その言葉を聞いたとき、予想していたはずなのに、どうしてだか胸が痛くなった。
ちょっとした用事があって訪れたエベリンの街。宿に泊まるような余分なお金は無いから、と泊めてもらったマリーナの家。
そんなのはよくあることだったはずなのに、もうそろそろ帰ろうか、って話が出る頃になった日の朝、いつもとは違った出来事が待っていた。
「……話があんだけど」
「え?」
朝食の席。いつもならわいわい騒がしくて、隣の人の話だって大きな声を出さないと聞こえないくらいなのに。
何故だか、そのとき放たれたトラップの言葉は、特別大きな声じゃなかったのに……わたしの耳に、しっかりととびこんできた。
「トラップ? 話って何ですか?」
「どーでもいい話。けど、もしかしたら重大なことかもしんねえ」
問いかけるキットンの言葉に、トラップは乾いた笑みを浮かべて言った。
「俺達、そーいう関係になったんで」
「…………?」
一瞬みんなの顔に疑問符が浮かんだ。トラップの言葉の何もかもが理解できなくて。
「……俺達? そういう、関係?」
つぶやくわたしの言葉に、皆が首を傾げた。トラップと、そしてもう一人を除いて。
ただ一人、何もかもわかってる、って顔をしてもくもくと朝食を食べているマリーナを除いて。
「…………」
それを見たとき。
わたしは次に続く言葉の予想がついていた。それはいつか言われるんだろう、って思っていた言葉で、もしその話が来たら、一番に「おめでとう」って言ってあげようって、そう決めていたはずで……
それなのに。
「あのな、俺とこいつ……男と女の関係になったの。あー、って言ってもどっかの鈍感帝王にはわかんねえかもしれねえからはっきり言ってやる。付き合うことになったんだよ。以上」
ひどく一方的な宣言が、食卓に響き渡った。
鈍感帝王、という言葉でトラップが意味ありげにわたしとクレイの方に目をやったのがわかった。いつもなら、その視線に何かしら言ってやるところだったんだけど。
今は、何も言えなかった。突然胸を突き刺すような痛みが走って、それが、とても苦しくて。
「……そうか」
シーンと静まりかえった食卓。ノルが気まずい表情で「おとことおんなのかんけいって何だあ?」と聞いてくるルーミィとシロちゃんを抱き上げるのが、視界の端に入った。
そんな中、真っ先に声をあげたのはクレイ。
「そうか……おめでとう」
「おめでとうございます」
どこか複雑な表情でつぶやくクレイと、「何でそんなことになってるんですか?」とでも言いたそうな顔をしているキットン。
二人の祝辞を受けても、トラップも、そしてマリーナも、何も言わなかった。
二人とも笑っている。それは確かだったのに、そのどこか投げやりな雰囲気は、とてもじゃないけれど「付き合い始めたばかりの幸せな二人」という風には見えなくて。
そんな二人を見て、ますます何も言えなくなるのを感じながら。
わたしは、黙って食事に戻ることにした。
その話を聞いたときの感想は、「また突然だな」というそんな間の抜けたもので。
けれど、すぐにおかしいことに気づいた……昨夜の出来事を、忘れたわけじゃなかったから。
「…………」
食事に戻る振りをしながら、そっと周りをうかがう。
ルーミィとシロは何もわかってないから当たり前として。ノルも俺達の方を見ようとはせず、二人にご飯を食べさせている。
キットンはしきりに首を傾げていた。「おかしいですねえ。どうしてそうなるんですか?」なんてつぶやいているのが聞こえたけれど、その意味は俺にはよくわからない。
パステルは……どうしたんだろう? いつも笑顔を絶やさない彼女が、何だか泣きそうな顔をしている。
もしかしたらショックを受けているのかもしれないな。パステルも何も知らなかったみたいだから。一言くらい相談してくれてもいいんじゃないか、って。そんな風に思ってるんじゃないだろうか?
自然とそんなことを考えて、そして苦笑してしまった。
トラップはさっき言った。「どっかの鈍感帝王にはわからないだろう」と。
多分それは俺のことなんだろう。そう言ったとき、奴の目はしっかりと俺を見ていた。
確かにそれは否定できないかもしれない……俺は、言われるまで、マリーナの気持ちに気づいていなかったから。
視線をめぐらせる。本来なら皆の質問攻めにあってもおかしくないはずの、今が一番幸せなときのはずの……二人。
トラップとマリーナ。
食卓で隣同士に座って、たった今恋人宣言をしたばかりだというのに。
二人ともやけに静かだった。お互いのことをあまり見ようともしないし、いつもは無駄に騒がしいトラップが無駄口を叩かないなんて、普通じゃない。
……もしかしたら。
ふと、ある考えが頭を過ぎった。
俺はトラップに言われるほど鈍感じゃない、と思っていた。トラップの奴が子供の頃からずっとマリーナを見ていたのは知っていたし、自分自身のことに対しては鈍感かもしれないけど、他人の心を見る目はそれなりに持っているつもりだ、と……今の今まで、ずっとそう思っていたけれど。
何となく思った。
昨夜、俺はとんでもない間違いを犯したんじゃないだろうか、と……
「……トラップ」
「んあ?」
その考えが浮かんだとき。
俺は自然に声をあげていた。もともと静かだった食卓が、張り詰めた雰囲気に包まれる。
「トラップ……」
「あんだよ?」
「お前……」
何を聞きたかったのかは自分でもわからない。
それでも声をかけずにはいられなかった。もしも……俺のこの、漠然とした思いが当たっているのなら。
そうだとしたら、俺は謝っても謝りきれないから。
トラップに、マリーナに、そしてパステルに……
「お前……これから、どうするつもりだ?」
そう聞くと。トラップは、しばらくの間、凍りついたような無表情で俺を見つめていた。
「……どうする、って?」
「いや、その……」
もっと他に聞き方はあったのかもしれない。けれど、今の俺にはこれが精一杯だった。せめてこれ以上皆の心を傷つけないように、真実を探るのは……
「お前……さ。これから、どうする? 冒険者は……続けるのか?」
「…………」
「マリーナと、その……そういう関係になったのなら。置いていくのは、よくないんじゃないか?」
「…………」
だからどうしろなんて言うつもりはなかった。
けれど。
こう聞けばわかるんじゃないかと思ったんだ。トラップの、そしてマリーナの本当の気持ちが。
「別に、どうでも」
トラップの答えは簡潔だった。
少しだけ肩をすくめて、マリーナに視線を向けただけ。
「なあ、おめえどうして欲しい?」
「別に。あんたのことでしょ? あんたが決めればいいじゃない。ああ、言っておくけどわたしは冒険者になるつもりはないわよ。店があるんだから」
「わあってるよ、んなこたあ。おめえについてきてもらおうなんて思っちゃいねえ、最初から」
そう言って、トラップは、ぐるりと俺達を見回した。
「……ま、マリーナはこう言ってるし? おめえらも、俺がいねえと困るだろうし? もうしばらくは一緒に旅してやるよ」
「…………」
その言葉を聞いたとき。
俺は、はっきりと悟った。自分が、とんでもない間違いをしでかしたことを……
昨夜、トラップに好きだと言われた。
そう言われたとき、あんな気持ちになったのはどうしてなんだろう?
夜、そっとマリーナの家を抜け出して。
綺麗な月をぼんやりと眺めながら、わたしは、そっと胸を押さえた。
どうしてなんだろう。あのとき、一瞬でも「嬉しい」って思ってしまったのは。
トラップの本当の気持ちなんか、知っていたはずなのに……
…………
ぎゅっ、と唇を噛み締める。
良かったね、って、そう言ってあげたかった。
初めてマリーナに会ったとき、わたしはたまたまトラップと二人だけで歩いていて。
だから、見ていた。二人の本当に久しぶりとなった再会の光景を。
あんなに嬉しそうなトラップの姿を見たのは、初めてだった……
「…………よかった、ね……」
口に出した途端に、涙が零れそうになった。
見ていたかった。わたしはトラップが幸せになる姿を見たかった。心から笑っていて欲しいって、そう思っていた。
だから望んでいた。トラップがマリーナと幸せになれることを。
いつかこんな風に気持ちが通じ合えるといいね、って……そうして、あのときみたいに笑って見せてねって……ずっと、そう、思って……
なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
どうして……トラップに幸せになって欲しい、って。あんなに強く思ったんだろう……?
自分自身を抱きしめる。夜風が少し冷たくて、背筋が震えた。
わからない。わたしには自分の気持ちがわからないよ。
何で? 何でこんなにトラップのことが気になるの?
代理を求められてるだけだってわかっていながら、どうして好きだって言われて喜んだの? 後で余計に苦しくなることなんかわかっていたくせに。今更っ……
「どう、して……」
答えはすぐに胸に浮かんできた。ううん、もしかしたら、本当は最初からわかっていたのかもしれない。
ただ、信じたくなかっただけ。実るわけはないって思っていたから、目をそらしていただけ。
わたしは、本当は。
ずっと前から、トラップのことがっ……
「……馬鹿。今更……今更気づいたって、遅いのにっ……」
何もかもが手遅れになったって、そう思ってどれだけ泣いても。
手放してしまったものは、もう二度と戻って来ない。
そのドアをノックするのは、とてもとても勇気がいった。
もしかしたらトラップがいるかもしれない。そう思うとそのまま逃げ出したくなったけれど。
その前にドアは開いた。顔を出したのは、見慣れた彼女の顔。
「……あら」
「やあ」
俺の顔を見て、マリーナは少しばかり笑った。とてもとても悲しそうな顔で。
その頬が少し赤らんで見えるのは……もしかして、酔ってるのか? 酒を飲んでる?
「何か用? トラップなら、どこかに出かけたみたいだけど」
「違うよ。君と……話がしたくて。マリーナ」
俺が言うと、マリーナは少しの間黙り込んで。
それでも、ドアを大きく開けてくれた。
「どうぞ」
「ありがとう……ごめん」
部屋の中には、ベッドと机と小さな棚。
そして、机の上に並ぶグラスと酒瓶。
ごめん、と謝ったのには、色々な意味があった。
まずは、君の気持ちにずっと気づかなくて、ごめん……と。
「話って、何?」
俺が何を考えているのか。鋭い彼女は、もしかしたら気づいているのかもしれないけれど。
それは、外から見てもわからなかった。彼女は全くいつも通りに振る舞おうとしていたし、それは大部分成功していたから。
けれど。その表情だけが、決定的にいつもと違っていること……君は、気づいているかい……?
「……昨夜のこと、なんだけど」
「…………」
「あのときの、君の言葉は……本気だったのか?」
「…………」
俺の言葉に、マリーナは無言。
昨夜、俺はマリーナから「好きだ」と言われた。
婚約者がいると知っていて、自分なんか相手にされないだろうってことはわかっていて、それでもずっと好きだったんだ、と……
それを、俺は突き放した。マリーナのことは妹みたいに思っていたし、それに、俺はトラップに幸せになって欲しかった。親友の好きな女性を奪うような、そんな真似はしたくなかったから。
俺の家に来たって、マリーナは幸せにはなれないだろうとも思った。あのおじい様が、サラとの婚約を解消してまでマリーナを家にいれることなんて、許すはずもないとわかっていたから……トラップと一緒になった方が余程彼女のためになる、と。そう思って。
みんなのためになると思って、俺は断ったんだ。マリーナの気持ちを、受け取ることを拒否したんだ。
だけど、どうして。
「昨夜、あの後……何があったんだ?」
「…………」
「俺は、確かに……君に、トラップの気持ちを受け入れて欲しいって、そう思っていたけれど。それでも……唐突すぎるだろう?」
「唐突じゃ、いけない?」
「いけなくはないよ。二人が本気なら、俺だって何も言わないさ。だけど……」
気のせいじゃないってはっきり断言できる。俺は、トラップともマリーナとも、長い長い付き合いだったから。
「だけど、幸せそうに見えないから」
「…………」
「君は……もしかしたら、俺に頼まれたから、って理由でトラップと付き合うことにしたんじゃないか、って。まさかマリーナがそんなことをするなんて思えなかったけれど。でも、そう考えれば君が幸せそうに見えないのは説明がつくだ。だけど、トラップは……」
「…………」
「……君のことを好きだったんじゃ、ないのか……?」
それは、当たって欲しくない予想で。
けれど、何故だか。嫌な予感に限ってよく当たるのは……何でなんだろう?
「遅いわよ」
ぽつり、とつぶやいて。
マリーナが零したのは、涙。
「遅いわよ。どうして今更気づくの? ……いっそ気づいてくれない方が、良かったのに」
マリーナも、トラップも。
思っていたほどポーカーフェイスがうまいわけじゃない。自分の気持ちを完全に殺せるほど嘘がうまいわけじゃない。
そのことに気づいてなかったのは、多分君たちだけなんじゃないか……?
泣き出すマリーナを、痛ましい気持ちで見つめながら。
俺は、戻れるものなら昨夜に戻りたいと、今、痛烈に思っていた。
肩を叩かれたとき、びくん、と身体が震えた。
慌てて目をこする。泣いていた、なんて知られたら、きっと何があったって聞かれるだろうから。
そう聞かれたら、わたしはきっとしどろもどろになってしまうだろうから。そう思って、慌てて取り繕おうとしたけれど。
けれど、遅すぎた。何もかも。
「……何してんだよ、こんな時間に……」
「…………」
それは。
一番聞きたくて、そして一番聞きたくなかった、声。
「……トラップ」
「風邪ひくぜ。もう寒いんだし?」
ゆっくりと振り向く。視界に、見慣れた赤が踊っていた。
昨夜、わたしに「好きだ」と言ってきた彼が。
今、どこか暗い表情で。わたしの前に、立っていた……
「と、トラップこそ……」
「…………」
「何で、こんなところに……マリーナは?」
マリーナ、の名前を出したとき。トラップは一瞬顔を強張らせたけれど。
「おめえにゃ関係ねえだろ……」
そう言って、目をそらされてしまった。
突き放すような口調に、胸の痛みが増した。無理やり止めた涙が、また溢れそうになって。わたしは、慌ててうつむいた。
「……そうだね。ごめん……ね」
「…………」
「じゃ、じゃあ……わたし、そろそろ……」
これ以上トラップの顔を見ていられない。
それを悟って、わたしが慌ててその場を立ち去ろうとしたとき。
いきなり二の腕をつかまれて、そのまま、たたらを踏む羽目になった。
「なっ……」
「何で……」
抗議しようとして振り向いた途端、まともに見てしまった。
月光を浴びて立っている、トラップの顔を。
「何で、おめえは泣いてんだよ……」
「…………」
「嬉しいんじゃねえのかよ!?」
乱暴に肩をつかまれた。強引に引き寄せられて、慌てて足を踏ん張ろうとしたけれど。力で男の人に敵うはずもなく……
「やっ……」
「何で泣いてんだよ!? 嬉しいんだろう。それがおめえの望みだったんだろう!? 俺とマリーナがつきあうこと。そうして欲しいって思ってたんだろ!? なのに、何でっ……」
「トラップっ……」
がくがくと肩を揺さぶられた。首が振れて、目がまわりそうになった。
乱暴にしないで、と言いたかったけれど。その文句は、きっとトラップには届かない。
泣いていたから。
わたしを責めながら、彼は泣いていたから。心から。
……何で。
どうしてっ……
「どうして……」
「……あ?」
「どうして泣いてるの!? わたし、わたしはっ……」
違う。わたしは、トラップのこんな顔が見たくて、あんなことを言ったんじゃない。
「どうしてっ……トラップに幸せになって欲しかった。だから、わたし、はっ……」
「……はっ……?」
唇から漏れたのは、決して言うまいと思っていた、本音。
もし、トラップがいつものように本音の読めない顔で笑っていてくれたら。
わたしはきっと、この胸の痛みを、誰に告げることもないままずっと抱えていたんだろうに。
けれど、彼は見せた。自分の本音を。
その瞬間。
胸の痛みが、少しずつ溶けるように消えて行ったのは……何でなんだろう……?
「……馬鹿じゃないの。クレイも、パステルもっ……」
ベッドに身体を投げ出して。マリーナは、自嘲的に笑った。
「もっとも、一番馬鹿なのは、わたしとトラップだと思うけどね」
「…………」
「今更気づくくらいなら、一生気づかないで欲しかった」
俺はただ立っていることしかできなかった。言うことなんか何も思いつかなかった。
マリーナの態度が全てを物語っていた。あの夜、俺が余計なことを言わなければ。
そうすれば、今……こんな表情を彼女が浮かべることも、なかったんだろうって。
「わたし、昨日トラップと寝たわ」
「…………」
「……まさか、文字通りの意味にとってないわよね?」
「い、いや……」
いくら何でも、俺にだって彼女の言いたいことくらいはわかるから。
ごくりと息を呑んで首を振ると、「笑っちゃうわね」ともう一度つぶやいて、マリーナは首を振った。
「勘違いしないで……トラップはね、わたしを好きだから抱いたわけじゃないわよ」
「…………」
「あいつが好きだったのは……愛しているのは、パステルよ」
その名前を聞いたとき。
俺の心の中で、何かに、決定的に亀裂が入った。
「わたしとトラップはね、兄妹なのよ。昔も、今も、これからもね」
「…………」
「だから、考え方もそっくり……あいつはね、言ったわ。パステルがそれで喜んでくれるのなら、ってね。……わたしも同じ気持ちだったわ」
「…………」
「それであなたが喜んでくれるのなら。わたしは、自分の気持ちを押し殺してトラップと一緒になるくらい、何でもなかったのよ」
「…………」
「あなたのためだったのよ、全部。トラップはパステルのため。パステルね、言ったんですって。トラップはわたしのことが好きなんだろう、って。手の届かない高嶺の花だから、諦めて手近なところで我慢しようとしたんでしょう、ってね。……だから、諦めないで頑張れ、って、そう言ったらしいわ」
「……パステルが?」
「クレイと同じで。あの子も残酷よね。悪気がないから、とても、とても残酷」
「…………」
「だからわたしはトラップと付き合うことにしたのよ。そうすれば、わたしの好きなクレイとトラップの好きなパステルは喜んでくれるから……ねえ、わたしとトラップって馬鹿よね、本当に」
「……いいや」
そういうことだったのか、と。今更ながら、色んなことに合点がいった。
馬鹿だ、俺は。馬鹿で、どうしようもなく鈍感だ。
自分自身に関しては鈍感でも、まわりのみんなのことはわかってるって、そう思っていたのに。
わかっていなかった。俺は何もわかっていなかった。
どうして、どうして……
「ごめん、マリーナ……ごめん」
「どうして謝るの」
「謝らないわけ、ないだろう?」
ずっと気づかなかった。
手を伸ばす。触れたマリーナの身体は、少し熱かった。
そのまま抱き寄せると、微かにアルコールの匂いが漂った。
……こんなになるまで。
飲まなきゃ眠れない。それくらいに辛かったのか? そう思うのは、俺の考えすぎか?
「ごめん」
「……離してよ」
「ごめん。本当に、本当に……ごめん」
気づかなかったよ。自分が、こんな風に思っていたなんて。
ぼろぼろに傷ついた君を見て、放っておけないって、心から思った。
トラップの気持ちを勘違いして、マリーナをそんな目で見るのはやめようと思った。あえてそう思ったことが、証拠みたいなものじゃないか?
本当は、ずっと。ずっと前から、俺は君のことを妹としてなんか見れなくなっていた。
「もう……遅いかな」
「…………」
「放っておけるわけ、ないだろう? なあ、俺はどうしたらいい? 君とトラップのために、俺は何をしたらいい? 教えてくれないか、マリーナ……俺は……」
腕に力をこめる。抱きしめたマリーナの身体は、そのまま折れてしまいそうなほどに、小さかった。
「俺は、君のそんな顔は、見たくないんだ……」
「…………」
そう言ったとき。
背中に腕がまわってきた。そのまま、マリーナは「馬鹿」と叫んだ。
何度も何度も叫んで。
そうして、泣いた。
「……幸せに、なってほしくて……」
「…………」
「マリーナといるときのトラップの顔、すごく嬉しそうでっ……わたしは、あなたのそんな顔を、ずっと見ていたかったからっ……」
「…………」
「だからっ……」
それだけあなたのことを思っていた。
自分の幸せよりも、あなたの幸せのことを考えた。あなたが幸せでいてくれるのなら、それでいいって、心からそう思っていた。
そして。
「……同じこと、言ってんじゃねえよ」
「…………」
「何だよそれ……何、だよ……じゃあ、じゃあ……俺は、何のために……」
「…………」
返事ができなかったのは、唇を塞がれたから。
それは本当に一瞬の出来事で、あっと思ったときには、抱きすくめられていた。
「何のために……」
「…………」
わたしが喜んでくれるのなら、それでいいと思った。
わたしが、マリーナと幸せになってって頼んだから。そうすればわたしが喜ぶって思ったから。
わたしのことを考えて、マリーナと付き合うことにした。
その言葉に、わたしはどう答えればよかったんだろう……?
「なあ……俺は馬鹿か? 世界一の大馬鹿か?」
「……うん……」
「マリーナもな。あいつも、同じようなこと言ってた。なあ、おめえ知ってたか……マリーナはな、ずっとクレイのことが好きだったんだぜ……?」
「……うん……」
それは、知っていた。
知っていたからこそ、余計に強く思った。トラップに幸せになって欲しい、って。
マリーナがクレイと付き合い始める。好きな人が、自分の親友の恋人になる。
そんなことになったら、トラップはどれだけ傷つくだろうって密かに恐れていた。だから……マリーナの幸せよりも、トラップの幸せを、わたしは願った。
けれど。
もうそんな必要は無いんだと……トラップの顔が、言葉が、強く、強く伝えてくれた。
「……俺な、昨日マリーナを抱いた」
「…………」
「おめえが俺のことを見ねえんなら、もうどうでもいいかって思った。マリーナも同じこと言った。クレイがそれで喜んでくれるのなら構わねえってな」
「…………」
「もう……遅い、か?」
「……それは……」
それは、わたしの台詞だった。
ぎゅうっとトラップの服を握り締める。
マリーナを抱いた、という言葉の意味がわからないほど、わたしだって馬鹿じゃない。
それは純粋にショックでもあって、同時に嬉しくもあった。それくらいにわたしのことを考えてくれたんだって、トラップの苦しそうな顔を見たら、わかってしまったから。
「それは、わたしの台詞だよ……」
「…………」
「ねえ、遅いかな? 今更……もう、遅すぎるかな?」
「……遅くなんか、ねえ」
今度は、ゆっくりと唇が降りて来た。
深く吸い込まれる。全身から力が抜けそうになって、慌てて、トラップの腕にすがりくつ羽目になった。
「遅くなんかねえよ……マリーナと誓ったんだよ。俺は一生パステルのことが好きで、あいつは一生クレイのことが好きで……何があったって、この気持ちは、変わらねえ、って……」
「……トラップ……」
「パステルっ……」
暖かい腕が、再びわたしを抱きしめた。
ゆっくりとその首にすがりつく。そのまま、時を忘れて抱き合っていたとき……
「……あ」
小さな声に、トラップが、顔を上げた。
ぴくん、とその腕が強張るのがわかって、わたしも振り向いた。
視線の先にいたのは、マリーナと。そして、彼女の肩を抱いたクレイが。
気まずそうな、それでいてどこか嬉しそうな表情で。わたしとトラップのことを、じいっと見つめていた……
「わりい、あれ冗談な」
翌朝、再び朝食の席で。
トラップが半端な笑顔を見せて皆に告げると、「はああ?」と、キットンが間の抜けた声で言った。
「冗談? 何がですか?」
「だあら、俺がこいつと付き合う、っつー言葉だよ」
こいつ、で指差されたのは当然マリーナで。それを受けても、マリーナは知らん顔。
「俺とこいつは幼馴染で兄妹みてーなもんなの」
「姉と弟の間違いじゃないかしら」
「何か言ったかよ」
「あら、わたしは思ったままを言っただけだけど?」
そんな風に言い合う二人の様子は、昨日のぎこちない様子とは全く違って見えて。
そして、その言葉に、キットンも、そしてノルも、呆れるというよりはどこかホッとしたような顔つきで、「そうですか」と、何度も頷いた。
「そうですかそうですか。いやーやっぱりねえ」
「やっぱりって何だよ」
「いえ別に。それで? 我々にそんなつまらない冗談を言った理由は何ですか?」
「……ああ」
その言葉に。
トラップが浮かべたのは、ここしばらく見ていなかった……掛値なしに幸せそうな、笑顔。
「本当に付き合い始めたのは、こっち」
「……は?」
「だあらっ。相手がマリーナだ、っつーのは冗談で……本当に付き合い始めたのはこいつだって、そう言ってんの」
こいつ、で指差されたのは、当たり前だけど……パステル。
当の本人は、その言葉に最初、ぽかんとしていて。
そして、みるみるうちに真っ赤になった。
「と、トラップ! あなたっ……」
「あんだよ。別にいいだろ? いつまでも隠しておけるようなもんでもねえし」
「だ、だからって……!」
ぎゃあぎゃあと言い争う二人。そんな二人を見て、「やっぱりねえ」と頷きあうキットンとノル。
……もしかして。
トラップの気持ちをおかしな具合に誤解していたのは、俺だけなのか……?
ふとそんな思いに捕らわれて、俺は慌てて首を振った。
そんなことはどうでもいいだろう。大切なのは……
「……で、クレイ」
ひとしきりパステルをからかった後。
トラップは、意味ありげに笑って、俺の方を振り向いた。
その視線に苦笑してしまう。昨夜思いっきり俺の顔を殴りつけて、「おめえが馬鹿で鈍感だったのが悪いんだからな!」と怒鳴ったあいつの顔を、思い出してしまったから。
ああ、悪かったと思ってるさ。だから……せめて。
これからはちゃんと、彼女のことを大切にするって誓うよ。
お前の大切な妹を、泣かせたりしないから。どんなことがあっても、守ってやるから。
「そうだな。聞いてくれ、みんな……俺も、一つ報告があるんだ」
そう言って立ち上がると。
それまで事の成り行きを面白そうに眺めていたマリーナが、少し頬を赤らめて、うつむいた。