フォーチュンクエスト二次創作コーナー


オーシ×リタ 番外編2

 ああ、何でこんな奴に見られちゃったんだろう……っていくら後悔しても。後の祭り、っていうか、何ていうか。
「ほー、リタ。おめえさんも威勢のいいこと言ってる割には、なかなかどうして」
「うっ……」
 こっそりと回り込んだはずの裏庭。あたしの前に広がっているのは、そういうことが可能なくらい広大な敷地と大きな屋敷。
 近隣で知らない人はいない、って言われている大富豪、アンダーソン家。それが、あたしの現在の職場。
 あたしの名前はリタ。現在18歳。料理人としてアンダーソン家に雇われたのは16のときだったから、勤め始めて二年。
 普通ならまだまだ新米の部類に入るところなんだけどね。当主のクレイ……これがまた正統派王子様的な美形で。彼を目当てに働きたい! って言ってる女の子も多い……は、とてもいい人で。しかも、分け隔てが無いっていうか壁を作らないっていうか。
 半年ほど前のことだったと思う。急に呼び出されたから一体何かと思ったら、「リタくらい腕が良かったら文句は無いよ。人望もあるしね」と、終始笑顔でいきなりあたしを料理長に抜擢してくれた。
 と、いうわけで、現在。あたしは台所のまとめ役ということになって、右も左もわからない新人を指導する立場に立っている。それがすごく嬉しくて、誇らしかった。
 誰だってそうだと思うけど、自分の力を他人に認められる、っていうのは、すごく気分がいいこと。
 だからこそ、あたしは頑張った。頑張って頑張って頑張りすぎて……その、ちょっと、何て言うか。厳しくしすぎて、新人に怖がられて煙たがられるくらいに……
 「リタが悪いわけじゃない」って、クレイは言ってくれたけどねえ! それにしたって! ちょっと怒ったくらいですぐにやめてく最近の若い子は根性が無いわねっ! いや、あたしだってまだまだ若いんだけどっ!
 とにかく、そんなわけで、あたしは最近ナーバスになっていた。
 ちなみに、この間新しく入ってきたのは、パステルっていうとっても素直で可愛い女の子。
 他の子と違って根性はありそうだけれど、何しろ今までの例があるからね。
 クレイは「人望がある」って言って、そうしてあたしを抜擢してくれたんだから。さすがにこれ以上やめられるのはまずい。せっかくのクレイの期待を裏切ることになっちゃう!
 と、いうわけで。最近のあたしは、いつにも増して完璧でいよう、と気を張っていた。
 絶対ミスなんかしないように。どんなことだって完璧にこなして、「厳しいことを言うだけの力はある」って認められるように! と、常に自分に言い聞かせていた。
 だから……だと思う。
 気が張りすぎてた。それが一番の原因。あたしがこんなところでこそこそする羽目になったのは、全てあたし自身が招いたこと。

 それは、今日の午後の話だった。
 クレイのためにお茶を入れて、パステルに運んでもらって。そうしてあたしが洗い物を担当していたとき……疲れがたまっていたのか、手が滑って、カップを一つ割ってしまった。
 そんなのはよくあることだったんだけど、割ったものがまずかった。
 何とそれは、クレイの家に代々伝わる(どうしてこんなものが洗い物の中にまぎれてたのよ!?)、時下数百万は下らない! とかいうそれはそれはご大層な代物で! 割った、なんて知られたらただじゃ済まない……っていうか、とてもじゃないけどわたしじゃ弁償しきれない! っていうくらいに高価なもので!
 魔が差した。それはそうとしか言いようのない状況。そして、そんなのは言い訳にも何にもならない。
 ああっ……だ、だけどよりにもよって! 何もこんな奴に見られなくてもいいじゃない!
 目の前のくわえ煙草の親父を見ながら。あたしは、「運命の神様」という奴を呪いたくなった。

 誰にも見つからないように、と、こっそり回り込んだ場所。そこで出くわしたのは、オーシという名前の、年齢不詳の親父。あたしと同じ職場……つまり、このアンダーソン家で、庭師として働いている。
 けど、はっきり言って評判はよくない。
 何しろこの親父と来たら! 大のギャンブル好きであたし達みたいなメイドにまでしょっちゅうお金を借りに来るわ、昼間っから酒を飲んでることもあるわ、怪しい儲け話に人を巻き込もうとするわ……
 一言で言うのなら、迷惑な親父、って奴だと思う。さすがその年でまだ独り者なだけはあるわよね、と、あたし達メイド仲間の中でよく陰口を叩かれてたんだけど……
「しかしなあ、リタ。意外だったぜ。おめえさんもそういうこと、するんだなあ?」
「……な、何よ、そういうことって」
 オーシの言いたいことなんか嫌というほどわかってはいたけれど。
 あたしは、サッ、と手に持ったものを後ろ手に隠すことを、止めることができなかった。
 見事なまでに真っ二つに割ったカップ。オーシの視線はしっかりと釘付けになっていて、その顔には馬鹿にしたような、人を食ったような笑みを浮かべている。その目つきがまた腹が立つったら!
 そう、あたしは隠そうとした。
 自分がこんな初歩的なミスをしたってことが信じられなくて、新人さんの手前、そんなことを認めるわけにもいかなくて。どうにかしてごまかせないか、と、隠す場所を求めてこんなところまで来てしまった。
 そうして……そこで、オーシと出くわした。
 オーシだって今は勤務時間中のはずなんだけど、どうやらさぼって煙草を吸っていたらしい。
 まあ、それはいいわよ……いや、よくはないんだけど、庭はあたしの領分じゃないし、しっかりと仕事をやっているのなら、クレイが何も言わない以上あたしにとやかく言う権利なんて無い。
 問題はっ……
「オーシ、あのっ……」
「ああ、わあってるわあってる。皆まで言うな」
 自分が何を言おうとしたのか、あたし自身にもわからなかった。ただ、黙っていられなかっただけ。何か言わなくちゃ、何とかごまかさなくちゃ……と、そんな脅迫観念めいたものに囚われただけ。
 けど、オーシにはわかったらしい。あたしが何を言いたいのかを、あたしよりも、はっきりと。
「黙っててやっから」
「はあ?」
「誰にだって失敗はあるよなあ? おめえさんだって普通の人間だった、ってこった。いくら気張っててもな」
「っ…………」
 表情とはうらはらに、その言葉は優しかった。決して馬鹿にしているわけじゃないってことは、後になって冷静に考えればわかったと思う。
 けれど。今のあたしには……冷静になる余裕なんか、どこにもなかった。
 そんな風に言われて、一気に頭に血が上った。
 違う、そんなんじゃない。あたしはそんなことを言おうとしたわけじゃない……あたしはそんな汚い人間じゃない。
 あんたと一緒にしないで。
 心の中で、そんな罵倒がいっぱいに駆け巡ったけれど、口に出すことはできなかった。
 それは、多分……心の底では認めてた、ってことなんだろう。オーシの言ってることが当たってる、って。
 だけど、認めていたという事実に、気づきたくはなかったから。
「お、恩着せがましいっ」
「はあ?」
「あんたなんかに借りを作るなんてごめんよっ」
「借りって、なあ」
「言うわよ、ちゃんと言う! あたしが割りました、弁償します! って、クレイにちゃんと謝るわよっ。最初からそのつもりだったのよ。ちょっと心を落ち着けるためにここに来ただけ! 変な勘違いしないでっ!!」
 あたしがそうまくしたてると、オーシは呆れたみたいだった。
 いや、まあ気持ちはわかるけどね。自分でも、「ああ、子供っぽい言い訳してるなあ」って呆れてしまったし。
 けど、けどっ!
 しょうがないじゃないっ。引くに引けなかったんだからっ!
「あたしはっ……あんたとは違う。あんたみたいな卑怯者じゃない。自分と同じ基準で考えないでよね!!」
「…………」
 そこまで言うと、さすがのオーシもムッとしたらしい。
 その表情を見て、「やばい、言い過ぎちゃったかな」と思わなくもないけれど、どうしても撤回する気にはなれなかった。
 それは、後で冷静になって考えてみれば。
 それだけ、あたしはかっこつけたかった。
 自分の汚い面を他人に知られたくなかった。
 そういうことだったんだろう。きっと。
 けれど。もちろん、今のあたしにそんなことに気づく余裕があるはずもなく。
「じゃあね。クレイが何も言わないからって、あんまりサボりすぎるんじゃないわよっ! 新人に示しがつかないでしょ!」
 そう言い捨てて、あたしがくるりと背を向けたときだった。
 ぐっ、と、背後から手が伸びてきて。
 あたしの肩を、乱暴につかんだ。
「ちょっと……何?」
「いやあ、おめえさんは知らねえんじゃねえか、って思ってな」
「はあ?」
「いや、知らねえのも無理はねえわな。おめえさん、まだここに来て二年かそこらだったか?」
「何よ、何の話し?」
「そのカップがどういう代物か、ってことだよ」
 にやり、と笑ってみせたオーシの顔は、何というか……凄く、物凄く、意地悪そうに、見えた。
 ……何が、言いたいのよ、一体?
「オーシ?」
「リタ。おめえさん知ってるか? クレイに婚約者がいた、っつー話」
「はああ!?」
 やぶからぼうにとんできたのは、何と言うか、あまりにも突拍子もない言葉。
「オーシ。あんた何言ってるわけ? だってクレイって……」
「まだ二十歳くらいだよなあ。けど珍しいこっちゃねえだろ。親同士が決めた許婚、って奴だったらしい。正式に婚約発表したのはあいつが16くらいのときだったんじゃねえかな? 今から四年くらい前か。いや、若いってのは羨ましいねえ」
「…………」
 一体その話とカップの話がどう繋がるのかがさっぱりわからなくて、あたしは無言。
 そんなあたしを見て、オーシはますます楽しそうに目を細めて。
「けど、神様って不公平だよなあ。リタ。別にクレイが何をした、ってわけでもねえのに、何であいつは、ああもついてねえんだろうな?」
「…………」
 ついてない、というのは、何というか容姿や才能、あらゆる点において恵まれているクレイだけど、唯一の難点として、ちょっと運が悪いこと、を言ってるんだろうけど……
「……何があったのよ」
「聞きたいのか?」
「あんた、ここまで言っといて今更何言ってんの。気になるじゃないの」
「だよなあ。けど、聞いたらおめえさんはきっと後悔するぜ」
「……後悔するくらいなら、最初から言うもんですか」
「言ったな? 後悔しねえな? じゃあ教えてやるよ。死んだんだよ、クレイの婚約者は」
「…………」
 それは、話の流れから薄々予想はしていた言葉だった。
 こういう屋敷で勤めていれば、昔この家で何があった、とか、そんな話は嫌でも耳に入ってくる。
 だけど、あたしはこれまで、クレイに婚約者がいたなんてビッグニュースを、一度だって聞いたことはなかった。
 それは、それだけ……その話が、この家の中でタブーになってる、と。そういうことで……
「死んだ?」
「それも死に方がアレだったからな。まあ何つーか……クレイを迎えに行く途中で、暴漢に襲われてなあ……」
「…………」
「死体はそりゃあひどいもんだったぜ。聞きたいか?」
「っ……もういいっ。いいわよっ……」
 強がりもそこまでだった。顔から血の気が引いていくのを、止めることができない。
 暴漢に襲われた……その意味がわからないほど、あたしだって子供じゃない。
 なるほど。よく、よーくわかったわよっ……婚約者の話に緘口令が引かれているわけが。
 そりゃあ、言えるわけが、ないわよね……
「そう……く、クレイって、本当についてないわねっ……」
「ああ、全くなあ。そうしてせっかくの恋人の形見を、こうして何も知らねえ小娘にあっさり壊されちまって。全くあいつもついてねえなあ」
「…………」
 ぴきんっ、と、身体が強張るのがわかった。
 それまで忘れかけていた壊れたカップが、あたしの手の中で、急に重たくなったような気がして。
「オーシ……」
「そのカップなあ、婚約者の手作りだったんだよ」
 ニヤニヤ笑いながら、オーシは言った。
 笑いながら言うようなことじゃないでしょう、って言いたくなったけれど。それをあたしが言うのはさすがにお門違いってもので、口には出せなかった。
 代わりにできたのは、にらみつけることだけ。
 もっとも、そのくらいでこの親父がへこたれるはずがないってことは、嫌ってくらいにわかっていたんだけど。
「クレイのために、って、その女が丹精こめて作ったカップらしいぜ? そりゃ、値段はつけられねえよなあ。この世のどんなものよりも価値のあるお宝だ。リタ、おめえもそう思わねえか?」
「…………」
「どうした? 顔が青いぜ? だから言ったんだよ、やめとけって」
 オーシの声も、耳に届かない。
 今更ながらに、自分がどれだけ残酷なことをしようとしていたのかを思い知って。
 あたし……あたしってば! 一体、何っ……やってっ……
 自己嫌悪の海に溺れそうになった。今日ほど自分のことが嫌いになったのは、多分、初めて。
「っ…………」
 涙が出そうになった。こんなことで泣くなんてあたしの性分じゃないけれど、自分で気づいたのならともかく、それを他人に指摘された、という事実が余計に辛くて。
 あたし……
「何とかしてやろうか」
 そのとき。
 頭上からぽつんと落ちてきたのは。
 何というか……オーシの、やけに楽しそうな、声。
「オーシ?」
「直してやろうか。手先の器用な知り合いがいるんだよ。知り合いっつーか弟子っつーか。あいつなら、多分その程度なら直せるはずだぜ?」
「ほ、本当っ!!?」
 オーシの言葉に、あたしは一瞬、恥も外聞も忘れてすがりつきそうになった。
 そんな風にして失敗をごまかすなんて、余計に自分が許せなくなりそうだけれど。
 それでも、あの優しいクレイの悲しそうな顔を見るくらいなら……と、そう思って。
「本当に? 本当に直せるんでしょうね? 嘘ついたら承知しないわよ」
「リタ。それが人にものを頼んでる態度かよ?」
「あたしはあんたに頼んでるんじゃないわ! その直してくれるっていう手先の器用なあんたの友人に頼んでるのよ!」
「随分な言い草だな、おい」
 あたしの言葉に苦笑を浮かべて、「けどよ」と、オーシは続けた。
「けど、紹介してやるのも案内してやるのも俺だろうが?」
「そうよ。あたし、あんたの交友関係なんて知らないもの」
「俺に貸しなんか作って、いいのか? 高くつくぜ」
「…………」
 ぴたり、と、動きが止まる。
 そうよそうよ……忘れてたわ。
 オーシはこういう奴なのよね! あ、あたしが! こうして恥をしのんで頼んでるっていうのに! それをあっさりと踏みにじってくれるっ……
「……嫌だって言うつもり?」
「俺は一言も言ってねえぞ。全部おめえさんが言ったんだろうが?」
「っ……そうだけどっ……」
 ああ、言い返せない自分が情けないったら、もう!!
 気がついたら、オーシと話し込んでいるうちに大分時間も経っていた。
 今頃、パステルがあたしを探しているかもしれない。早く戻らないと……
 そう思ったとき、あたしの口から飛び出したのは。
 後になってもどうしてそんなことを言ったのか、自分で自分が信じられない、と首を傾げたくなるような。
 そんな……
「何をして欲しいのよ!?」
「あ?」
「あんたに借りを作るなんて真っ平よ。ええ、確かにあたしがそう言ったわね。何をして欲しいのよ!?」
「はあ?」
 あたしの言葉に、オーシは呆気に取られたみたいだったけれど。それに構わず、あたしは、一歩踏み出した。
 絶対に引くことはできない。何となく、そう思いながら。
「借りは作らない。あたしはタダであんたに何かをしてもらうわけじゃない」
「…………」
「これは対等な取引よ、取引!! さあ、言いなさいよ!」
「……おめえさん、いい商売人になれそうだな」
 あたしの言葉に苦笑を浮かべて。オーシは、「そうさなあ……」と、視線を彷徨わせた。
 ぐっ、とお腹に力をこめる。この親父のことだもの。何を言い出すのかわからない……そう肝に命じて。
 あたしはうろたえたりなんかしないわよ。こんな奴に弱みを握られるなんて、真っ平なんだからっ……
 そう思って、キッと、顔を上げた瞬間、だった。
 あまりにも予想外な言葉が、降ってきたのは。
「けど、何でも、って言ったって。どうせ無理なもんは無理だろうが?」
「はあ?」
「おめえさん、あんまそういうことは軽々しく口にしない方がいいぜ? そこで、俺がもし『じゃあ身体で払ってくれ』とでも言ったらどうするつもりだったんだよ?」
「…………!!」
 聞いた瞬間、顔がかああああああああああああああああああああっ!! と真っ赤に染まるのがわかった。
 なな、何てこと言い出すのよ、このセクハラ親父! か、か、身体ってっ……
「あ、あんたねえっ!」
「冗談だっつーの、冗談。おめえさんにできるわけねえだろうが」
「そ、そういう問題じゃっ……」
「どうせ経験もねえんだろうし」
「…………!」
 脳が沸騰するんじゃないかしら、と思った。
 ええ、確かにあたしは経験は無いわよ、今はまだ。
 好きな男だっていないし、恋人なんていたことは一度もないし!
 けどっ……そんなの、あんたにはっ……
「で、できるわよっ!」
「はあ?」
「身体で? 上等じゃないのっ! ちょっと代価が安すぎる気もするけどっ……それはあたしの不注意だからおまけしておいてあげるわ」
「おい、リタ。おめえさん何言ってんだ?」
「身体が欲しいんでしょ、あたしの! いいわよ、くれてやるわよっ!!」
 ああ、あたし……何、馬鹿なこと口走ってるんだろう……!!
 後になっていくら悔やんだところで、言ってしまった言葉は取り消せない。
 そして、あたしは、一つの信念を持っている。
 「後悔なんかするくらいなら、最初からしない、言わない」って。

 ところ代わって……というほどでもないけれど。
 現在、場所は、裏庭から、その隅に建てられている掘ったて小屋に移動していた。
 作業道具とかがしまってある小屋で、ここに来る人はほとんどいないとか。
 ……何でオーシがそんなことを知っているのか、と言えば。たまにここでさぼってるかららしいんだけど……
 いや、それはどうでもいいわ。今は。
「さあ」
 ばんっ! とドアを閉めると、まだ昼間だって言うのに、小屋の中は随分と薄暗いことがわかった。光が差すところ……つまり、窓がほとんどない造りになっているらしい。
「好きなようにすればいいわよ」
「おい、リタ」
「言ったでしょう。あんたに借りを作るのなんかまっぴらだって!」
 言いながら、エプロンを床に叩きつける。ついで、上着も脱いで、それで壊れたカップをくるむようにして、エプロンの上にそっと置いた。
「お望み通り、あげるわよ」
「あげるって……」
 あたしの言葉にオーシが浮かべたのは、心底情けなさそうな、そんな表情。
「おめえさんなあ。俺はな、ものの例えで言っただけだぜ? 誰も本気で……」
「あ、逃げるの」
「んあ?」
「いざ相手が『いいわよ』って言ったら、怖くなって逃げるってわけね? そうよね。オーシだもの」
「…………」
 ああ、あたしの馬鹿! 挑発してどうするの、挑発してっ!!
 そうやって強気な態度を取りながらも、あたしの背中は実はびっしりと冷や汗が浮いていたりするんだけれど。
 それでも、どうしても引く気にはなれなかった。
 ここで「怖い」なんて言って背中を向けることは、何だか負けを認めるみたいだから。
 オーシなんかに負けたくないって、そう思ったから。
 ……つまらない意地だって言われても仕方がないわね。自分でも、そう思うから。
「あんたが手を出しにくいっていうのなら、あたしから脱いであげましょうか?」
「……あのよ、リタ。だからな、俺は別に……」
「別に? 何よ」
「…………」
「あたしの身体以上に魅力的なものが他にあるとでも?」
「そりゃ山のようにあるだろ。金とか」
 くっ、ぶっ殺すわよこの親父!?
 即座にとんできた台詞に拳を固めたくなったけれど。深呼吸して、どうにか気を落ち着かせた。
 ここで頭に血を上らせてどうするのよ、あたし……いい? あたしはねえ、こんなことでおたおたとうろたえるような小娘じゃない。
 こんなこと、くらいでっ……
「……あんたにその度胸が無いっていうのなら、あたしがやってあげるわよ」
「は?」
「そうすれば、あんたも楽になるでしょ。後で言い訳ができてっ……」
 ぶつんっ!
 言いながら、ワンピースの第一ボタンを外した。
 ついで、第二ボタン。
 胸元があらわになる。オーシの目線がそこに釘付けになっているのを悟って、カッ、と頬が染まるのがわかったけれど。どうにか、震える手を止めないで済んだ。
 ……こんなこと、大したことじゃない。
 そうよ、誰だってやってることじゃない。どうせいずれは経験することになってたんだもの。
 「初めての人は好きな男じゃないと嫌」って駄々をこねるような子供じゃないつもり。ちょっと我慢していればっ……
 ぐっ、と息を止めて、一気にボタンを全開にした。
 そのまま服を下に落とそうとした瞬間、ぐいっ、と手首をつかまれた。
 顔を上げれば、びっくりするくらい間近に、オーシの、真剣な顔があった。
 オーシのそんな顔を見たのはほとんど初めてのことで。そんな顔をすれば、オーシだって少しはまともに見えるのに……そ、あたしがそんな失礼なことを考えていると。
「悪い」
「え?」
「ちっと、悪ふざけが過ぎたな」
 耳に届いたのは、何というか、信じられない言葉。
 どれだけさぼってることや借りた金を返さないことで責められても、のらりくらりと言い逃れをしているオーシが。
 今、あたしに向かって、真剣な顔で謝って……
「オーシ」
「悪かったよ。ほれ、借りなんて思わないでいてやるよ。別に俺が直すわけじゃねえし。おめえの気が済まねえっつーのなら、それはカップ直す奴に言ってくれ。俺には……まあそうだな。うまい飯でも作ってくれりゃいい」
「…………」
「悪かったな」
 何で、あんたが謝るのよ。
 口には出さなかったけれど、胸にたまっているのは、そんな思い。
 何で謝るのよ。あたしが悪いのに。
 カップを割ったのもあたしなら、それを隠そうとしたのもあたし。冗談にムキになって意地を張ったのもあたしで……
 なのに、何で。
「オーシ」
「ほれ。新人が困ってんじゃねえのか? 早く戻れよ」
 そう言って、オーシはぷいっ、とそっぽを向いた。
 そのまま、上着だけあたしに放り投げて、カップは大事そうに自分の上着でくるむ。
「これは俺が頼んできてやるからよ。ああ、言い忘れたけどな、俺の弟子って……」
「オーシ」
「ん?」
 次の瞬間。
 自分でもどうしてそんな感情が浮かんできたのかはよくわからないけれど……
 オーシの言葉を聞いているうちに、胸にたまった思いは、どんどんおかしな形に膨らんで。
 そうして、それが弾けたとき、あたしは……
「っ…………!?」
「…………」
 初めてのキスは、煙草の味がして、あまり美味しいものでもなかった。
「おい、リタ?」
「あたしは借りを作るのが嫌いなのよ。特に、あんたみたいな相手には」
「……だから言っただろうが。直すのは俺じゃねえし。借りを作りたくねえのなら、うまい飯でも作ってくれりゃいいって……」
「馬鹿言わないで。クレイの大切なカップをそんな安いもので済ませるなんて、そんなの、あたしの気が済まないわ。あんたの問題じゃないのよ、これは」
「…………」
「あたしの身体は高いわよ。そのカップとつりあう程度の自信はあるつもり。それともオーシ。あたしじゃ不満?」
「……いや」
 あたしの顔を見れば、オーシにはわかったんだろう。
 さっきまでとは違う。ただ意地を張って、引くに引けなくなって言った言葉とは違う、って。
「馬鹿言え。お釣りが山のようにくらあ。おめえさんは、そんなに安い女じゃねえだろう」
「そう。じゃあお釣りはしっかりもらうわよ。この件は貸しにしておくから」
「……何でそういう話になるんだか。おめえ、本当にメイドなんかやめて商売人になったらどうだ」
 苦笑を浮かべて、オーシは、手を伸ばして、あたしの頭をぐしゃりっ、となでた。
「……子供扱いしないで」
「してねえよ。俺は子供に手を出すほど飢えてねえからな」
「…………」
「立派な、いい女だよ、おめえさんは」
 そう言って、オーシは。
 頭をなでていた手を、ゆっくり、ゆっくりと、首筋へ、落として行った。

 うあっ……
 触れた瞬間、背筋がぞわぞわっ、とするのがわかって。あたしは、声をあげそうになるのを必死に堪えることになった。
 うっ……ま、まずい。変だって思われたかも。
 気になって、ちらりと視線をあげてみたけれど。顔を見ようとした瞬間乱暴に頭を抱きこまれて、その表情はわからなかった。
 ごつん、とおでこをぶつけたのは、意外なくらいたくましくて、広い胸。
「…………」
 惜しいわね。これでもう少し、この親父が……いや、それは言わないでおいてあげるけど。
 今更気になったけどちゃんとお風呂に入ってるんでしょうね、オーシ……
「言っとくけどなあ。今更やっぱ嫌だ、って言っても、もう止められねえからな」
 そんなあたしの表情に気づいているのかいないのか。頭上から聞こえてくるオーシの声は、少し震えているようだった。
「俺の理性なんて当てにすんじゃねえぞ。ここまで来たら止まらねえ」
「馬鹿言わないで。あんたなんかに理性を求めるほどあたしも馬鹿じゃないわよ」
「……随分な言い草だな。おお、わかった。んじゃあ遠慮なくいかせてもらうからな。覚悟はいいな?」
「…………」
 その発言に、「一体何をするつもり!?」と、少しばかり後悔してしまったけれど。
 でも、言葉とはうらはらに。オーシの手つきは優しかった。
 普段の粗忽で無骨な様子からは、ちょっと信じられないくらいに。
「あ…………」
 嘘、これがあたしの声なの!? って言いたくなるような、妙に甘ったるい声が、唇から漏れる。
 もともと脱げかけていたワンピース。その下に大きな手がもぐりこんでいたかと思うと、一気に肩がむきだしにされた。
 ひやり、とした空気が肌に触れて、背筋が震えたけれど。それは、決して寒かったから……じゃない。多分。
「っ……あ……」
「……できればあんま声は出さねえでくれ」
「そんなこと言われたら悲鳴あげたくなるわね。こんなところ見られたら、みんな何て思うかしらねえ?」
「そんときは正直に事情を暴露するだけだな。クレイはさぞ悲しむだろうなあ」
「……黙ってればいいんでしょ、黙ってれば!」
「最初から素直にそう言え。第一なあ、こんなとこ見られたら、恥ずかしいのはおめえさんだろうが?」「…………」
 軽口を叩いてみせたのは、いわば照れ隠しみたいなもの。決して本気で言ったわけじゃない。
 オーシの反撃は、それは確かにそうかもしれないって、素直に思えたから。今度こそ、あたしは、大人しく口をつぐんだ。
 まあ、オーシがあたしを気遣った……なんて。そんな馬鹿なこと、あるわけないけど。
「っ……や、やあっ……」
 けど、いくらこらえよう、こらえようとしても。
 お、オーシ! あんたって……い、いつからそんなっ……
「っ……つっ……」
「痛いか?」
「っ……違っ……」
 びぐんっ!!
 背筋が弓なりにのけぞった。
 落ちたワンピース。下着だけになったあたし。
 そして、その薄い布と肌の間に潜り込んでくるのは……
 誰かに身体に触れられるなんて初めてだった。ましてや、異性に、男に触れられることになるなんて。
 そんなのはずっと先のことだと思ってたのに……
「オーシっ……」
「……おめえさんって、案外……」
「え……?」
「いや……」
 時間が経つのが早いような、遅いような、不思議な感覚に囚われていた。
 一体、今、何時なんだろう……? パステル、大丈夫かしら。困ってない……大丈夫、よね……?
 頭の中を、そんなどうでもいいことがぐるぐるとうずまいて。やがて、それすらもどこか遠いところの出来事のように感じられて……
 あたし、変になってる? 今……何だかっ……
「うんっ……!」
 脚の間を這い登ってきた指が、妙にすんなりと中に潜り込むのがわかった。
 強い刺激。ほんの少し前なら、多分「痛い」って悲鳴をあげてただろうけど。
 今は、どうしてだか、その刺激が物凄く心地よくてっ……
「あっ……」
「……あー」
「え?」
「行くぞ」
「きゃあっ!?」
 不意に、身体が浮いた。
 抱え上げられたんだ、って気づいたのは、それから数秒後。
 自覚をしたのは……
「っ……痛っ……!!」
 引き裂くような痛みが全身を貫いた、その瞬間。

 何だか嵐のような出来事だった。
 一瞬の間で起きた様々なことは、それが本当に現実のことなのか、もしかしたら夢だったんじゃないか、って、そんな風にも思えて。
 けれど、あたしの身体を走るこの痛みは、まぎれもなく現実のもの。
 夢でも幻でもない。あたしは……
「……釣りはまたいずれな」
「…………忘れるんじゃないわよ」
 どう言えばいいのかわからなかった。
 初めてのあたしにとって、こういうとき、普通の恋人が何を話しているのか、なんて知らないから。
 結局、交わされたのは、何と言いますか……そんな、とってもあたし達らしい、言葉。
 けど。
「……後悔なんかしてないから」
 小屋を出るとき、つぶやいた言葉がオーシの耳に届いたのかどうか、それはわからないけれど。
 それでも、あたしは言わずにはいられなかった。
 こんなことになって、オーシが負い目を感じてるんじゃないか、と。
 そう思ったら、黙ってることなんて、できそうもなくて。
「あたしは後悔するくらいなら最初からしない。そういう人間だから」
「……知ってるっつーの、それくらい」
 あたしの言葉に、オーシはぽつんとつぶやいて。
 それから屋敷に戻るまで、あたしとオーシは、二人とも無言だった。
 ずっと、ずっと……

「はあああああああああ!? 弟子ってこいつなの!?」
「おい、何なんだよおめえ、人の顔見るなり!? 失礼な奴だなっ」
 そこで終われば、ちょっといい話? で済んだのかもしれないけれど。
 けどまあ、そこで終わらないのが、オーシらしいと言えばオーシらしい。
 その後、「約束は守るからな」と、オーシは、あたしをあるところに連れて行った。つまり、オーシの弟子……手先が器用で、こんなカップくらいあっという間に直せる、という人のところに。
 そして。
「オーシ……にリタ? 何なんだよ。俺な、今休憩中なんだけど」
「オーシ!? あんたの弟子ってこいつなのっ!!?」
 目の前の不機嫌そうな顔を無視して叫ぶと、オーシは、心なしか胸を張って「まあな」とだけ言った。
 目の前に立っているのは、さらっとした赤い髪とオーシとは逆にひょろりとした体格が特徴的な、黙っていればまあそれなりにいい男。
 トラップ。あたし達の仕事仲間……とでも言えばいいのか。
 クレイの幼馴染で、就職難のあおりをくらってクレイのところに転がり込んできたという変わった経歴を持っていて。一応名目はここの下働きってことになってるんだけど、あたしはこいつが働いている姿なんかただの一度もないし。クレイの知り合いということで、それを大っぴらに注意する人もあまりいないし注意したところで聞くような殊勝な奴でもない。
 まあ、それはともかく。
「はあ? オーシ、ふざけんなよ、おめえ。俺がいつおめえの弟子になった」
「ああ? ご挨拶だな、おめえ。俺がこの間おめえを助けてやったこと、まさか忘れたとは言わせねえぞ? あんとき確かおめえは、博打で財布の中を塵まですってすっからかんに……」
「だああああああああ! わあったわあった!! 何の用なんだよ、一体!!?」
 オーシがぺらぺらとそれはそれは得意げにしゃべるにつれて、あたしの目がどんどん冷たくなったのを感じたのか。トラップは、慌ててオーシの言葉を遮った。
 ……まあ、類は友を呼ぶっていうけど。師匠が師匠なら弟子も弟子よね……
 と、あたしが妙に冷めたことを考えている横で。
「んでな。まあそういうことなんだよ。できるだろ? おめえさんなら」
 と、オーシが事情を説明していて。トラップはトラップで、「あー確かにこんくらい簡単に直せるけどな。ったく面倒な……」なんてぶつぶつ言いながらも、目は真剣にカップを見つめていて。
 その顔を見れば、少なくとも「手先が器用でこれくらい簡単に直せる」っていうオーシの言葉は嘘じゃないだろう、って思えたから。あたしが心の中でホッと安堵していると……
「けどなあ、オーシ。こんなもん、無理して直すほどのもんか?」
 続いたトラップの台詞に、ぴきんっ、と身体が強張るのがわかった。
 そして、その言葉に、オーシの身体がぴしりっ、と強張って……
「……え?」
「い、いやトラップ、それはなあ……」
「あ? だってこれ、あれだろ? クレイのじいちゃんが昔陶芸に凝ってた頃焼いたっつー……よくこんなもんが残ってたな」
「…………」
 嫌な、いや〜〜な沈黙が流れた。
 トラップの言葉が、にわかには信じられなくて。けれど、その顔を見れば、少なくともこいつが嘘をついているわけじゃない、ってことはわかって。
 ……何よ、それ。どういうこと?
「……オーシ?」
「っ……ね、値段はつけられねえだろうが? 手作りっつーのはなあ、一つ一つに気持ちがこめられてだな! 一つ一つに違った価値が……」
「……あたしが聞きたいのは、そんなことじゃないんだけど?」
「…………」
 瞬時に冷たくなる空気に何かを感じたのか。トラップは、「直せばいいんだな」とだけつぶやいて、バタン、と部屋の中にひっこんだ。そうして、廊下に、あたしとオーシ、二人だけが残される。
「……オーシ」
「い、いや、あのなっ……ふ、普段つっぱってるおめえさんが珍しくうろたえてたからよ!? ちっとからかってやりたくなった、っつーか」
「…………」
「……や、その」
「覚悟はいい?」
「…………」
「言ったでしょ? あたしの身体は……高いわよ?」
 無理強いされたわけじゃないから。だから、抱かれたことそのものをとやかく言うつもりはない。
 けど。
 それとこれとは話が別……よねえ?

 その後。オーシがしばらくあたしにいいようにこき使われて、珍しく酒も飲まずに仕事に打ち込む羽目になってクレイを不思議がらせていたんだけど。
 まあ……トラップは言いつけ通りちゃんとカップを直してくれて。
 それがまた見事な仕上がりで、一度壊れたようにはとても見えなくて、クレイには何も気づかれなかったし。
 どんな理由だろうと真面目に働いてくれるのはいいことだし。
 終わりよければ全て良し……ってところ、かしらね。