それは、いつもの猪鹿亭での、いつもの食事の風景。
……だったはず、なんだけど。
「パステル、それ取ってくれるか?」
「…………」
「パステル? おい、パステル?」
「……ああっ、うん、はいっ……な、何!?」
どん、と右隣に座っていたトラップに小突かれて。
そうしてわたしはやっと、向かいに座っていたクレイが向ける不審の眼差しに気づいた。
うっ……ま、まずいっ……お、おかしいって思われたよね? 絶対……
「パステル。どうしたんだ? 何だか顔が赤くないか?」
「そそ、そんなことないよっ。全然っ……無い」
「そうか? ならいいけど」
心配そうな目を向けてくるクレイに無理やり微笑む。
……言えるわけがない。
わたしの顔が赤い理由。それは、あなたがかっこいいからです、なんて。
絶対、ぜーったいっ……言えるわけが、ないっ!!
気にしないようにしよう、見ないようにしよう、としているのに。
どうしても視線がクレイに吸い寄せられるのを止められない。
クレイの方は、今はわたしから左隣に座っているルーミィに視線を移していて、それに気づいてはいないみたいだけど……
ううっ。だ、駄目っ。
クレイの優しい笑顔。あどけない表情で何かを言っているルーミィに、それこそ実のお父さんでもできないような慈愛に満ちた表情で答えていて……
その表情を見ると、わたしの心にちょっとどろっとした、いやーな感情がわきあがってくるのがわかった。
やめて。
そんな笑顔、他の人に向けないで。
わたしの方だけを見て、わたしにだけ、その笑顔をちょうだい。
そう思ってしまう自分が、どこかにいた。
ルーミィ相手に焼きもちを焼いている。そんな自分がちょっと信じられなくて。でも信じざるをえなくて……
「……おい」
がしっ
突然、トラップがわたしの腕をつかんできた。
痛いくらいに握り締められて、思わず顔をしかめてしまう。
「ちょっとトラップ! 何するのよ突然」
「そりゃ俺の台詞だ」
視線を引き離すきっかけができてよかった。
そんなことを思いながら、振り向くと。そこには、物凄く不機嫌そうなトラップの顔があった。
彼が握っているのはわたしの右腕。彼の視線の先にあるのは、わたしが無意識のうちにつかんでいたコップ。
ボーッとクレイを眺めながらも、手は機械的に動いて、食事を続けていたみたいなんだけど……
「……あ」
「俺のコップだ、それは。おめえのは、こっち」
わたしが握っていたコップを奪い取って、トラップは言った。
……ごめんなさい。
心の中で何度も何度も頭を下げる。実際には、「あ、ごめん、うっかりしてた」と何でもないことのように装って。
だって、そうでもしなきゃ……きっと聞かれる。「どーした、何かあったんか?」って。
そうなったら、あの鋭いトラップのこと。いくらわたしが「何でもない」と言ったところで。その口の上手さを利用して、何が何でも理由を聞き出そうとするだろう。
クレイの前で。それはまずい。まずすぎる。
ああっ、もうっ……どうして。
どうして、こんなことになっちゃったんだろう!?
事のきっかけは、非常にささいなことだった。
みすず旅館のいつもの部屋で、わたしはうんうん唸りながら原稿を書いてたんだけど。
だけどどうにも煮詰まってしまって。先に進みそうもなかったから、気分転換でもしようと外に出たんだよね。
そのとき、ちょうど階段を上ってきたのがクレイ。片手に荷物をぶら下げていて、わたしを見ると優しい笑顔を浮かべて手を振ってくれた。
「クレイ、おかえり。どこに行ってたの?」
「ああ、ちょっとおかみさんに頼まれてね、買出しに行ってたんだ。パステルは、どこに行くんだ?」
「わたしは散歩。ちょっと気分転換でもしようと思って」
「ああ、原稿か……そればっかりは、俺達には手伝ってやれないもんな。頑張れよ」
「うん、ありがとう!」
そんな何でも無い会話を交わしながら、わたしはクレイとすれ違うように階段に足をかけた。
そして、すれ違いざまに、肩がとん、と彼の腕に触れた。
しっかりと筋肉のついた、硬い腕。身長差を考えたら当たり前なんだけど、わたしの肩が彼の肘のあたりに来てるという、体格の違い。
瞬間的に、ぼひゅんっ、と頭に血が上った。普段あまり意識しないようにしてたんだけど、クレイってやっぱり男の人なんだよなあ、って。そんなことを考えて……
そんなことを考えてたら、気がついたときには足は階段を踏み外していた。
ぐらっ、と前のめりに身体が揺れて、そうして初めて、自分が落ちかけているんだ、ということに気づいてしまう。
「っ……き、きゃああああああああああああああああ!!?」
支えを求めて手を振り回したけれど、壁にも手すりにも触れることができない。できたことは、ただギュッと目を閉じることだけ。
……落ちるっ!!
次に来る衝撃を覚悟して、わたしは身体を硬くしたんだけど。
襲ってきたのは、床に叩きつけられる衝撃じゃなく、ふわりっ、と優しく抱きとめてくれる、力強い感触。
……え?
ぱっ、と目を開いてみれば。わたしのウェストあたりに巻きついている、がっしりとした腕。
そして、心配そうにわたしを見ているクレイの顔。
「大丈夫か? 危ないなあ、気をつけないと」
「くっ、クレイっ……」
彼は、片腕一本で楽々とわたしの身体を支えていた。もう片方の腕は、荷物をぶら下げたまま。どこにもつかまっていない。
ぼぼんっ!!
間近に感じる彼の身体。大きくて、暖かくて、硬くて、優しい。
意識してしまった。意識してしまった瞬間、わたしは悟っていた。
「……パステル? おい、大丈夫か?」
「…………」
「パステルってば」
呼びかけられても、ろくに返事ができない。
痛いくらいにばくばくいっている心臓。でっ、できることならこのまま止めてしまいたいっ。クレイに気づかれる前にっ……
わたしは何をどう言えばいいのかわからなくて。自分の足で体勢を立て直そう、ってことにすら考えが及ばなくて。そんなわたしをいつまで支えていればいいものか、とクレイが困った顔をしていたことにも長い間気づかなくて。
どうしよう、どうしよう、とぐるぐる頭の中で考えていると。
ちょうどそのとき、下から
「あー、やあっとバイトが終わったぜ。ねみいねみい」
なんて言いながらトラップが上がってきた。そこでやっと、「あっ、ごめんっ!!」と言ってクレイの腕から離れることができた。
それを、ほんのちょっぴり残念だ、と思いながら。
「ごめんね、クレイ。ありがとう、助けてくれて」
「助けたなんて、大げさだよ。じゃ」
そう言って、クレイは部屋へと消えた。入れ替わりにわたしの目の前に現われたのはトラップ。
「んあ? おめえ、こんなとこで何ボーッとしてんだ?」
不審そうな声を上げるトラップに返事もせず、わたしはただ、クレイが消えたドアをぼけーっと眺めていた。
ああ、何で、今更……
クレイがかっこいいことなんか、ずっと前から知ってたのに。
かっこよくて、優しくて、でもあまりにも完璧すぎるから、と。あえてそういう目では見ないようにしてきたのに。
一度でも、そういう目で見てしまったら……もう、自分の気持ちを止めることは、できない。
それが、わたしがクレイに恋をした瞬間、だった。
それからのわたしの態度は、一言で言えば「変」。二言で言えば「かなり変」。
もうね、勘の鋭いトラップはもちろんのこと、キットンにノル、しまいにはルーミィにまで、「ぱーるぅ。どうしたんだあ?」なんて聞かれる始末。
そりゃあね。四六時中クレイのことを目で追ってしまって。でも、恥ずかしいから誰にも気づかれたくない、と。意識するたびに慌ててそれをごまかそうとして。
そんなことを続けていれば、誰だって変だと思うよね……
ああ、そ・れ・な・の・に!
どうして、どうしてっ……当の本人、クレイはっ……そのことに気づいてくれないのっ!?
はああ〜〜っ、と盛大なため息をついてしまう。
クレイが鈍いことなんかわかってた。まわり中の女の子の視線を集めまくっているのに、それに全く気づかないような人だから。わたしが彼女達と同じような視線を向けたって、彼にとってはそれは日常茶飯事向けられているものだから、その他大勢扱いされてしまうことはわかっていた。
それでもっ……心のどこかでは、思っていた。
わたしは、彼女達とは違う。ずっと苦楽を共にしてきた仲間で、クレイにとっては……恋愛感情は含まれていないだろうけど……特別な女の子なんだ、って。
うぬぼれ、って言われてもいい。そう思いたかった。
だけど。
わたしのそのささやかな希望というか、願望というか、野望というか……とにかくその思いは、「ただの気のせい」で終わってしまいかねない、今のこの状況。
ううっ……辛いよう。
みすず旅館の女部屋で。わたしは机につっぷした。
いつもなら「ぱーるぅ!」と可愛らしい声をあげるルーミィとシロちゃんは、今はノルに連れられて散歩に出かけている。
キットンは、さっき何だかの効能があるキノコを探しに行く、と言って出かけてしまって。クレイとトラップは……多分隣の部屋、かな。
クレイが、隣の部屋にいる。
そう考えただけで、胸がドキドキしてしまう単純な自分が悲しい。
どうしたら、いいんだろう。
よく考えたら、わたしってかなり無謀な恋をしてない?
クレイのお家って、かなり由緒正しい騎士の家系で、わたしなんか足元にも及ばないような立派な婚約者がいて……
それに比べたら、わたしってば……
ずどん、と気分が落ち込む。
ああ、駄目駄目っ。すぐに人と比べて勝手にコンプレックスの塊になるのは、わたしの悪い癖だってわかってるのに。
他人は他人、わたしはわたし。理性ではわかってるのにっ……
そうやって必死に自分に言い聞かせていたときだった。
バタンッ!!
「おい、パステル」
「っきゃああああああああああ!!?」
予告もなくドアが開く音がした。突然声をかけられて、わたしは思わず悲鳴をあげてしまう。
振り向くと、そこに立っていたのは、悲鳴をあげられることすら予測していた、とでも言いたげにニヤニヤ笑っている、トラップの姿がある。
「とととトラップ!? あ、あのねえ、入ってくるときはノックくらいして、って、いつも言ってるでしょ!?」
「はあ? ちゃーんとノックしたぜえ? おめえがまあたボケーッとしてたから気づいてなかっただけじゃねえの?」
「えっ」
言われて、ぎくりとしてしまう。
その言葉は否定できない。確かに、わたしは一度考え込むと、まわりの音なんか聞こえなくなるときがあるから。
「そ、そうなの? ごめ……」
謝りかけて、笑いをこらえているトラップの表情に気づく。
……こっ……この男はっ……
「さては嘘でしょっ!? やっぱりノックなんかしてないんでしょ!」
「あ、ばれたかあ? 珍しく鋭いじゃん、パステルちゃーん?」
相変わらず人を食ったような笑みを浮かべたまま、バタン、とドアを閉めるトラップ。
わたしのことなんか何もかも見透かしている。そんな表情がどこまでも腹立たしい。
もっとも、そんなのはいつものことだから、今更ぎゃあぎゃあ言ったってしょうがないんだけど。
「もうっ……それで? 何か用?」
「んにゃ。用っつーほどの用でもねえんだけどよ?」
「……え?」
トラップは、すたすたとわたしの元に歩み寄ってきて。
そして、バンッ、と机に手を置いて、わたしの顔を覗きこんできた。
「何か、俺に言いたいことはあるか?」
「部屋に入ってくるときはノックくらいして」
「そういうことじゃねえっ!」
間髪置かずに答えると、拳骨がとんできた。
もーっ、乱暴なんだからっ!!
「な、何よう! 何が言いたいの?」
「いんやさ、おめえ……」
わたしの頭を小突いた、そのままの姿勢で。
トラップは、唇を耳元に寄せてきた。
「さては、クレイに惚れただろ?」
――ぼんっ!!
突然言われた言葉に、一気に頭に血が上る。
なっ、なっ、何をっ……
「と、トラップ、何言って……」
「おめえ、まさか気づかれてねえ、なんて思ってねえだろうな?」
放たれた言葉に、ぐっと詰まる。
確かにっ……気づかれても不思議は無かった、と思う。
自分でも自覚しているくらいに、わたしは態度がおかしかった。むしろ、当のクレイがちっとも気づいてくれないことに嘆いていたくらいなんだから……
誰よりも鋭いトラップのこと。気づいていたとしたって、何の不思議も無い。
「……だ、だったらどうだって言うのよ!」
だとしたらもう、開き直るしかない。
どうせ嘘をついたって、すぐにばれる。トラップを相手にわたしが口で勝てたことなんて、一回も無いんだから。
「か、関係ないでしょトラップには! わたしが誰を好きだろうと!」
「ばあか。関係ねえわけねえだろ? 四六時中ボケーッとクレイの顔ばっかり見てるくせに。危なっかしいったらありゃしねえ。今日の昼飯のときだって、俺の皿から勝手におかず持ってくしよ」
「……え?」
う、嘘っ!? そんなことしてたのわたしっ……こ、コップだけじゃなかったの!?
いやいやっ、あのトラップだもん。さっきのノックと同じく、また口から出任せってことも……
そう言ってやろうかと思ったけれど。今の彼の表情は、ごくごく真面目だった。どうやら、それは事実らしい……
「ご、ごめん……」
穴があったら入りたい。まさに文字通りの気分に陥って力なくつぶやくと。
トラップは、「はあっ」とため息をついて、机の上にひじをついた。
わたしと目線を合わせるようにして、妙に優しい笑顔を向けてくる。
「好きなんだろ? クレイが」
「……うん」
素直に頷くと、トラップはくしゃくしゃとわたしの頭を撫でて言った。
「だったら、言やあいいじゃねえか。ずーっと一緒にやって来た俺だから断言してやるけどな、あいつは鈍感だぜ? おめえとためをはるくれえにな」
「はあ?」
優しい表情のまま、突然言われた言葉に、思わず間抜けな返事をしてしまう。
ど、鈍感って……わたしが?
「わたしのどこが鈍感なのよっ。そりゃあ、トラップほどは鋭く無いかもしれないけどっ。だけど、トラップはちょっと……かなり、特別、鋭いんだから。あなたに比べれば誰だって鈍感になるんじゃない?」
そう言うと。「だあら……そういうとこが鈍感なんだ、っつってんだけどな……」と、トラップは深い深いため息をついたんだけど。
それに関して追求する前に、彼は話題を元に戻した。
「ま、んなこたあどうでもいいんだよ。とにかくな、クレイの奴は鈍いから。見てるだけじゃ絶対に伝わらねえぜ?」
「……わかってる、そんなこと」
そんなことはわかってる。クレイは気づかない。わたしのことをそんな対象としては見てないから。
だから、わたしが自分から言うまで、彼は一生かけたって気づかないし気づこうともしないだろう。そんなことはわかってる。
「だけどっ……どう言ったらいいのかわからないんだもん」
「…………」
「クレイって、すっごく素敵だよね。どこが好き? って聞かれたら、自信を持って『全部!』って言える。だけど、そんなの今更じゃない。出会ったときからクレイは素敵な人だった。あのときから何が変わったわけでもないのに、今更っ……」
「…………」
「そ、それにっ。わたしって、何にも無いし。顔だって、スタイルだって性格だって家柄だって、わたしよりずっと素敵な人がクレイのまわりにはいっぱいいてっ……わたしなんかっ……」
「あにまどろっこしいこと考えてんだか」
わたしの答えに、トラップはわしゃわしゃと自分の赤毛をかきまわして言った。
「『好きだ』って一言言うのに、何でそうごちゃごちゃ考えることができんのかねえ? そっちの方が俺には不思議なんだけど」
「だ、だってっ……い、いざ言おうとすると、緊張してそんなことばっかり考えちゃうんだもん!」
わたしがほとんど半泣き状態で告げると。
トラップは、「はああ〜〜」とため息をついて、ぽんぽんと肩を叩いた。
「わかった。俺が協力してやる」
「……へ?」
「とっとと解決しねえと、そのうちおめえは何かとんでもないことをやらかしそうで、見てて怖え」
「なっ……」
なっ、なっ、何言ってるのよ失礼なっ!!
その言い方にはかなり不満があったけど。実際に自覚もなく彼のおかずを奪い取った前科があるので何も言えない。
わたしが言葉に詰まっていると、トラップはじーっとわたしの目を見つめて、ニヤリと笑った。
「俺をクレイだと思え」
「……はあ?」
「俺をクレイだと思って、練習してみそ? 告白の練習」
「なっ……」
言われた意味を理解して。わたしが首まで真っ赤になっていると。
トラップは、やけに真面目な表情をして、そして突然声音を変えた。
「パステル」
聞いた瞬間びっくりしてしまう。
顔は確かにトラップなのに。その口調は……声は確かに、よーく聞けばトラップのものなんだけど……クレイにそっくりだったから。
「トラップ?」
「クレイだと思えっつったろー? 声真似くらいできねえと、盗賊の名が廃るってもんだ。ほれ、目えつぶってみ」
「う、うん……」
言われるままにギュッと目を閉じる。
そっと肩に乗せられる手。耳に届くのは……
「パステル」
耳に届くのは、愛しいあの人の言葉。
「パステル。俺に話があるんだって? 何?」
「あ、あのね、クレイっ……」
言葉は、自然に溢れてきた。
「あのね……す、好きなのっ!」
「ばあか」
ボカッ
突然落ちてきた拳骨に、わたしは現実に引き戻された。
目を開ければ、そこにいるのは呆れ果てた、と言わんばかりの顔をしたトラップ。
「い、痛いじゃないっ!」
「おめえなあ……前置きもなく突然『好きだ』なんて言われたって、あのクレイだぜ? 『何を?』とか聞き返されんのが落ちだぜ。そうは思わねえか?」
「うっ……」
ひ、否定できない。あのクレイなら。
わたしが言葉に詰まっていると、トラップはなおも畳み掛けるようにして言った。
「後な、おめえは自分をやったら卑下してるみてえだけどな……俺に言わせりゃあ、どんな美人でもスタイルのいい姉ちゃんでも、相手がクレイなら条件同じだと思うぜ? 何しろあいつは、そういうことに関しては見事に無関心だからな」
「……そうなの?」
「そういうことに興味があるような奴だったら、おめえもこんな苦労せずにすんだと思うけどな」
「うっ……そうかも」
確かに。クレイが普通の……例えばトラップみたいに女の子大好き! って人だったら。
きっと、わたしの態度があからさまに変なことも、その変な理由がクレイに対する恋心だってことも。あっという間に気づいてもらえた……かもしれない。
はあ……
「わたしって、厄介な人を好きになっちゃった? もしかして」
「そだな。俺はそう思うけどな」
「はあ……トラップみたいな人を好きになればよかった。そうしたら、もっと楽だったのに」
わたしがそう言うと。何故か、トラップの顔が辛そうに歪んだけれど。
それは本当に一瞬のことで。すぐに彼の表情は、元の軽薄なものに変わった。
「まっ、おめえもなあ、恋愛沙汰に慣れてるようには見えねえし。ここは一つ、俺がお手本を見せてやろうじゃねえの」
「お手本?」
「ああ」
そう言って、彼はどかっとベッドに腰掛けた。
「いいか? 今から俺が告白の手本って奴を見せてやるからな。目えこらしてよっく見とけよ」
「う、うん……」
何で、トラップはこんなに熱心なんだろう……
妙に張り切っている彼の態度に、ふとそんな疑問が浮かんだけれど。
……まあいいか。教えてくれるっていうんだもん。断る理由なんか無いし。
「お願い」
わたしがそう言ってトラップに向き直ると。
彼の表情が、くるり、と真面目な表情に変化した。
じいっとわたしを見つめる視線が、熱い。
「パステル」
かけられる声は、ひどく真面目なもの。
「パステル。話がある」
「なっ……何……?」
これは見本。そうとわかっていても、思わずドキッとする。
クレイと比べるから目立たないけど。こうして見ると、トラップだって顔立ちは端正だし、背だって高いし、足も長いし、かっこいいよね。
これで、口が悪くなきゃねえ……
「パステル。おめえ……おめえは、気づいてねえだろうけどな」
「う、うん?」
「俺は、ずっとおめえのことを見てたんだ」
「…………」
見てた……それは、わたしがクレイを見ていたのと同じ意味の「見てた」なのかな……?
「気がついたら、おめえのことしか見れなくなってた。ありきたりの言葉なんかかけねえ。そんな言葉は他の誰にだってかけられる。パステル」
ふっ、と手が伸ばされた。軽く手招きされて顔を寄せると、トラップはわたしの髪の毛を一房指でからめとって、そして唇を寄せた。
「おめえの全てを、俺のものにしてえんだ、パステル……」
ドキンッ!!
な、何だろうこの言葉。
すごーく、何ていうか……直接「好き」とか「愛してる」とか言ってるわけじゃないのに。それでも、彼が何を言いたいのか、何を求めているのかがわかってしまう……
す、すごい。さすがはトラップ。
「素敵な告白だね……」
「…………」
「トラップ?」
「っ……あ、ああ」
わたしの髪に顔を埋めるようにして。トラップはしばらくボーッとしていたみたいだけど。
重ねて声をかけると、びくっと身体を強張らせて顔をあげた。
……どうしたのかな?
「トラップ? 何かあった?」
「いっ……いや、別に何でもねえ。で、どうよ? 俺流の告白は」
「うん、すっごく素敵だと思う! こんな告白されたら、女の子なら誰だってトラップのこと好きになっちゃうと思うよ」
わたしの答えに、トラップは何だかものすごーく苦い表情を浮かべていたけど。
「ま、他の誰に好きになってもらったって、本命に好きになってもらえなきゃ、意味ねえけどな」
とつぶやいた。
ま、それはその通りだよね。わたしも頑張らないと。
「よーし、わかった! トラップ、もう一度お願いね」
「…………」
「もう一回練習してみる! 今なら素敵な告白ができそうな気がするから」
「……ああ。じゃ、やってみ」
そう言って、トラップは妙に悲しそうな表情のまま、また声音を変えた。
クレイとしか思えない声音に。
「パステル、どうした? 俺に何か用?」
「あの、あのね、クレイっ……」
わたし流の告白。どうしたら自分の気持ちが一番相手に伝わるか。
大切なのは、わたしがどう思っているかを正確に伝えること……
「わたしね、ずっとずっと、あなたを意識しないようにしてた」
「…………」
「あなたとわたしじゃつりあわないって、そう思ってた。だから、意識しないでおこうって決めてたの。意識しちゃったら、きっと自分の気持ち、止められなくなるから」
「…………」
「だけど……駄目だった。意識しないように、しないようにってどんなに頑張っても。あなたはいつだってわたしの目の前にいて……だから、もうやめたの。意地を張るのは」
ぎゅうっと目を閉じたまま、手を伸ばす。さらりとした手触り。それを指にからめとって、わたしは言った。
「わたしはもう、あなたのことしか見れないっ……これが、わたしの気持ち。迷惑かもしれないけどっ、わたしはあなたのことがっ……」
「……パステル」
その瞬間。
不意に、両肩をつかまれた。そのまま、わたしはぐいっ、と抱き寄せられて……
「……え?」
何が起こったのかわからない。どうすればいいのかもわからない。
わたしがされるがままになっていた、そのとき。
バタンッ!!
「るるるルーミィ! 危ないじゃないかっ!」
「くりぇー、あのね、あのね! のりゅにこれ作ってもらったんだおー!!」
どたたっ
騒がしい声とともに、倒れこむようにして、クレイとルーミィが部屋に飛び込んできた。
どうやら、散歩から帰ってきたルーミィが、たまたま部屋から出てきたクレイに飛びついてきて、勢い余ってのことみたいなんだけど……
そして、彼らは。わたし達の方に視線を向けて、そしてぴきーんと音がしそうな勢いで身体を強張らせた。
「……あ、わ、悪いっ」
「……え?」
「悪い、邪魔してっ……る、ルーミィ! ほら、お腹が空いたのなら、下でおかみさんに何かもらいに行こうか?」
「うん! いくいくー!!」
どたどたどたっ
入ってきたときと同じように。
唐突に、クレイ達は姿を消した。
ぽかんとするしかない。あまりにも慌しい出来事に頭がついていかなくて。クレイの態度の意味がわからなくて。
「……やべえな」
「え?」
何が起こったのか理解できなくて、わたしが茫然とドアを見つめていると。
耳元でトラップが囁いた。
それで気づいた。今の、わたし達の格好を。
わたしの背中にまわっている、トラップの両腕。
…………
こっ、これは、つまりっ……せ、世間一般で言うところの、抱きしめられてる、って奴ですかっ……!?
「と、トラップ!? 何してるのよっ!!?」
「……おめえ、気づくのが遅えよ……」
はああっ、と盛大なため息をつくトラップの腕を振り払う。
これはっ……まさか、誤解された!? クレイに、誤解されたよね、ねえ!!?
「トラップのバカ――!! 何でこんなことするのっ!?」
「……そ、それは、だなっ……そのっ……」
わたしが目に涙を浮かべて非難すると、彼は困ったように視線を泳がせていたけれど。
「お、おめえの告白がそれだけうまかった、っつーことだよ。いや、クレイになりきっちまってな。あれなら、大丈夫だろ……いくら何でも」
「…………」
「だあらっ……悪かったって。んな恨めしそうな目え、すんなよなあ。ほれ、行くぞ!」
「……え?」
ぐいっ、と腕をひっぱられる。
トラップは、ちょっと怒ったような顔でわたしをひっぱって歩き出した。
「誤解をとっとと解きに行くぞ! おめえ、このままでいいのかよ?」
「い、いいわけないでしょっ!?」
よくないっ。あれは誤解だって……好きなのはクレイだって、ちゃんと伝えないと!
トラップに引きずられるようにして、わたしは階段を駆け下りた。
クレイ達がどこに行ったのかわからなかったんだけど。
階段を降りると、台所の方から賑やかな声が聞こえてきた。
トラップと二人で、迷わずそっちに足を向ける。中を覗くと、案の定、ルーミィがテーブルについてお菓子をぱくついていて、それをクレイが優しい目で眺めていた。
ただ、わたし達二人が顔を出すと、その表情が少し強張ったんだけど。
「あ……ど、どうしたんだ、二人とも? あ……さっきは悪かったな、邪魔して」
「邪魔じゃない、全然邪魔じゃなかったよっ!!」
トラップに軽く小突かれて。わたしは一歩前に出た。
言わなきゃいけない。さっき、トラップも太鼓判を押してくれた。
あれなら大丈夫、わたしの気持ちは絶対に伝わるって。
「あの、あのね、クレイっ!」
「ぱーるぅ、どうしたんだあ?」
がくうっ
とんできた可愛らしい声に、せっかくの決心がへなへなと崩れるのがわかった。
あどけない顔を見せるルーミィに、思わず恨みがましい視線を向けてしまう。
せ、せっかく勇気を振り絞ったのにっ……
わたしの目つきに気づいたのか、ルーミィの顔がへにゃっと歪んだ。今にも泣き出しそうになったそのとき。
どすどす、とトラップが台所に入り、ひょいっ、とルーミィを肩車した。
……え?
「とりゃー? お菓子、お菓子ー!!」
「ほれ。チビ、一緒に散歩でも行くか?」
「チビじゃないもん、ルーミィだもん!!」
「わあってるよ、チビ」
「とりゃーのばかー!!」
そんな賑やかな声を上げながら、二人の姿は台所から消えた。
……トラップ。もしかして、それは……協力してくれた、ってこと?
あ、ありがとうっ!
「……パステル?」
そうして残されたのは、めまぐるしく変わる状況についていけないクレイ一人。
せっかく、トラップが作ってくれたチャンスだもんっ……無駄にしちゃ、いけない!
「あの、あのね、クレイ! 聞いてっ。わたし、ずっと、ずっとあなたのことをっ……」
わたしの言葉に、クレイは目を丸くしていたけれど。
最後まで言い終わったとき。彼の表情に浮かんでいたのは……喜び?
「ありがとう、パステル」
かけられたのは、心底暖かい言葉。
ふわり、と身体がひっぱられた。
ぎゅうっとわたしを抱きしめて、クレイは言った。
「ありがとう。……俺はね、ずっと気づいてなかったんだ。どうして君のことを、守ってあげたいと思ったのか。最初に出会ったときから、放っておけないって思ったのか。だけど、さっきの光景を見て。君がトラップに抱きしめられているのを見て。俺、気づいたんだ。パステル。俺も、君のことが……」
まるで、夢みたいだ、と思ったけれど。
頬に押し付けられる暖かい身体は、それが夢じゃないって、教えてくれた。
せっかく両思いになれても、まだまだクリアしなきゃいけない問題はたくさんある。
例えば、サラさんのこととかね。
だけど、それは気にしなくていいって、クレイは言ってくれた。
「どうせ親同士が決めたことだしね。大切なのは、本人の気持ちじゃないかな?」
そう言って、彼は優しく笑ってくれた。
大所帯のパーティーだから、なかなか二人っきりになれるチャンスは無いんだけど。
それでも、トラップの全面的な協力で、たまには部屋で二人っきりになったりすることもあった。
最初は、ただ二人で会話しているだけ。
そのうち、段々とお互いの距離が近づいていって。
ふっ、と肩に頭をもたせかけたとき。自然に近づいてきた唇を受け止めたときから、関係は一気に進展していった。
最初は触れるだけの軽いキス。それが、段々と深いキスになっていって、その気持ちよさを知るにつけ、わたしはもっとクレイを知りたい、と思うようになって。
どちらが先に誘ったのかは忘れたけれど。そのうちに、わたし達は自然に身体を重ねていた。
クレイもそういう行為は初めてだったらしく、最初はひどくぎこちなくて、手間取って時間ばかりがかかって。
それでも、彼は優しかった。わたしに痛みを与えないように、と。精一杯気遣ってくれた。
それが、嬉しかったから。見られる恥ずかしさも、触れられたときのくすぐったさも、貫かれたときの痛みも。何もかも我慢できた。そしてそのうちに、我慢なんかする必要はなくなった。
とてもとても気持ちいい、と。そう思えるようになったから……
幸せ、だった。そう、何一つ不満なんか無い。今の状況が、わたしには信じられないくらいに幸せだったんだけど。
ただ一つ、気になることは……
それは、初めてクレイを受け入れた日の夜のことだった。
軽い興奮状態のせいで、寝付けそうもなかったから、と。わたしがぶらりと宿の外に出てみると。
そこに、トラップがいた。
ひどく辛そうな表情で、宿のすぐ傍にある木の根元に座り込んでいた。
「トラップ、何してるの?」
そう声をかけると、彼はひどく驚いたようだったけれど。
わたしを見て、そうして妙に悲しそうな笑みを浮かべて言った。
「別に。眠れねえから、ちっとな」
「眠れないって……何かあったの?」
「……いんや、別に」
彼は、じいっとわたしの顔を見つめて、そして、とん、と自分の首筋を指差した。
「そこ」
「……え?」
「そこ、隠した方がいいんじゃね? 目立つぜ、結構」
「…………え?」
わけがわからない。わたしがぽかんとしていると、彼はため息をついて、小さな鏡を貸してくれた。
何で彼がそんなものを持っていたのかはわからない。やけに可愛らしいデザインで、到底トラップの趣味とは思えなかったんだけど……
まあそれはともかく。差し出された鏡を受け取って、自分の首筋を写してみて。
そうして、トラップの言いたいことがわかった。
「っ…………」
首筋に残っている、赤い痕。
こ、これって……確か、その……し、したときに、クレイがキスしてくれた……
「や、やだっ。見ないでよっ」
ぼんっ、と顔が赤くなるのがわかった。多分、トラップにこの痕の意味がわからないはずはないだろうから。
彼はそんなわたしを、どこまでも悲しそうに見て、そして言った。
「おめえ、幸せか?」
「……え?」
「幸せか? クレイと一緒になれて」
「……うん」
迷わず頷く。
どうしてそんなことを聞かれるのかわからなかったけれど。だけど、否定するような要素はどこにもなかったから。
わたしの言葉に軽く頷いて、トラップは、ぽんとわたしの肩を叩いた。
「その鏡な、おめえにやるよ」
「……え?」
手に持ったままの鏡を指差して、彼は続けた。
「俺からの、プレゼント」
「何で? ……わたしの誕生日は、冬だよ?」
「ちげえよ」
わたしの言葉に首を振って、トラップは……
不意に、わたしを抱き寄せた。そのまま、一瞬腕に力をこめて。
え? と思った瞬間、ぱっ、と身体を離す。
「おめえが幸せなら、それでいい」
「……トラップ?」
「もともとおめえにやるつもりだったんだ。……その鏡見て、化粧の仕方でも覚えて。もっと、もっといい女になれよ……クレイのためにな」
「あ……ありがとう」
何だか、その様子はいつものトラップとは随分違うような気がして。
わたしはただお礼を言うしかできなかったんだけど。
そう答えると、トラップはほんの少しだけ微笑んで、そして宿の中へと戻って行った。
……トラップ、何だか変だよね。どうしたんだろう? 悩みでも……あるのかな?
わたしが、クレイと両思いになれたのは、トラップのおかげだから。
だから、お礼の意味もこめて……その悩みが解決するように、協力してあげたい。
相談してくれないかな?
そんなことを考えながら、わたしはとん、とさっきまでトラップがもたれていた木に体重を預けた。
眠気が訪れるまで、まだもう少し時間がかかりそうだった。