「嫌っ……」
「パステル……」
「嫌っ……嫌だよ、ギアっ……こんなの、こんなの嫌ああああっ!!」
「パステル。聞き分けのないことを言わないでくれるか?」
わたしの泣き声にも。ギアは、うろたえた様子は全く見せなかった。
「君が選んだんだ。そして、俺は彼を助ける……これは当然の報酬だ。君も納得した。そうだろう?」
「けどっ……こんなのっ……」
無理やり塞がれた唇が痛かった。
キス……? それともっ……うるさいから、黙れって……そういうこと?
わからない。わたしにはわからないよ。
どうして? ギア……どうして、こんなことっ……
――どんっ!
冷たい地面に押し倒された。
ひやり、とした冷気が首筋に触れて。わたしは、今度こそ悲鳴をあげていた。
どうしてこんなことになったのかわからなかった。
だけど、原因ははっきりしていた。
わたしのせいだっ……
びりっ! という音がして、セーターが引き裂かれた。
忍び寄るギアの手は冷たい。いつもわたしを暖めてくれた、トラップの手とは違うっ……
「いやっ……」
「…………」
視線を合わせた瞬間、凍りつきそうになった。ギアの目が、とてもとても冷たかったから。
どこを見たのかわかった。セーターが破かれて、さらけだされた胸元。
そこには多分、トラップを受け入れたと言う赤い痕が、まだいくつも残っているはずでっ……
「やだ……」
「……そうか」
全く視線をそらさず、ギアは淡々とつぶやいた。
「既に遅かったのか、俺は」
「ひっ……」
つっ、と、痕の一つにキスが降りて来た。
昨夜のトラップと同じように、ひどく正確に、なぞられる。
怖かった。
ギアが何を考えているのか……ううん、何を考えているのかはわかっても、どうしてこんなことを考えたのかがわからなくて。
すごく、すごく怖かった。
だけど、一つだけ確かなことはっ……
「やっ……やめてっ……お願いだからっ……やめてっ……い、いやあああああああ!!」
乱暴に胸をまさぐられた。無理やり足を開かされた。
わたしがギアに力でかなうわけがない。それがわかっていても、抵抗せずにはいられなくて……そして、それは全て無駄なことだと思い知らされて。
わたしは、絶叫していた。この声がどこにも届かないことはわかっていても。それでも、叫ばずにはいられなかった。
トラップっ……
視線をあげる。
わたしの一番大好きな人、一番大切な人が。
うつろな視線で、わたしを見ていた……
わたしとトラップが、二人だけであるダンジョンに挑戦したのには理由があった。
実は、その、わたしは……トラップと、数ヶ月前から付き合っていたりする。
そう。いわゆる恋人同士、という関係になって……それで、その……みすず旅館にいると、なかなか二人っきりになれないから。だから、最近のわたし達は、しょっちゅう外出しては、外で落ち合って二人きりになる……ってことを繰り返していた。
そんなときだった。
その日も、二人きりのデートを楽しんで。そうして外出してみると、みんなが倒れていた。
クレイも、ルーミィも、キットンもノルも、シロちゃんまで!
原因は、どうやらキットンが調合していた薬にあったらしい。
その薬にすごく有害な病原菌が含まれていたとかで……とは、息も絶え絶えなキットン本人の台詞だけど。
とにかく、こうしてはいられない。
その病原菌は凄く危険なもので、下手したら命に関わる、と言われて。わたしとトラップは、取るものも取り合わず、急いであるダンジョンに向かうことにした。
何しろ、薬の調合ができるキットン本人が倒れてしまったから。普通の薬屋では、その特効薬は手に入らないって聞いたから。
わたし達にできたのは、「どんな病気もたちどころに治す」って噂の薬草が生えているそのダンジョンに行くことだけだった。
だけど……甘かったんだ。
そんな凄い薬草が生えているダンジョン、普通なら、色んな冒険者が押し寄せて……薬屋さんにだって流通してるはずだよね?
そこのダンジョンにしか生えてないってことは、それだけ、そこが危険な場所だっていう証明みたいなものでっ……
「パステル、危ねえっ!!」
「トラップっ……!!」
みんなを助けなくちゃ、と闇雲にダンジョンの中を突っ走って。
瞬間、とんできたのは、そんな鋭い声。
そして。
わたしの目の前で、トラップの身体が、一気に吊り上げられた。
そこに仕掛けられていた人工の罠。それを誰が作ったのかはわからない。
だけど、確かなことはっ……
わたしの真上。天井からぶら下げられているトラップ。
いかな彼といえど、簡単には抜け出せないだろう。頑丈そうな鎖でぐるぐる巻きに縛り上げらて、逆さ吊りにされて。
早く助けないとっ……いくら、トラップでもっ……
わたしじゃ助けられない。手も届かないあんな位置の鎖を、わたし一人でどうにかするなんて……絶対にできないっ……
「ぱす、て……」
頭に血が上って苦しいんだろう。トラップは、息を切らして言った。
「……に、げっ……」
「…………!」
逃げろ、って言われてるんだとわかった。
わたし一人でこのダンジョンをクリアすることは絶対に無理。危ないから逃げろって……そう言ってるんだって、わかった。
だけどっ……
「待ってて!」
叫びながら、わたしは走り出していた。
「待ってて! 絶対、絶対助けを呼んでくるからっ……お願い、待ってて! トラップ!!」
ごめん、ごめんね。わたしに力が無くて。
一人で助けてあげられなくて……ごめんねっ……
ぼろぼろと涙を零しながら。
わたしは、必死にダンジョンを抜けて、一番近くの街へ向けて、走っていた。
方向音痴のわたしが迷わずその街にたどり着けたのは、奇跡だと思う。
ううん。それだけトラップのことを思って、みんなのことを思って必死だったから……そういうこと、だよね?
とにかく助けを呼ばなきゃと思った。
冒険者ギルドに行けばっ……きっと、誰かっ……
「あのっ!」
ばんっ!
それらしき建物にわたしが飛び込んだ瞬間、中にいた人が、一斉にわたしの方を振り向いたのがわかった。
みんな強面のおじさんばかりで、一瞬怯みそうになってしまったけれど……ここで怯えてちゃ、駄目!
「すいません、あのっ……お願いが……」
「……パステル?」
その瞬間。
部屋の隅から、すごく驚いたような声がとんできた。
……え?
そして。
振り向いたわたしと目があったのは、ナイフでそぎ落としたような無駄の無い身体つきをした、鋭い美形の……
「ぎ、ギア!?」
「パステル。どうしたんだ? こんなところで……」
「ギア、ギアお願い! 助けてっ……」
そのとき。
わたしには、ギアにすがるしかなかった。
彼なら無条件で助けてくれるはずだと、勝手な期待を抱いたわたしが悪かったのはわかってる。
それでもっ……
トラップを助けるためにっ……他に、どんな方法が残されてたの?
教えて……わたしは、他にどうすればよかったの……!
わけがわからない、という顔をするギアをひっぱって、外に飛び出した。
一直線にダンジョンに向かう。そんなわたしを、ギアは戸惑った目で見ていたけれど。
入り口まで来たところで、「パステル!」と強い声で呼び止められた。
ぐっ、と腕をつかまれる。振り向くと、困ったような、怒ったような目をしたギアが、じっとわたしを見ていた。
「パステル。一体どうしたんだ? 頼む。事情を教えてくれないか……君は、このダンジョンがどんなに危険な場所かわかっているのか?」
「ギア……」
その、何もかも見透かしてしまいそうな目で見つめられて。
わたしは、ようやく、自分がどれだけ軽率なことをしようとしているのかに気づいた。
いくらギアの腕が立つからって、こんな危険なダンジョンに、わけも説明せずいきなり連れ込んで……いいわけ、ないよね。
「ごめん。ごめんね。ギア……実はっ……」
とにかく早くトラップを助けたい。
その一心で、わたしが事情を話すと。
それを聞いたギアの顔が、少しずつ、強張ってきた。
「……ギア?」
「…………」
早く助けて欲しいのに。
ギアは、しばらく何も言わず……ただ、少し怖い目で、じっとわたしを睨んで……
「……ギア?」
「パステル」
そうして、少しの沈黙の後。
ギアの口から出てきたのは……信じられない、言葉。
「パステル。……君は、俺を傭兵だとわかっていて言ってるのか?」
「……え……?」
「俺は傭兵だ。雇われればどんな仕事でもこなすが……雇うには、それ相応の報酬をいただいている。君は、それをわかっていて、トラップを助けて欲しいと……そう言っているのか?」
「…………え?」
言われた意味がわからなかった。
報酬。そう……確かに、ギアは傭兵だから。
タダで腕を貸してくれ、なんて……そんな虫のいい話を引き受ける理由は、どこにもない。
だけど、わたしは信じていた。ギアならきっと助けてくれるって、信じていたから……
「ギア……?」
「もちろん助けるのは構わない。けれど、それなりの報酬は約束してもらう……それでいいのか? パステル」
「わ、わかった!」
そんな風に言われても、わたしは信じていた。
ギアはわたし達が貧乏だってこともよく知ってる。きっと、そんな無茶なことは言ってこないだろうと。
むしろ、冗談なんじゃないか、って。そんなことまで期待していた。
信じていた。
信じたかった。
だけど……
「あそこ! あそこにっ……トラップ! トラップー!!」
さっきと同じ位置に、トラップはぶら下がっていた。
その顔色はひどく悪い。目を閉じて、ぐったりとしていて……一瞬、死んでしまったんじゃないかとさえ思った。
だけど、わたしが何度も何度も声を枯らして叫ぶと、うっすらと目を開けてくれた。
「トラップ! 今助けるから! もうちょっとのっ……」
そう叫んだとき。
すっ……と後ろから伸びてきた手が、わたしの口を塞いだ。
「んっ!? んっ……」
「……トラップ」
冷ややかな声が、ダンジョン内にこだまする。
「おまえなら、もう少しは耐えられるだろう?」
「……………?」
何を言い出すのかわからなかった。
だけど、振り仰いだときにぶつかったギアの視線は。
とても、とても冷たく……そして。
次の瞬間に地面に押し倒されるまで。わたしは、彼が何を考えていたのか、何を求めていたのか……ちっとも、気づかなかった。
「いやだっ……こんなの、こんなの嫌っ……」
トラップの顔をまともに見れなくて、目をそらす。
せめて気絶でもしていてくれたら。
見ないでいてくれたらっ……
身勝手な願いだとわかってはいても。そう祈らずにはいられなかった。
だけど、彼は目をそらさなかった。
多分意識も朦朧としているはずなのに。食い入るようにわたしとギアを見つめていて……
「っ…………!!」
がくんっ、と背中がのけぞった。
いいように翻弄されている自分がいた。ギアの手つきはとても強引で、トラップほどの器用さは無いけれど、とても、とても力強くて……
「っ……いやっ……だっ……いやっ……」
無駄だとわかってはいても、叫ばずにはいられなかった。
望んで抱かれているわけじゃない。せめて、そのことはわかって欲しいと。
そうトラップに伝えるためにも。わたしは、抵抗をやめることができなかった。
ギアの行動は素早かった。
全てが終わった後。彼は、剣を投げつけて、あっという間にトラップを解放してくれた。
鎖を断ち切られて、落ちてくるトラップ。その身体を受け止めて、ギアは、罪悪感のかけらも浮かんでいない無表情で、つぶやいた。
「君らが探していた薬草は、この奥にあるのか?」
「…………」
トラップはとてもじゃないけどまともに歩ける様子じゃなかった。
無言で頷くと、ギアは、あっという間にその薬草を取ってきてくれた。
やっぱり、レベルが違うんだと……そんなことを思い知らせてくれる、とても素早い行動。
そして。
「これで、皆を助けてやるといい」
投げ出された薬草を、トラップは受け取ろうとしない。
さっきよりは幾分かマシになった顔色で、ギアをにらみつけているだけ。
その凄絶な視線を真っ直ぐに受け止めて、ギアは、微かに笑った。
「現実主義者のお前ならわかっているんじゃないか? 世の中、代償を払わずに何かを手に入れられるほど甘くはないってことは」
「…………」
反論のしようもない正論を残して。
ギアは、静かにダンジョンを出て行った。
「……ごめん、なさい……」
何も言おうとしないトラップの背中にすがりついて。
わたしは、ひたすら涙を流していた。
「ごめんなさいっ……本当に、本当に……ごめん、なさいっ……」
「…………」
ぽん、と頭に手が乗せられる。
トラップは、わたしの顔を見ようとはしなかった。
ただ、ぼそぼそと、「おめえが謝ることじゃねえ……」と、つぶやいただけ。
けれど。
彼の心の中に、深い傷が残ったことを、わたしは、悟らずには、いられなかった……