フォーチュンクエスト二次創作コーナー


オーシ×リタ 7

 あたしは基本的に罪悪感なんて感じる人間じゃないって思ってた。
 それは別に反省しないとかそういう意味じゃなくて。罪悪感なんて感じるくらいなら、その前に謝ってしまえ。ぐずぐず悩んでたって何の解決にもなりはしないんだから、悩むより先に行動しよう、と。
 あたしは自分のそんな性格を気に入っていたし、いつもその通りに口に出すより先に行動するように心がけていた。
 けれど。
 あたしは今、初めて「罪悪感を感じる」というのがどういうことかを知った。
 行動に移したくても移せない。結果どうなってしまうか、それがわかるから怖い。
 そんな気分を、今、生まれて初めて味わっていた……

「リタ、どうしたの? 元気が無いみたいだけど……」
 ヒュー・オーシが訪ねて来てから数日後。あたしが店で一人ため息をついていると、「差し入れだよ」と、お菓子を焼いて持ってきてくれたパステルが、心配そうに声をかけてきた。
「何か悩みでもあるの? オーシのこと?」
「ははは……鋭いじゃないの、パステルにしては」
「わたしにしては、ってどういう意味!? もう……誰だってわかるよ。だって、もうすぐなんでしょう?」
 パステルが言う「もうすぐ」とは、結婚のことなんだろう、多分。
 誰の? それはもちろん、他ならぬあたしの。
 あたしと、オーシの。
「あのさ、不安になる気持ちもわかると思うけど……そんな心配することないんじゃないかな?」
 あたしの心中など知るよしもなく、パステルは、無邪気に笑った。
「なるようになるんじゃないかな。別に何も変わらないんでしょ? 猪鹿亭をやめるわけじゃないんだし。オーシの方がリタの家に来てくれるんだって? なかなかいないんじゃないかなあ、そんな人」
「はははは……」
「いいなあ、リタが羨ましい」
「羨ましいなら、パステルもトラップに言ってみれば?」
 きっと、あいつなら喜んでプロポーズしてくれるわよ、とつぶやくと。パステルは真っ赤になって、「わ、わたしはまだいいよ」とうつむいてしまったけれど。
 その、女のあたしの目から見ても可愛らしい仕草に、ますますため息が大きくなった。
 あたしも、こんな風に素直に思えたら。
 素直に「好きだ」って認めることができたら、もう少し喜ぶことだって、吹っ切ることだって、できたかもしれない。
 ううん、逆でもいいわ。「嫌いだ」って言い切ることができたら。
 そうしたら、もっと話は簡単だった。「冗談じゃない」って言葉を叩きつけて、「そんな冗談面白くも何ともないわよ」とでも付け加えて。笑い話で済ませてしまえたのに。
 あたしの心が中途半端だから。だから、今こうして……悩んでいる。
「リタ……本当にどうしたの? あのね、わたし、リタのこと大事な友達だと思ってるから。リタとも、それにオーシとも長い付き合いなんだし。話なら、いくらでも聞くよ?」
 そんなあたしを見て、ますます心配そうに顔をゆがめるパステルを見ても。
 「心配しないで」と言ってあげることすらできない、そんな自分が情けなかった。

 あたしとオーシの結婚が決まった。
 それはまさしく青天の霹靂とも言うべき出来事で、つい数日前までそんなことになるなんてかけらも考えていなかったから、周囲はまさしく大騒ぎだった。
 何しろあたしはまだ17。オーシが正確にいくつなのかは知らないけど、どう考えても倍は離れているから。まあ皆が驚く気持ちもわかるんだけど。
 それにはちゃんと理由がある。オーシは、別にあたしのことを好きだから結婚を申し込んだ、とか、そういうわけじゃない。
 責任を取るため。
 あいつがプロポーズした理由はただそれだけ。酔った勢いであたしを傷物にしたと思い込んで、男らしく責任を取ってやるって、自分でそう言った。
 そんな必要は無いんだってことを知らず。
「…………はあ」
 そう、何も無かった。あたしとオーシの間には、そんな責任を取ってもらうようなことなんか何一つ起こらなかった。
 確かに迷惑はこうむったけど、そんなのは今に始まったことじゃない。それくらいのことで責任取って結婚してもらっていたら、あたしは今ごろ離婚暦が何十回とある計算になってしまう。
 けれど、それを伝えてあげられなかったから。すぐに言ってあげればこんなことにはならなかったのに、プロポーズの言葉がどうしてだかうれしくて……そして、今、こんなことになっている。
「……どうしよう」
 一度は決断しかけた。あたしはオーシのことが嫌いじゃない。悪い奴じゃないのは、逃げも隠れもせずすぐに行動に移してくれたことからもわかってる。あたしのことだけじゃなくて、父さんやルタや店のことまで考えてくれて。それを考えたら、決して悪い話じゃない。
 そう思って、オーシには悪いと思いながらも、全て忘れてこのまま受け入れてしまおうか、と……そう決めかけたこともあった。
 けれど、苦労に苦労を重ねてできた決断は、今、またしても揺らいでいた。
 突然現れたヒュー・オーシと名乗るオーシの従兄弟の話によって。
「知らなかった……」
 あたしは知らなかった。オーシが実は結構いい家の出で、ご両親との折り合いが悪くてシナリオ屋なんてやくざな商売についてるけど、本当はあたしなんか会うことも無いはずだった相手だなんて。
 オーシ本人はどう思っているのか知らないけれど、あいつの両親は、今でもあいつに家に戻ってきてほしいと思ってるなんて……

 ――いい家のお嬢さんと、見合いの話が出てね――
 ――あんたが財産目当ての悪女だったんなら、何としても連れ帰るつもりだったんだけど――

 いい家の、お嬢さん。
 それは多分、貧乏な大衆食堂の娘なんかよりもずっと綺麗で、お金もあって、結婚すれば必ず幸せになれるような、そんな相手……なんでしょうね……
 責任を取るために、自分の娘みたいな年齢の小娘、それも店や親兄弟なんて面倒なものを抱えて、自分のやりたいことを諦めるような……そんな結婚よりは、よっぽど……
 そう考えたとき、身震いがした。
 あたしは自分のエゴで、オーシを不幸にしようとしてるんじゃないか、って。
 オーシが勘違いしているのにつけこんで、いいように利用して……ヒュー・オーシはあたしのことを「悪女なんかじゃないから。幸せな結婚をするのなら文句なんか言わない」って言って、見合いの話はオーシには告げない、って言ってくれたけど。
 それは……嘘よ。ヒュー・オーシは本当のことを知らないから。
 知っていたら、絶対に言えなかったわよ……
 どんっ、とカウンターに拳をたたきつけた。
 今日ほど自分が嫌になったのは初めてだった。いつだって、どんなときだって、あたしはあたしが正しいと思う道を進んできたのに。
 自分がすべきことはわかっているのに、それでも……この話を、オーシを手放したくないと思っている……
 そんな自分が、すごく汚い存在に思えて。
 ため息をつかずには、いられなかった……

 いつまでも悩んでいるわけにはいかなかった。
 どんなことにだってタイムリミットは存在する。あたしがどれだけぐずぐず悩んでいたところで、周囲で話は勝手に進められていく。
 どうしよう、どうしよう……
 あたしは今までほとんど「悩む」なんて経験をしたことがなかったから。だからこそ、余計にどうしたらいいのかわからなくなった。
 だけど。
 やっぱり、友達って大切よね……
 パステルが訪ねてきた翌日。
 目の前に座る赤毛の男を見て、あたしはしみじみとつぶやいていた。
 そう、どんなときだって。
 あたしは一人で悩みを乗り越えてきたつもりになっていたけれど、そんなことはなかった。
 父さんやルタや。それにパステル達……周りの人の存在が、「あたし」を支える上でどれだけ大切な拠り所になっていたか。
 あたしは、今、それを思い知っていた。
「どーしたんだよ、リタ。おめえらしくもねえ」
 猪鹿亭の昼休み。
 最近あたしが悩んでいるのはマリッジ・ブルーみたいなものだろう、と、父さんもルタも勝手な解釈を下していて。最近のこの時間は、あたしは店で一人っきりでいることが多い。
 そこに昨日訪ねて来てくれたのがパステルで。今日訪ねてきてくれたのは……
「トラップ。何か用?」
「おめえ、ご挨拶な奴だな。せっかくこの俺がわざわざ訪ねてきてやったのによ」
 開口一番放った台詞に、トラップは不満そうな顔を浮かべたけれど。
 それ以上文句を続けることはなく、背中を向けて帰ることもなく、黙ってあたしの隣に腰掛けてきた。
 きっと、見ればわかったんでしょうね。今のあたしが、軽口の相手なんかしていられるような余裕は無いってことに。
「……どーした?」
 次にかけられたのは、その内容こそさっきと大して変わらなかったけれど、軽い口調には全然聞こえない、言葉。
「パステルの奴が心配してたぜ。おめえの様子がおかしいって……まーあんな親父と結婚すんだから、色々不満も不安もあるだろうけどよ? んなのおめえらしくねえな、何か」
「……ご挨拶ねえ……」
 やっぱりパステルに言われたからか、と妙に納得しつつも。
 それでも、心配されたことは素直に嬉しかったから。あたしは、仕方なく笑顔を取り繕った。
「あたしだって年頃の女の子なのよ、これでも」
「わりい。見えねえから忘れてた」
「……あんた喧嘩売りに来たわけ?」
「違うっつーの」
 そう言って。
 トラップは、カウンターに片肘をついて、じいっ、とあたしの顔を見つめた。
「らしくねえって、そう言ってんの」
「…………」
「人間にはなあ、分相応っつーか……似合う行動と似合わねえ行動があんだよ。んでな、似あわねえ行動……っつーのはな、つまり無理してるってことなんだよ。無理なんかしたって人間ろくな結果にならねえぜ? おめえにうじうじ悩むなんて似合わねえ。何か言いたいことがあんならすぱっと言えばいいじゃねえか。おめえを心配してる奴はいっぱいいんだからよ。それこそ、オーシを始めとしてな……誰にも言えねえ悩みなんて、そうはねえはずだぜ? 話してみろって。力になれなくても、話すだけでもすっきりするってのはあんだぜ?」
「…………」
 それは、全くトラップらしいようでいて、ちっともらしくない言葉。
 あいつがここまであたしのことを気にかけてくれるなんて、まさかそんな日が来るなんてねえ……どうせパステルに何か言われたんでしょうけれど。「悩みを聞く」なんて、一番性に合わないタイプだと思ってたのに。
「……ねえ、トラップ」
「んあ? 何だよ」
 一番思ってもみなかった相手だから。
 だからこそ、かえって「言ってみようか」って気になれた。
 他の誰かなら、どんな返事をしてくれるかは大体想像がつく。これでも接客業ですからね。人を見る目は自信があるのよ。
 だけど、こいつだけは。
 トラップだけは、どうも心が読めないから。すごく単純な性格に見えて、時々ハッとするくらいに鋭いことを言う、そんな不思議な奴だから……
「あんた、何でパステルに『結婚しよう』って言わないの?」
「…………は?」
 あたしの言葉は、多分鋭さには定評のあるトラップにとっても、相当意外だったんでしょうね。
 一瞬ぽかんと口を開けて馬鹿顔をさらしていたけれど。見る見るうちに、その顔色が真っ赤になった。
「なっ、なっ……突然あに言い出すんだよ!?」
「何って。あんたが言ってくれたんじゃないの。悩むなんてあたしには似合わないから話してみろって」
「…………」
「だから、言ったのよ」
「……それが、おめえの悩みと関係あるわけ?」
「あるわよ。大有り。だから聞いてるのよ。何で?」
「…………」
 それを聞いて、トラップはしばらくの間ぽりぽりと頭をかきながら天井を見上げていたけれど。
 やがて、「はあああああああああああ」と巨大なため息をついて、うつむいた。
「……あいつには絶対言うなよ」
「馬鹿言わないで。客の秘密を簡単に漏らすようでウェイトレスが務まるもんですか。で? 何でなの?」
「…………自信がねえからだよ」
 その言葉に、今度はあたしが馬鹿顔をさらす羽目になった。
「あんだよ、その顔」
「だ、だって……」
 じ、自信が無いですって!? あのトラップが!?
 それは、考える限り一番ありえない言葉だった。こいつは、いつだって無駄に自信満々で。その根拠のない自信のせいでパステルはしょっちゅう変なトラブルに巻き込まれる、って嘆いてたのに。
「何で?」
「あのなあ……まあおめえが俺をどう見てたのかなんて今更どうでもいいけどよ。俺だってなあ、いつもいつも自信たっぷり、ってわけじゃねえんだよ。ただ、自信がねえ、と口に出したところで意味がねえときは、余計な不安煽るから言わねえようにしてるだけだっ!」
 そう言って、トラップはぷいっ、とそっぽを向いた。
 その頬が真っ赤になっているのを見れば、照れているのは一目でわかった。
「……付き合う、ってだけなら、そりゃお互いの気持ちさえ通じればそれでいいだろうよ。どんな障害があろうが、『好きだ』って気持ちさえありゃあ何とでもなる。まあ逆に言っちまえば、その気持ちがなくなっちまったら終わりなんだけどよ」
「…………」
「けど、結婚ってそんなもんじゃねえだろう? 結婚っつーのは何のためにするのかって考えてみろよ。相手とずっと一緒にいたいから? それだけじゃねえだろ。一緒にいたいだけなら何もわざわざ面倒を背負い込むような真似、する必要はねえ。相手を自分の手で幸せにしてやりてえから。一生守って行ってやりてえから。だからするんだろうがよ」
「……まあ、そうよね」
「だろ。『好きだ』って気持ちだけじゃどうにもなんねえんだよ、そればっかりは。……んで、俺は自信がねえ。確かに俺の実家は結構でかい家だし。ドーマに帰ればそう不自由することはねえだろうな。けど、俺はそんなの嫌なんだよ。俺は自分の手であいつを幸せにしてやりてえんだよ。親やじいちゃんに頼らずな。そのためには、今はまだ盗賊としても半人前だしな……だあら言わねえし言うつもりもねえ。いつか自信を持って『俺についてこい』って言える日が来るまで、絶対にな」
「…………」
「そういうもんだろ。その点オーシはまあ問題ねえんじゃねえの? 結構な年だからその分人生経験豊富に積んでそうだしな。まあああ見えて最低限分別くらいは備えてるみてえだし? 案外大切にしてもらえんじゃねえの」
「…………」
「……んで? 何なんだよ、おめえの悩みっつーのは」
「…………ううん、もういいわ」
「は?」
 トラップの言葉に、あたしは、首を振った。
 笑顔で答えると、「何だそりゃ」とトラップはぶつくさ言っていたけれど。
 それ以上説明するつもりはなかったし、その必要もなかったから。ただ、あたしはいつもの笑顔を浮かべて、「あんたも考えてんじゃない? 早く一人前になりなさいよ」って、ばーんっ、とその背中を叩いてやった。
 あたしは基本的に嘘をつける人間じゃないと思ってる。それはトラップにもわかったんだろう。あたしの顔を見て、「もういい」って言葉が嘘じゃないのを。
 そして、そのまま、首をひねりつつも腰を上げた。
 ……本当にありがとうね、トラップ。それに、パステルもね。
 去り行く細い背中を見送って、あたしは、心の中でつぶやいた。
 やっぱり友達って大事よね……あたし、やっと吹っ切ることができたから。
 そうよね……あたし、一番大事なものが何かを間違えてた。それさえわかれば、後は簡単だったのに。
「ありがとう。それと、ごめんね」
 その「ありがとう」と「ごめん」は誰に向けたものなのか。
 あたし自身にも、よくわかってはいなかった。

「よお、リタ。どーしたんだよ、こんな時間に」
「悪いわね、オーシ。いきなり呼び出したりして」
「いや……そりゃ、まあ別に構わねえけど」
 あたしの言葉に、オーシは首をひねりつつも頷いた。
 ……変わったわよね、オーシも。
 いつもと変わらない小汚い姿のオーシを見て、しみじみと思う。
 以前の……こんな関係になる前のオーシだったら。「全く。儲け話でもなきゃやってらんねえぜ」って文句の一つも言ったでしょうに。
 猪鹿亭が終わってからだから、もう夜はかなり遅い。オーシにとっては宵の口かもしれないけど、それにしたって呼びつけるには非常識な時間。
 店の裏手、誰もいない場所に、あたしはオーシを呼び出していた。
「悪いわね……」
「だからいいっつーの。んで? リタ。何なんだよ、こんな時間に?」
 不思議そうな顔をするオーシに……
 あたしは、黙って頭を下げた。今までの色んなことを、全部ひっくるめて。
「……リタ?」
「オーシ……あんたって……」
 さあ、頑張って、あたし。
 もう決めたんだから。もうためらわないって。もう自分を見失ったりしない、って。
「本っ当に馬鹿よね、あんた」
「……はああああ?」
 顔をあげる。オーシが見ているのは、いつものあたしの笑顔……のはずだ。
 一生懸命取り繕ってるんだから。演技の経験なんか無いあたしがここまでしてるんだから……お願いだから、騙されてよ。
「馬鹿じゃないのあんた? あのねえ、あたしが本気であんたみたいな親父と結婚するって、そう思ってたの?」
「…………は?」
 オーシの顔は、かなり間抜け。
 そりゃあそうでしょうね。花束まで受け取った婚約者が、突然こんなことを言い出したんだから。
 ……あたし、もしかしたらオーシに恨まれて刺されたりしてね。もっとも、それは天罰ってものかもしれないけど。
「あのねっ……あんたがあんまりにも真面目に頼んでくるもんだから悪いと思って黙ってたけど……全く。どうせいつもの冗談だろうって思ってたのに。あたしも、あんたがここまで馬鹿だったとは思わなかったわ」
「……リタ?」
「何もなかったのよ、あの夜はっ!」
 どんっ、と地面に足を振り下ろす。
 勢いがつきすぎて、かかとから、じいんとしびれるような痛みが走った。
「何も無かったのよ。確かに酔っ払ったあんたに押し倒されはしたけどねえ! ちょっと考えてみればわかることじゃない? 朝起きたとき、あたし服も脱いでなかったでしょ!? 大体ねえ、このあたしが、好きでもない親父に襲われて黙って言いなりになるような玉に見えるってーの?」
「…………」
「何でもなかったの。全部勘違い……責任取るなんてちゃんちゃらおかしいったら。第一、本当に傷物にされたんだとしたら、オーシなんかじゃ安いわよ。このあたしをそんな安っぽい女だと思わないでよねっ!」
 一生懸命頭の中で考えた台詞だった。
 いかにあたしらしく、そして未練を残さず、断ち切ることができるか。
 考えて考えて、やっぱりこれしかないって思った。
 泣いてすがりつくなんて、そんなのはあたしには似合わないから。
「オーシ。聞いたわよ。あんた、結構いい家の出なんですってね」
「……誰から聞いた、そんなこと」
「ヒュー・オーシとか言ったっけ? あんたの従兄弟から。この間店に来たのよ……あんたの親が心配してるって、そう言ってたわよ?」
「…………へえ。ヒューの野郎がねえ」
「そうよ。あたしみたいな小娘にかまけてないで、実家に帰って親孝行でもしてあげたら? あんたもいい年なんだから」
「…………」
「……じゃ、ね。オーシ。今まで黙ってて悪かったわね。本気になって慌てるあんたを見てるのが面白かったものだから、つい……ま、今度店に来たとき安くしてあげるから。じゃ……」
 それだけ言って。
 あたしは、くるりと背を向けた。
 顔を見れる自信がなかったから。自分の顔を、見られたくなかったから。
 これでいいんだ……
 走りながら、どうしてだか、頬を冷たい感触が走っていくのがわかった。
 これでいい。さすがにこれだけ言えば、あのオーシといえども、しばらく店には来ないだろうし。
 あたしの言う通り実家に戻ってくれるかもしれないし、例えそうはならなくても、婚約破棄の噂を聞けば、ヒュー・オーシがまたとんでくるかもしれない。そうして、今度こそ伝えてくれるかもしれない。見合いの話を。
 ……絶対にそっちの方が、オーシにとっては幸せだろうから。
 こんな田舎の大衆食堂の娘なんかよりも、育ちのいい金持ちのお嬢さんと結婚した方が。
 その方が絶対に幸せになれるだろうから……
 後悔なんかしてないわよ、あたしは。
 後悔するくらいなら最初からしない……それが、あたしなんだから。
 だから、これは涙じゃない。
 そう自分に言い聞かせて。
 あたしは、夜の闇の中を、走り抜けて行った。