……わ、わたしは……どうして、こんなところにいるんだろう?
頭の中に霧が立ちこめているみたいで。前後状況がよくつかめなかった。
ええと。落ち着いて。落ち着いて……わたし……さっきまで何やってたっけ? どうして、こんなところにいるんだろう?
必死に自分に言い聞かせながら、きょろきょろと周りを見回してみる。
それは、古い古い洋館だった。
壁も天井もぼろぼろで、今にも崩れ落ちそう、って表現がぴったり来る。だけど、元は豪華なお屋敷だったんだろう、ってことは、装飾品を見ればわかった。
高価そうな絨毯はカビが生えていて、歩くたびに「ぐじゅっ」と嫌な音を立てる。
あちこちからくもの巣が垂れ下がっていて、そこかしこから「かさかさ」って音が聞こえてくるのは……ネズミでもいるんだろうか?
そして。
その屋敷の中にいたのは、わたしだけじゃなかった。
後、五人。わたしと同じように、当惑に満ちた視線で、周囲を見回している人達がいる。
一人は、さらっとした黒髪と爽やかな笑顔が特徴的な、すっごくハンサムな男の子。
多分年はわたしより少し上だと思う。とても背が高くて、腰に下げている剣はとても立派そう。
その彼の隣に立って、
「はて。これはどうしたことでしょう。私は一体何をやっていたんでしょう?」
と一人大騒ぎしているのは、黒髪の彼とは対照的に、随分と背が低い……ぼっさぼさの髪と清潔とは言いがたい服装が特徴的な、何だか変わった男の人。
年齢はよくわからない。わたしよりは多分上だろうと思うけど……
そして、ぼさぼさ髪の人とは対照的に、さっきからただの一言もしゃべらずに困ったような視線であたりを見回しているのは、びっくりするくらい背が高い男の人。
さっきの黒髪の彼も長身だったけれど、その人はちょっと人間離れしていた。
ううん、もしかしたら本当に人間じゃないのかも。確か、どこかに「巨人族」って呼ばれる種族がいるって聞いたことがあるし。もしかしたら?
でも、彼の瞳はとてもとても優しげで。あまり怖そう、とか、そういうイメージはなかった。
そして、その足元でべそをかいているのは、一人の小さな女の子。
すっごく可愛い子だった。ふわふわのシルバーブロンドに、涙をいっぱいためたアイスブルーの瞳。
多分年齢は2歳か3歳くらい? って思うんだけど、彼女の耳は、ぴょこんと飛び出ていて。それは、明らかに彼女がエルフであることを示していた。
だから、もしかしたら、わたしよりずっと年上なのかもしれない。もっとも、とてもそんな風には見えないけど……
「ままぁ……ままぁ……ここどこだおう? ままぁ……」
そう言って泣いている彼女を放っておくことは、とてもじゃないけどできなかった。
気がつけば、わたしだけじゃなく、黒髪の彼と巨人族の彼も、心配そうな目で彼女を見つめている。
……大丈夫。
根拠なんか何もないけれど、何とか彼女を泣き止ませてあげたくて。わたしは、ぎゅうっと彼女を抱きしめた。
わたしの腕の中で、目をぱちくりさせている女の子。見覚えは無い子なのに……どうしてだか、放っておけない。そんな風に思えた子。
「大丈夫だよ。怖がらなくてもいいよ」
わたしがそう言うと、彼女はきょろきょろと回りを見回して……そのまま、こてん、と、わたしの腕を枕に寝てしまった。
あらら。泣き疲れたのかな? もしかしたら緊張しているのかもしれない……不安だよね。わけもわからないまま、こんなところに連れてこられたんじゃ。
「大丈夫だよ。大丈夫だからね」
わたしが彼女の背中を撫でて、そう囁いていたときだった。
「あにが、大丈夫だってーんだ?」
不意に、背後から冷たい声がとんできた。
振り向く。そこに立っていたのは、この場にいる、最後の一人……
多分年はわたしと同じくらいじゃないか、と思う。もしかしたら一つ二つ上かもしれないけど。
背は高いけれど、目を見張るほど、ってわけじゃない。顔立ちも整ってはいるけれど、特筆すべき、ってほどじゃない。
けれど、何よりも目につくのは、その髪だった。染めてるんじゃないだろうか、と思えるくらいに鮮やかな赤い髪。
切れ長の目が放つ眼光は、鋭い。
この場にいる人達は、ほとんどみんな、このわけのわからない状況下で「何があったのかなあ」なんてのんびりしたことを言っていたんだけど。
彼だけは、別だった。その視線はあくまでも厳しく周囲を見回していて。その視線だけで無駄に周囲を不安にさせる、そんな……
「……あなた誰? ここがどこだか、わかる?」
「はあ? わかるわけねえだろ、ばぁか。わかってたら誰が好き好んでこんな汚ねえ屋敷に入るかっつーの!」
問いかけに返って来たのは、そんな可愛くない返事。その乱暴な物言いに、驚くよりまず唖然としてしまった。
な、何て口の悪い人なんだろう……
そう感じたのは、わたしだけじゃなかったらしい。黒髪の彼も、「おい、君……女の子にそんな」と、たしなめるようなことを口添えてくれたけれど。
赤毛の彼に、それを聞くつもりはないようだった。「けっ」と面白くもなさそうにつぶやいた後。再び、視線を巡らせて。
「っ……おい。見てるのはわかってんだよ。何なんだよこの状況は!? とっとと説明しやがれ!!」
と、一声叫んだ。
彼がそう言うまで、わたし達は、他に誰かがいることなんて全く気づいていなかったから。全員が、度肝を抜かれたように振り返る。
視線が、赤毛の彼の視線にかぶさるようにして、一点に集中した。
そして。
最初は、何も無い、と思った。
視線の先にあったものは階段。そこから屋敷の二階に行けるみたいだけど、人の気配なんて全然無い。
気のせいなんじゃ……と言いかけたとき。
唐突に、「どーんっ!」という物凄い音が響いた!!
「わっ!?」
「きゃあああああああっ!!?」
屋敷が揺れたのか、と思った。それくらいにすさまじい振動。
たまらずわたしが目を閉じたとき、どんっ!! と誰かに突き飛ばされた。
な、何するのよっ! と文句を言おうとした瞬間、驚くほど間近に明るい茶色の瞳が迫っているのを見て、一瞬、心臓が大きくはねる。
「あ……」
「馬鹿! ぼーっとしてんじゃねえ!」
「きゃあああああああああああ!!?」
お礼を言う暇もありゃしない。
彼に突き飛ばされた瞬間、さっきまでわたしが立っていた場所に突然立ち上がったのは……火柱。
って!? 何!!? な、何なのーっ!?
「わっ……やっ……」
「腰抜かしてる場合か! おいあんた! 見えるか!?」
「ああ!!」
赤毛の彼に「あんた」と呼びかけられたのは、黒髪の男の子。
彼は、鋭い眼光で剣を構えたか。その姿は、こんなときだというのに思わず見惚れそうになるくらいかっこいい。
ふわあっ……
と、わたしが感心した瞬間。
『そこかっ!!』
赤毛の男の子と黒髪の男の子の声が、重なった。
そして。
その声と同時に走ったのは、閃光。黒髪の男の子が剣を振り下ろしたんだと、わたしは、しばらくの間気づくことができなかった。
同時に、びしいっ!! という、何かを切り裂くような音が、走る。
そして……
次の瞬間、閃光と同時に、爆発音が、あたりに轟いた!!
そこに立っていたのは、見たこともない一人の男性だった。
いや、それを言えば……この場で見たことある人なんて誰もいないんだけど。
「誰だてめえっ!? いきなり何しやがる!!」
状況から真っ先に立ち直ったのは、わたしをつきとばしてくれた赤毛の彼。
わたしはもう、眠ってしまったシルバーブロンドの女の子を抱えて、ただ震えていることしかできなかったのに。
その人は、恐怖とか、そんなものは一切感じていない、強い強い眼差しで彼を見据えていて……
「私が誰かを知る権利は、おまえには無い。今は、まだ」
そうして。
赤毛の彼の問いに簡潔に答えて。人影は、ゆっくりとわたし達の方へと降りて来た。
宙に、浮いた状態で。
間近で見れば、その人は随分と長身だった。ちょうど、黒髪の男の子と巨人族の男性の中間くらい。
わたしから見ればまさに見上げるような長身。けれど、何故だか。光が当たっているのに、その人の顔だけは影に包まれているように見えた。
顔立ちはよくわからない。全身をすっぽりと覆う黒いマントを羽織っていて。
全身から放たれるのは……何というか、身も蓋もない言い方をすれば、「私は悪党のボスです」って主張してるみたいな……
「な、何なんですか、あなたは。どうして僕達を? いきなり攻撃なんて……」
震える声で全員の気持ちを代弁してくれたのは、剣を振るった黒髪の彼。
彼の剣は小刻みに震えていた。そのハンサムな顔は真っ青になっていて、相当に怯えているんだろうなあ、ってことは見ればわかった。
当たり前だよね。多分、わたしだって同じような顔をしていると思う。
い、いきなり炎をぶつけてくるなんて! 何考えてるのよっ……へ、下手したら死んでるところだったんだよ、わたし!?
この人、魔法使いなのかな? 何で、いきなりこんなっ……
「その答えを、知りたいか。自分達がどうしてここに招かれたのか。どうしてこんな目に合うのか……答えを、知りたいか」
そして。
予想通りというのか何というのか、男性は、わたし達の問いに答えてくれるつもりは全く無いようだった。
ただ、ふわふわと空中にたたずんでいるだけ。そして、何を考えているのかわからない目で、わたし達を見回して……
「パステル」
まだ教えていないはずの、わたしの名前を、呼んだ。
「クレイ」
そう言われた瞬間、黒髪の彼の顔が、ぴくりと引きつった。クレイ……それが、彼の名前?
「キットン」
「はいい!? な、何ですかあっ!!?」
その名前に反応したのは、さっきから「一体どういうことなのですかねえ。あなたわかりますか」なんて巨人族の彼に同意を求めていた、ボサボサ頭の彼。
「ノル」
次に身を引きつらせたのは、ただ困ったような顔で「俺もわからない」とだけ繰り返していた、巨人族の彼。
「ルーミィ」
その名前に反応する人はいなかった。多分、それは、その名前で呼ばれるべき人が、わたしの腕の中ですやすや眠っているせい。
「トラップ」
そして。
最後に呼ばれた名前に、ぎろり、と、それはそれは凄絶な目つきで顔を上げたのは……さっきから、一人不機嫌な顔をしている、赤毛の、彼。
クレイ、キットン、ノル、ルーミィ。そして、トラップ。
それが、彼らの名前……?
知らない名前のはずだった。それなのに、妙に懐かしい名前に感じるのは、どうしてだろう。
わたし……彼らを、知ってる? ……ううん。そんなわけ、ないよね。だって、わたしは、今の今まで彼らの名前を思い出すこともなくって……
わたしの名前はパステル。職業は……
……あれ?
そこで。わたしは愕然とした。
パステル、というのが自分の名前だと。それだけははっきりと確信できるのに。
それ以上は何一つ思い出せない自分に気づいて。
あれ? あれ……ええと、ちょっと待って。
わたしはパステル。……で、何で、こんなところにいるんだっけ?
わたしは何をしていたんだっけ? どうして、こんなところにいるんだっけ? 彼らは……
慌てて周囲を見回したけれど、わたしの疑問に答えてくれそうな人は誰もいない。
それどころか、全員がわたしと同じような、ひどく戸惑った顔で周囲を見回していて……
ま、まさか……
嫌な予感が走った。
まさか……わたしだけ、じゃないの?
自分自身のことすら思い出せない。それは、わたしだけじゃなくて……全員が……?
「自分の状況を知りたいか。自分が何者なのか、どうしてここにいるのか……それを、知りたいか?」
そんなわたし達の様子を満足げに眺めて。
一人、何もかもわかっている、という声を出したのは、マント姿の男性。
そして。
「知りたければ、一人で、私の元に来ることだ」
響いたのは、冷血にして簡潔な宣告。
「私が誰なのか、一体何が起きたのか……それを知る権利を得るのは、この中でただ一人」
立てられる一本の指と、突き刺さる視線。
「この中でただ一人だけが、私と対峙する権利を得る。そして、私を倒したそのとき……その者は何もかもを知ることとなるだろう」
「……それは、つまり。あなたを倒さなければ、我々の記憶は戻ってこないということですか?」
その言葉に、ボサボサ頭……キットン、というらしい彼が問いかけて。
それに、男性は「その通りだ」と、深く深く頷いた。
え……待って。ちょっと、待ってよ。
な、何なの、それ……倒す、って。一人だけ、って……
「私と戦う権利を得るために。お前達には、これから殺し合いを演じてもらう」
そうして。
次に響いたのは……一体、何を言っているんだろう、と。
そう聞き返したくなるような、どこまでもわけのわからない、言葉。
「ここから脱出するために、失われた記憶を取り戻すために。邪魔者を排除して、私の元まで来るがいい」
ふわり、ふわりと。宙に浮いている男性の様子は、何一つ変わらない。
わたし達の表情が強張っていることなんか、気にもかけていない。そんな様子で。
「どのような方法を取ろうと自由だ。ただし……私を倒さなければ、この屋敷からの脱出はままならない。この中に食料や水といったものは無い」
「…………」
「記憶を取り戻して、生きてこの屋敷から脱出したければ。自分以外の五人を皆殺しにしろ」
その言葉に。
ガタンッ! という大きな音が、背後から響いて。
わたしは、びくりっ、と身を引きつらせて。反射的に、振り返っていた――
振り向いた先にいたのは、赤毛の男の子……トラップ、だった。
彼がいたのは、屋敷の玄関前。
い、一体いつの間にっ……!!
唖然とするみんなの前で、彼は、そのドアのノブをがちゃがちゃとひねって、どんどんと拳で叩いて。最後には長い脚で蹴りをいれて。
そこまでして、ようやくそのドアが開かないってことを認めたのか。肩をすくめて、こっちの方に戻ってきた。
「俺達を逃がすつもりはねえみてえだな?」
「理解が早くて助かるよ」
トラップの言葉に、黒マントの男性は低い笑い声をあげた。何だか、とても耳障りな、きいきいとした笑い声。
っ……ど、どうすればっ……
じわり、と背中に汗がにじんできた。玄関以外に逃げ道はないのか、と、必死に辺りに視線を巡らせて……
そのとき、だった。
「手伝え!!」
響いたのは、トラップの声。
その言葉が誰にかけられたのかはわからないけれど。わたしは、それに反応することはできなかった。
そして、そんなわたしには全く構わず、トラップは素晴らしいスピードで走り始めて……
真っ先に意図を察したのは、黒髪の男の子……クレイ。
何だか、この二人、息がぴったり……知り合い、なのかな?
感心するわたしの前で、クレイがさっ、と身をかがめて組んだ腕を差し出した。
それを足がかりにして、トラップが、素晴らしい身のこなしで高く高くジャンプをして……
……あ!!
その光景を見て、わたしは、ようやく彼らの意図を悟った。いや、遅すぎるなあとは、自分でも思うけれど。
そっか……な、何か、何かわたしにも手伝えることは……
ルーミィというらしい女の子を小脇に抱え直して、おたおたと自分の荷物に手をかける。すると、中から出てきたのは……クロスボウ。
……え?
「それ」を見て。わたしは喜ぶよりも先に唖然としてしまった。
な、何で。何でわたし、こんなもの持ってるの?
そして、改めて自分の服装を見下ろしてみれば。
セーターにミニスカート、という服装の上に身につけている、皮のアーマー。腰に差しているのは、ショートソード。脚を守っているのは、ブーツ……
何? この格好。まるで、冒険者みたいな……
……みたい、じゃなくて……もしかして、冒険者なの? わたし、は……
何が何だかわからない。自分のことが思い出せない。
それが怖くて、わたしが、状況も忘れてうずくまろうとした瞬間。
「うあっ!!」
響いた悲鳴に、ハッ、と顔をあげた。
そうだ……今は、落ち込んでいる場合じゃない。
慌てて振り返ってみると、ちょうど、クレイとトラップの二人が、まとめて床に叩きつけられるところだった。
何が起きたのかはわからない。多分、あのとき、トラップは……クレイの身体を足がかりにして、空中の黒マントの男性を捕まえようとしたんだろうけれど。
どうやら、マントの男性は一筋縄ではいかない相手だったらしい。二人は、床の上で身を折ってうずくまっている。
だ、大丈夫なの!!?
慌てて駆け寄ろうとしたけれど、わたしよりも、キットンと呼ばれたボサボサ頭の男性の方が早かった。
彼は、慣れた様子で二人の身体を調べると、「大丈夫。別に骨も折れてないみたいですし。命に別状はありませんよお。ぎゃっはっは」と笑っていた。
……って! 笑い事じゃないでしょ!? な、何なのあの人っ! 手つきは慣れていたみたいだけど……もしかして、お医者さん、なの?
と、とにかく! こんなときに……
一言文句を言ってやろうか、と、わたしが一歩脚を踏み出したとき。
同時に、トラップが、立ち上がった。
クレイはまだ倒れたままだったけれど、どうやら意識は取り戻したらしく、額を押さえてうめいている。
だ、大丈夫!?
どう声をかけようとした瞬間、だった。
ぎろりっ!!
トラップの視線が、わたしの方に向いた。
ううん、わたしだけじゃない。おろおろと様子を見ていたノルというらしい男性、そして、わたしが抱えているルーミィ。
さらには、自分の足元に倒れているクレイと、うずくまっているキットンを見て。
最後に、黒マントの男性を、見上げた。
背筋が寒くなるような、とてもとても冷たい目つきで。
「……なるほど」
ゾッとするような、低い声だった。その端正な顔立ちに宿るのは、凍りついたような、笑み。
「どうやら、俺達は、あんたの言うことに乗らねえ限り、生きてここからは出れねえみてえだな」
「その通り」
ふわり、ふわりと。トラップを眺めながら、黒マントの男性はさらに高い場所へと浮かんで行った。
話すことは全て話してしまった、と。そう言いたげに。
「楽しいショーになることを、楽しみにしている。逃げられるなどと、甘いことは考えないことだ」
ふわり……ぱちんっ!!
まるで、シャボン玉が弾けるように。
黒マントの男性の姿は、空中に掻き消えた。
残されたのは、わたし達だけ。
殺しあえ、最後の一人になるまで。
脳裏によみがえる、男性の言葉。そして……
「…………!」
びくんっ、と、身体が震えた。
空中をにらみつけていたトラップが、そのまま、またわたしの方に視線を向けてきて。
その目が、とても真面目で。とても怖い目に見えたから。
まさか、本気のわけがない。
だって、わたし達はお互いに知り合いでも何でもなくて。憎くもない相手なのに、いきなり殺し合いをしろなんて言われてもっ……
「……あ……」
同時に気づく、痛い事実。
お互いに、知り合いじゃない、ってことは。
逆に言えばっ……
瞬間、わたしはルーミィを抱えたまま身を翻していた。
明確に何かを感じたわけじゃない。ただただ、怖くて。
トラップのあの目が、彼が「本気」であることを伝えているような気がして。
自分が生き延びるために、他人を殺す。
赤の他人だからこそ。自分自身と引き換えにしても守りたいなんて、そんな風には思えないんだってことに、気づいてしまったから……!!
逃げ出すわたしを追ってくる人は誰もいなかった。
背後から、「待って! 君、ちょっと……」っていう、クレイの声が聞こえてきたような気がしたけれど。
わたしは、足を止めることは、できなかった。
はあ、はあ、はあ……
息が切れた。
走って走って、どれだけ走ったのか自分でもよくわからなくなって。
ようやく足を止めたとき、わたしは、屋敷の相当奥深くまで入り込んでいた。
こっ……ここ、どこだろう?
ようやく周囲を見回す余裕ができた。人の気配なんか全然無い場所。暗くて汚い廊下と壁。飾り気なんか何もない、とても人が住む場所とは思えない……
「っ…………!!」
不意に吐き気のような感覚がこみあげてきて、わたしはその場にしゃがみこんだ。
今になって、ようやく自分がどんな立場にいるのかがわかって。
ようやく……これから何をすべきなのかを悟って……!
「あ……あっ……」
「ん……んん〜〜?」
瞬間的にパニックになりそうになったわたしの心を冷ましてくれたのは、腕の中から聞こえた可愛らしい声だった。
「う〜〜……ルーミィ、お腹ぺっこぺこだおう……」
「……あ……」
そうだ、この子が……いた……
情けないことではあるけれど。その声を聞いて、わたしは、ようやく、無我夢中で彼女を連れ出してきたことを思い出した。
ルーミィ。どうしてこんな場所にいるのかはわからない、とても可愛い、幼い女の子。
ぴょこんと飛び出た耳からエルフであることがわかる。ふわふわした、綺麗なシルバーブロンドの……
「おねえちゃん、誰だあ?」
わたしの顔を見て、彼女は、不思議そうに首を傾げていた。
はは。そうだよね。驚くよね。
どうして彼女みたいな子がここにいるのかわからない。お父さんやお母さんはどうしたんだろう?
聞いてみたいけれど。多分、彼女にはまだ答えられないだろうなあ……
そう思ったから。わたしは、聞いてみるかわりに、ぎゅっ、と彼女の身体を抱きしめた。
ルーミィ。ここで初めて出会ったはずの、エルフの女の子。
なのに、どうしてだか。以前にもこんなことがあったような気がした。
そんなわけが無いのに。
「ルーミィ……」
「ルーミィ?」
「そう。ルーミィ。あなたの名前だよね?」
「ん〜〜……わかんないんだお……」
わたしの言葉に、彼女はぽよぽよした眉をしかめて、「うーん?」と首を傾げた。
その仕草は抱きしめたくなるほど可愛いけれど、でも、浮かれている場合じゃない、と、どうにか自分をいさめる。
彼女も……なの?
その様子は、嘘をついているようには見えなくて。それが、余計に不安を煽った。
わたしもだったから。
わたしも記憶がはっきりしない。かろうじて、「パステル」っていう名前は覚えているけれど。でも、自分が今まで何をしていたのか、どうしてこんな場所にいるのか……それは、よくわからない。
どうして。どうして……?
「ねえルーミィ。ルーミィ、っていうのがあなたの名前。ねえ、あなたはどうしてここに来たのか、覚えてる?」
「…………?」
わたしの言葉に、ルーミィはきょとんと首を傾げるだけ。
はは。まあそうだろうなあ、とは思っていたけどね。でも、やっぱり、覚えてないんだ。
……どうすればいいんだろう、これからっ……
「……おねえちゃん?」
「パステル」
「ぱーるぅ?」
「パステル。それがわたしの名前だよ、ルーミィ」
「……ぱーるぅ?」
囁いて、小さな小さなルーミィの身体を抱きしめた。
浮かんでくるのは、マントの男性の言葉。
殺しあえ。最後の一人になるまで殺しあえ。私を倒すことができたら、そのときは、この屋敷から出してやる……
「できるわけっ……できるわけないじゃない、そんなことっ……」
「……ぱーるぅ……?」
不安そうな顔をするルーミィに微笑みかけて。
わたしは、拳を固めて立ち上がった。
どんな理由があったとしても。誰かを殺すなんて、そんなの、冗談じゃないっ……
い、いくら何でもっ! ここはただの家で……その気になれば、窓からだって、ドアからだって、何とでも脱出はできるはず。
あの人……トラップは、ドアに鍵がかかってる、って、あっさり諦めていたけど。
わたしは、そんなことじゃ諦めないから。どんなことをしたって、絶対に、絶対に……
「ルーミィ、行こう」
「行くんかあ?」
「そう。行こう。どうにかして……お外に、出よう」
きょとん、とするルーミィの身体を抱っこしたまま、わたしは歩き出した。
窓からなら、ガラスを割って外に出られるかもしれない。
ううん、こんな古いお屋敷だもん。探せば、壁に穴が開いてるところだって見つかるかもしれない!
とにかく。何としても……ここから、出なくちゃっ……
「行こう」
自分に言い聞かせて、歩き出したときだった。
うっ……わあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!
身の毛もよだつような悲鳴が、辺りに響き渡ったのは……
「ぱーるぅ! ぱーるぅ!?」
がくがくと、髪をひっぱられた。
けれど、それに「やめなさい」って言うこともできなかった。
何……何、なの、今の、声、はっ……
「あ……」
忘れようとしても忘れられない、マントの男性の言葉が、蘇る。
殺しあえ。助かりたければ、殺せ?
あの人達を? 今、ここで、こんなに不安そうな目で見ているルーミィを……?
できるわけがない。そんな結論がすぐに出た。
わたしにはどうしたってできない……第一、わたし以外の人達……
クレイは剣を持っていたところから見ても、ファイターだと思う。
巨人族のノル。あんな大きな身体の彼が、全力を出したらどれだけの力が出るのか。それは、わたしには想像もできない。
キットンは、そんなに争いに向いているような人には見えなかったけれど……どうしてだか。彼はすごく頭が切れるんじゃないか、と。そんな印象があった。
トラップは……
……何だか、怖い。彼は……もしかしたら……
「ぱーるぅ?」
「ルーミィ……」
怖い。怖いけれど……
ここで、逃げても、何も変わらない。
そう思ったから。わたしは、ルーミィの身体を抱きしめて、一歩一歩、前に向かって歩き始めた。
わたしは誰かを傷つけようなんて思ってない。第一、傷つけようったって、わたしじゃ彼らには敵わないだろう。
それを、わかってもらおうと思って。わたしには敵意なんか無い、みんなで力をあわせれば、きっと何とかなるよ、って。
それを、伝えたくて……!
「行こうね、ルーミィ」
「うん?」
一度は逃げたのに、そんな風に思うことができたのは、ルーミィの目を見たからだった。
何もわかっていない無邪気な目で、わたしを慕ってくれた。
彼女のそんな目を見て、わたしは、思ったんだ。
絶対に守ってあげなきゃ、って。
あそこでわたしが逃げ出したことで、彼らにどんな目で見られたか……まずは、それを謝って。
そうして、みんなで力をあわせよう、って!
「大丈夫。言えば、わかってくれるはずだよ。大丈夫だよ……」
「ぱーるぅ……?」
一歩一歩歩き出す。
悲鳴はもう聞こえてこない。あれっきり、わたしが進む先は、怖いくらいに静まりかえっている。
あれは、一体何だったんだろう……
誰の悲鳴だったんだろう? 彼らのうちの誰かだと思うけれど、ちらりと聞いただけの声を聞き分けることは、わたしにはできなかった。
一体……
「っ!!」
曲がり角を曲がった瞬間。
全身が、一気に強張るのがわかった。
「っ……あっ……!?」
「っ!! 君はっ……」
曲がった先は、玄関だった。
あの、最初にわたしがみんなと出会った……マントの男性と会った場所。
どこをどう歩いたのかは全く覚えてないけれど、結局元の場所に戻ってきたんだなあ、と。
そんな呑気なことを考えていたのは、多分現実逃避、だろう。
そこに立っていたのはクレイだった。
そこに倒れていたのはノルだった。
そして。
ノルの後ろで凄絶な視線でわたし達をにらんでいたのは……
トラップ、だった。
キットンの姿は見えない。わたし同様逃げ出したのか、それはわからないけれど。
「な……に……」
「馬鹿っ! どうして……戻ってきたんだっ!!」
言いかけた言葉は、途中で遮られた。
視界いっぱいに青が翻る。その瞬間、わたしの身体にしがみつくようにして、クレイが、覆いかぶさってきた!
びしっ!!
同時に響く異音。わたしの上で、クレイが、「つっ……」と、小さく呻くのが、聞こえた。
……これ、はっ……
「あ、なた……トラップ!!」
「ちっ……」
小さな舌打ちの音を残して、トラップは素早く身を翻した。
軽い。反射的に思ったのは、そんな、何とも場違いな感想。
驚くほどの身の軽さで、トラップは、そのまま階段を駆け上がると、どこかへと姿を消した。
後に残されたのは、わたしと、ルーミィ。そして、クレイ……ノル。
……そうだっ!
「クレイ! あの人は……ノルはっ!?」
「……パステル……だったっけ?」
わたしの言葉に、クレイは、ゆっくりと身を起こした。
その額から流れ落ちるのは、一筋の、血。
振り向けば。わたしの頭のすぐ横の床にめりこんでいたのは……これは……
パチンコの、玉?
「今の……トラップが……」
「…………」
「ノル! そうだっ……ノルは?」
「パステル! ……見ない方がっ……」
わたしの言葉に、クレイはそう言って腕を引こうとしたけれど。
それは、遅すぎた。
わたしは見てしまっていた。ノルが、一体どうなったのかを。
「……どう、して……」
「…………」
「何がっ……ねえ、一体ここで何があったの!? クレイっ!!」
「…………」
胸元をつかんでがくがくと揺さぶっても、クレイは無言だった。
わたし達の前で、ノルが倒れていた。
うつぶせに倒れたその身体は、わたしの力では起こすこともできなかったけれど。
その下からじわじわと広がっていく赤い染みと、そして、どれだけ揺さぶっても叩いても反応を返さない身体。
それが、答えだった。
しばらく、誰も何も言うことができなかった。
シーンと静まり返った玄関先。人はたくさんいるのに、それは何だか凄く異様な静けさを保った空間。
姿を消したトラップとキットン。二人がどこへ行ったのかはわからない。追いかけようという気にもなれない。
わたしに抱きついて震えているルーミィ。その彼女を抱きしめることでどうにか気持ちを落ち着かせようとしているわたし。
そして。
そんなわたし達を、ただただ優しい目で見守ってくれている、とてもかっこいい男の人……クレイ。
「何が……あったの?」
ようやく言葉を出せたのは、随分時間が流れてからのことだった。
倒れたまま動こうとしないノル。どうにか手当てをしようとしたんだけれど、巨人族たる彼の身体は、わたしの力では到底動かすことなんかできなかった。
何より、動かしても無駄だ、と、クレイに止められた。
触れた彼の身体はとても冷たくて。到底血が通っているようには思えなかったから。彼の言うことが正しいと理屈ではわかっていたけれど。
「だけど、このまま放って行くなんてっ……駄目、だよっ。そんなのっ……」
どうしても見捨てることができなかった。
わたしは、彼に会ったこともないはずなのに、どうしてこんな感情を抱くのかよくわからない。
けれど、それでも。倒れているノルを、放ってはおけないと、どうしてだか……強く、強くそう思った。
放ってはおけない、と繰り返すわたしに、クレイは悲しい目を向けて。そうして、黙って、自分の羽織っていたマントを、彼の冷たい身体に、かけた。
あれから、どれくらいの時間が流れたんだろう……
「ねえ……クレイ。何が、あったの? ここで……」
「…………」
「わたしがっ……ここから逃げた後……何が……?」
「……あの後……」
がくがくと彼の腕を揺さぶると。クレイは、しばらくためらっていたみたいだけれど、やがて、重たい口調で呟いた。
あの後。わたしとルーミィがとび出した後。
次に動いたのは、あのよくわからない背の低い男の人……キットンだったらしい。
彼は、しばらくぽかんと残った人達とわたしが出て行った扉を見つめた後、あわあわとよくわからない悲鳴をあげながら逃げ出したんだとか。
……確かに。彼、どう見ても戦いが得意な風には見えなかったもんね……クレイと、ノルと、トラップ。この三人に囲まれたら……
い、いや、何考えてるの!? わたしったらっ……
慌てて首を振る。この、優しい目をしたクレイと、あんなに穏やかな顔をしたノルが、まさかっ……
でも……
「じゃあ……じゃあっ……ノルを、……したのは?」
殺した、という台詞を吐くのが怖かった。
わたしが震える声でつぶやくと、クレイは、唇を噛み締めて首を振った。
「……奴の言うことは正しいんだ。それしか助かる方法が無いのならためらわない、一番大切なのは自分自身だって……」
「…………」
「けどっ……俺にはできなかった……」
顔を抑えてうめくクレイ。彼の掌から、透明の雫が滴り落ちたように見えるのは……わたしの、気のせい?
あのとき、あの場所で何が起きたのか。
それは、見ていないわたしには推測することしかできないこと。
けれど、クレイの顔を見れば……そこで何があったのかは、薄々察しがついた。
「クレイ……」
「俺は馬鹿だ……目の前で武器を構えている人間がいるのに、どうしても、反撃することができなかった。話せばわかるはずだって、そんな甘いことを考えてっ……」
「…………」
「俺を……俺をかばって、ノルはっ…………」
「…………」
「……悪い。今更こんなことを言ったって、仕方が無いのはわかってる。でも……」
「……ううん」
クレイの言葉に首を振って、わたしは、彼の手をそっと握った。
大きな手だった。豆だらけで、随分鍛えているんだろうなあ、ってことは、剣技には詳しくないわたしでもわかった。
何より、暖かかった。
「武器を構えられたからって、武器で対抗してたら……何も、変わらないよ……」
「……パステル」
「トラップだってっ……今は、きっと混乱してるだけで。話せば、わかってくれるはずだよ! キットンも……」
「…………」
「探そう? クレイ」
そう言って。わたしは、彼の手を引いて、立ち上がった。
疲れたのか、再びうつらうつらし始めるルーミィが、その振動でぱっちりと目を開いて「ぱーるぅ?」と可愛らしい声をあげる。
その様子を見て、クレイの顔が、ほころんだ。
「パステル」
「行こう、クレイ。みんなを、探そうっ……きっと、きっとみんなで力を合わせればっ……何とか、なるはずだよ。きっと……」
「…………」
「みんなで、どうやって脱出するか考えよう? ね? 最初っから諦めるなんて駄目だよ。……行こう」
「……ああ」
その言葉に大きく頷いて、クレイは立ち上がった。
「そうだな……そうだよな……悪い、みっともないところ、見せちゃって」
「ううん」
みっともなくなんか、ないと。そう言ってわたしが首を振ると、クレイは、それはそれは素敵な笑みを浮かべて、手を差し出した。
「改めて、自己紹介するよ。俺の名前はクレイ。クレイ・S・アンダーソン」
「わたし、パステル。パステル・G・キング。この子は、ルーミィ」
「ルーミィだお!」
「そうか。じゃあ、これから、よろしく、パステル。ルーミィ」
「よろしく!」
「よろしくだおー!」
こうして。
わたしは、クレイ、ルーミィと、三人で、連れ立つようにして、玄関ホールを後にした。
そこに横たわるノルの身体に、「ごめんなさい」とだけ告げて。
ごめんなさい。ごめんなさい。
きっと戻ってくる。どうにかここから逃げ出す方法を見つけて、助けを呼んで……そうしたら、戻ってくるから。
だから、それまで……ごめんなさい。
そんなわたしの肩を叩いて。クレイは、小さく首を振ると、歩き始めた。
彼の背におぶわれたルーミィの無邪気な顔が、どこまでも、どこまでも、痛かった。