしさを、残してもいた。
「クレイのことが好きだった。彼の優しさが好きだった。ずっとずっと彼のことだけを見ていた」
「…………」
「けれど、彼は結局わたしのことを見てくれることはなかった。わたしのことを好きだって、そう言ってくれた。ギアのところに行くのを見て、初めて自分の気持ちに気づいたって、そう言ってくれた……でも、それは……多分、わたしを見ているわけじゃない。自分自身を振り返って、自分がわたしを傷つけたんじゃないか、って。それが怖くて……そんな、はかない思いだと思う」
「……そう思うのか?」
「本当にわたしのことが好きだって言うのなら。……自分の思いにくらい、自分で気づいてほしかった」
「…………」
「クレイは優しい人だけれど。優しいから、わたしは自分に無理をしなくちゃいけなくなる。彼に心配かけちゃいけない。迷惑かけちゃいけない……そんな風に考えて、無理をして、自分を偽り続けることになったと思う」
「そうか」
「あの頃は、それでもいいって思ってた。ううん、自分が無理をしているってことに、自分で気づいてなかった。けど、ね……」
「…………」
 マリーナの目が、俺を見上げていた。
 その目に宿るのは。隠そうともしない、素直な……思慕の、念。
「あなたが、気づかせてくれたの。今までのわたしは、無理をしているわたし。わたしは、もっと楽にしていいんだって」
「…………」
「あのときのあなたの言葉が、嬉しかった。わたしは、ずっとそう言ってもらいたかったんだって、それがわかったから」
 あのときの、言葉。
 言われた瞬間、あのときの情景がよみがえってきた。
 部屋にとびこんできたクレイとトラップ。クレイの口から漏れた、マリーナへの、精一杯の告白。
 マリーナがその瞬間どっちの方に行こうとしたのか。それは、今となっては俺にはわからない。
 もしかしたら、彼女はクレイの元に戻るつもりだったのかもしれない。それでもいいと思った。それは彼女の決めることであって、俺が強制するようなことではないから。
 ……それでも。
 言わずにはいれなかった一言が、あった。
「マリーナ」
 俺の言葉に、足を止めるマリーナ。クレイとトラップの視線が突き刺さるのがわかった。俺が何を言い出すのか、と。そんな目で見られるのは、どこか居心地が悪かったから。
 ただ言うだけ言って、背を向けた。
「俺は、そのままの君を見ていたいと思う」
「…………」
「君が何をどう思おうと、俺はそれを受け止めたい。嫉妬心も涙も怒りも悲しみも悔しさも。それまで君が隠してきた感情の全てを、俺は、受け止めてやりたいと思う」
 それは本音だった。
 マリーナと過ごしてきたわずかな日々の中で、俺が彼女に抱いた、唯一にして絶対の、思い。
「君は無理をする必要なんか、無い」
 瞬間、背中に感じたのは。
 数日の間いつも傍にいた……傍にいることが当たり前となった、温もりだった。
「愛してる」
 そう言って、マリーナは、目を閉じた。
「あなたを愛せてよかった。わたしは……幸せにして欲しいなんて望まない。ただ、わたしだけを、そのままのわたしを見て欲しい。わたしは強くなんか無い。甘えたいときだってあるし、泣きたいときだってある。それがわかってくれる人に、愛されたかった」
「…………」
「ギア。あなたは……わたしの思いを、受け止めてくれる?」
「何を今更」
 自然な笑みが漏れた。
 そんな風に笑う彼女の顔は、ひどく魅力的だったから。泣いている顔も怒っている顔も、彼女はいつだって魅力的だった。
 そう。
 いつからそんな風に思っていたのかはわからない。けれど、サニーともパステルとも違う。どこか不器用で、それでいて誰よりも愛を求めている彼女の思いを受け止めてやることが……
 傍にいることで幸せな笑顔を向けてもらえることが、嬉しかった。
「言っただろう? 俺は、そのままの君の思いを受け止めたい、と」
「…………」
「君の気持ちが、嬉しい。心からそう思っている。それだけでは、不満か?」
「……ううん」
 返事はすぐに返って来た。
「とても、嬉しい……ありがとう、ギア」
「……礼を言われるようなことを、した覚えはないな」
 もたれかかってくる柔らかい身体を受け止めて。俺は、随分と久しぶりに、笑みを浮かべたような気がした。
 それが彼女の力なんだと素直に認めながら……
 久しぶりに愛することができた女性の身体を、ゆっくりと、抱きしめた。


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