親父がリストラを苦に電車に飛び込んだ。そう聞いて母ちゃんが倒れた。
もう悲しむような余裕すらなかった。むしろ、残された方の苦労も考えずに逃げる道を選んだ両親を恨みさえした。
「わたし、働くから」
葬儀の場で、妹のマリーナはうつろな目をして言った。
「どうせ、高校やめたら……暇だしね」
まだ16歳だっつーのに。自分の楽しみより家族のことを心配しなきゃなんねえなんて。
おめえが……おめえと俺が、一体何をしたっていうんだ?
高校に中退届けを出しに行ったとき、教師達は揃って「もったいない」と嘆いてくれた。
成績優秀なんだから、申請すれば奨学金が出ると思う。
考え直したらどうだ?
そう言って散々引き止められた。
じゃあ、おめえらが母ちゃんの入院費を何とかしてくれんのか?
そう言い返すと、引き止めていた奴らは潮をひくようにいなくなった。
どうせそんなもんだろうよ。口先では奇麗事言ったって……所詮世の中は金だ。
派手な化粧と服で飾り立てて夜に家を出て行くマリーナを、止めることもできねえ。
高校中退者の俺達に、真っ当な働き口なんざなかなか見つからねえ。
そう訴えたところで、入院費が安くなるわけでもねえ。
親父の生命保険は、葬式を出して、最初の数ヶ月の入院費と治療費を払って、それだけであっという間になくなった。
毎日毎日バイトに明け暮れて、そうして一番楽しいはずの十代の時間を浪費する日々。
こうなった原因は誰だ?
そう考えたとき、俺に考えられたのは一つだけだった。
復讐してやる。
俺達をこんな絶望のどん底に突き落とした奴らに……復讐してやる。
ターゲットはあっさり決まった。
親父をリストラした人事部長、キング。そいつの一人娘、パステル。
何の苦労も知らずに育った、幸せな娘。それだけで、俺の憎悪を煽るには十分すぎた。
バイトの合間を縫って、チャンスをうかがっていた。自分を付回す人影に、パステルは気づいてもいねえようだったが。
よく笑う娘だと思った。
明るい金髪によく似合う、太陽のような笑顔は、俺には絶対にできねえ表情だと思った。
眩しい、と感じた。
そのうちサングラスをかけるようになったのは、顔を覚えられねえようにするため。それ以上の意味なんかねえ。
復讐相手。それ以上の感情を抱く必要なんざ……ねえ。
チャンスが来たのは、ある夏の日の夕方。
もうすぐ夏休みに入る時期。おあつらえむきに、パステルは一人で暗い雑木林へと足を踏み入れた。
……今だ。
走り出す。この日のために、何度も何度もシミュレーションしてきた。
ぬかりはねえ。
サングラス越しに、パステルの背中が迫った。音に気づいたのか、その足が止まる。
……振り返る暇を、与えちゃいけねえ。
ばっ!!
「うっ!?」
タオルでその視界を覆う。その細い身体を羽交い絞めにする。
自分が何をされそうになってるのか気づいたんだろう。パステルはめちゃくちゃに手足をばたつかせたが、所詮苦労知らずのお嬢さんの力だ。俺の敵じゃねえ。
「んー!!?」
タオル越しに目と口を塞いで、林の奥へと引きずり込む。大丈夫だ。この辺、この時間帯、誰かが来るはずはねえ。
やれる。成功する。
「い……いやあああああああああああああああああああああ!!?」
地面に押し倒した瞬間、絶望に染まった悲鳴が、俺の耳に突き刺さった。
ナイフでセーラー服を切り裂いて、ハンカチを口の中に押し込んで。
その後は無我夢中だった。
女を抱いた経験が無いわけじゃねえ。金持ちのばばあ相手に、そういうバイトをしたことが何度かある。
悦びも快感も感じねえ。あんなものは、ただの肉と肉のぶつかりあいだ。
ただ、それだけの行為だ。俺にとっては。
豊満とは言いがたいが、瑞々しく、汚れを知らねえまっさらな身体。
汚してやるのが目的だ。快感を与える必要なんか……優しくしてやる必要なんかねえ。
そうわかってはいたのに、組み敷いて下着をはぎとって、荒々しく胸をもみしだいた瞬間漏れた悲鳴に、罪悪感を感じたのは何でなんだか。
「んっ……んーっ……」
「…………」
声を出すな。絶対に。俺が誰なのか……ヒントになるようなものは、絶対に残すな。
うめくパステルの耳元に息を吹きかけると、びくり、と背中をのけぞらせた。
犯されてるってーのに……感じてんのか?
まさかな。耳が弱点なんだろ……
もっといたぶってやりたいと思った。もっともっと、こいつの身体を感じていたいと……知りたいと思った。
けど、あんまり時間をかけるわけにもいかねえ。帰りが遅くなれば、あの人の良さだけが全面に押し出されたこいつの両親が……探しにこねえとも限らねえからな。
目的だけを遂行すればいい。
反応しきったモノを取り出し、かけらも潤いを見せていねえ秘所を無理やり貫く。
相当に痛いはずだ。入れた俺の方こそ、その締め付けの凄さと抵抗に顔をしかめたくれえだからな。
くぐもった悲鳴が漏れ、タオルがはりつくほどに涙を溢れさせて……それは、俺の嗜虐心を十二分に満足させると同時、一抹の罪悪感を植えつけた。
こいつ自身が、何をしたってわけでもねえ。
理性はそう告げていた。けれど、感情はこう言い返した。
それなら、俺が、マリーナが、親父が母ちゃんが何をしたって言うんだ?
欲望にまかせて腰を突き動かす。緩みきったばばあの肉体とは全く違う、全てを搾り取ってしまいそうな締め付けの良さが、思いもよらねえ快感を与えた。
初めてだった。
イッた瞬間に、満足感を覚えたのは、初めてだった。
行為が終わったとき、パステルはもう泣く気力もねえようだった。
ぐったりとしたその身体をあますところなく目におさめ、そしてカメラを取り出す。
使い捨ての新品のカメラ。そのフィルムを限界まで使って、あらゆる角度からパステルの姿をおさめる。
これでいい。
写真を撮り続ける間、徐々に大きくなる罪悪感を無理やり押し込めて、俺はつぶやいた。
これが、俺の復讐の第一歩だ。
しばらく、キング家は死人でも出たかのように静かだった。
……いや、案外本当に死んだのかもしれねえな。パステルの心が。
純粋で、男の醜い欲望なんざ見たこともなかったうぶな生娘。あんな目にあったんだ。そうなっても少しもおかしくねえ。
それならそれで構わねえと思った。中途半端な状態で終わるが……それでも、一応目的は達成される。
だが、パステルは出てきた。その笑顔は、以前に比べていくらか翳っていたものの、それでも、外の世界へと戻ってきた。
……意外と、図太いじゃねえか。
歪んだ喜びがわきあがる。
こうでなくちゃいけねえ。復讐相手に簡単に死なれちゃつまらねえ。
あんなものは、ただの不運で済ませられる。……それだけじゃ、つまらねえ。
変わらず高校に通い、やがて卒業していく。勝負は、その後だ。
パステルの大学はわかっていた。通っていたのは、名門の付属高校。特に問題がなければ、大抵の奴はその上の大学へと進むことになる。
大学。一つ年上の幼馴染から聞いたことがある。
高校とは全く違う場所だと。知らねえ奴が一人や二人もぐりこんだってばれやしねえ。授業に全くの部外者が出席しても、聴講に来たと言えばそれで通る、とても自由な場所だと。
そこしかねえと思った。パステルに近づくのに、その場所ほど最適なところはねえと。
それからは、苦労の連続だった。
「俺、しばらく家を出るわ」
マリーナにそう告げると、彼女は信じられない、と言う風に目を見開いた。
「どこ行くのよ?」
「住み込みでのバイト見つけた。飯も出るし、結構割がいいんだよな」
「そうなの?」
俺の言葉に、マリーナは疑わしそうな表情を崩さなかった。
……こいつは、妙に勘のいい奴だから。
俺が、キング家を心の底から憎んでいることも、多分悟ってるだろう。
だが、俺が何を考えているのか、そこまではわかってねえはずだ。
わかっていたら、こいつのこった。絶対に止めただろうから。
「それなら……いいけど。あのね、母さんのところにだけは、ちゃんと顔出してよ? 心配してるんだから」
「わあってるって」
俺がいなくなれば……こいつは、もう家を出るたびに、俺の視線を気にせずに済むだろうから。
明け方、帰ってくるときに、音を立てねえように注意する必要もなくなるだろうから。
「バカなことだけは、しないでよ? 父さんと母さんを悲しませることだけは、しないでね」
出がけにかけられたマリーナの言葉が、痛かった。
わりいな、マリーナ。
……もう、遅いんだよ。
「おめえも、頑張れよ」
できればおめえを助けてやりたかった。こんな生活をさせたくはなかった。
不甲斐ない兄貴で……わりいな。
大学近くの小さなアパート。敷金礼金家賃その他、結構な痛手となったが……
それで、復讐を果たせるなら。安いもんだ。
金を稼ぐ手段なんかいくらでもある。幸いなことに、俺の見た目はそれなりに女心をくすぐるらしい。
暇と金を持て余したばばあどもは、出向けば大歓迎してくれたからな。
心なんかなくたって、女は抱ける。
その程度の行為なんだ……だから、気にするこたあ、ねえ。
狭い部屋の中で、俺は静かに、時が過ぎるのを待った。
四月になり、大学が始まった。
広い敷地内で一人の女を探し出すのは容易なこっちゃねえが……執念ってのは、すげえ。
もちろん、生活のためにバイトをする必要があったから、毎日大学に入り浸れたわけじゃねえが。
大学近くのコンビニをバイト先に選んだのは、店に訪れる、という可能性を考慮してだ。
だが、結局、店で見かけるよりも先に、大学で見つけることができた。
長い金髪と、はしばみ色の目。色白な肌と、太陽のような笑顔。
パステル・G・キング。俺の復讐相手。
9ヶ月前に俺が犯した女が、今、あの頃に比べてやや暗い笑顔で、友人らしき女としゃべっていた。
……見つけたぜ。
口元に笑みがこぼれる。ずれたサングラスをかけなおして、その後を追った。
サングラスをかけたのは、顔を覚えられねえようにするためだった。これからのことを考えれば、今はもう必要のねえもの。
だが、それでも、俺はこれを手放せなくなってきた。
目を見られたら、多分ばれるから。
その視線に憎悪の色がこめられていることを、きっと悟られるから。
パステルの後に続いて、教室に入る。広い教室の、真ん中よりやや後ろの席。
彼女が席につくのを待って、素早く隣の席に滑り込む。
……さあ、ここからが勝負だぜ? 俺。
目的は、ただ一つ。パステルの好意を奪う……端的に言っちまえば、惚れさせること。
「ここ、いいか」
つぶやくと、パステルは弾かれたように振り向いた。
一瞬、視線がぶつかった。
パステルの方からは、俺の視線が見えてねえはずなのに。
何でなんだろうな? その視線が、俺の中まで……何もかも見透かしたように感じたのは。
だが、それもほんの一瞬のこと。次の瞬間、パステルは、荷物を抱えて立ち上がろうとした。
その表情に走っているのは、怯え。
笑みが浮かぶのがわかった。
そうか、やっぱりな……俺が、いや、男が怖いか?
そうだろうな。おめえのような綺麗なお嬢さんには、ちっとばかり刺激の強い体験だったろうよ。
……逃がさねえ。
ぐいっ
小さな手をつかみとる。あのとき、あの夏の日に抑えこんだときよりも、わずかに小さくなったように感じる手。
「おい、人の顔見て逃げんなよ。失礼な奴だな」
「……ご、ごめんなさい」
俺の言葉に、パステルは素直に頭を下げた。だが、その表情には、不服そうな色がある。
言いたいことがあるなら、言えよ?
挑むような目で見てやったが、パステルはその視線に気づかなかったらしい。きょろきょろと周りを見回して、ため息をついて席に座りなおす。
ちら、と視線を向けて気づいた。もう、教室の席が全部埋まっていることに。
……危ねえところだったな。逃げるつもりだったのかよ、こいつ。
「おい」
小さく囁きかけるが、パステルはそれに気づいてねえらしい。じっとうつむいて、何かをつぶやいている。
「おい、人の話、聞いてんのか?」
声を荒げると、びくり、と顔を上げた。
「……聞いてる。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけ」
ぎゅっ、と、手の中で握っているものがさらに小さくなった。
それまで気づかなかった。ずっと、手を握りっぱなしだったことに。
ふと視線をあげれば、パステルが、じっと俺の顔を見つめている。
暖かい手。俺の手とは違う、傷一つねえ綺麗な手。
そのぬくもりを心地いいと感じる自分に苛立ちながらも……何故か、手を離そう、という気にはなれなかった。
しばらく、視線と視線が交じり合った。
「あんだよ。俺の顔に、何かついてんのか?」
どうにも居心地が悪い。それをごまかすために、軽口を叩く。
まっすぐな視線は、それでも、そらすことなく俺の顔を見つめ続けている。
そして。
「……サングラス、取らないの?」
言われた台詞に面食らう。
……どう返せばいいものやら。
結局、俺にできたことは、いつもの態度を取ることだけだった。
「俺の自由だろ?」
「……取れ、なんて誰も言ってないもん」
「そうかよ」
可愛くねえ返事だ。それなのに。
何で、視線をそらさねえ?
根競べみてえなものだった。どちらが先に視線をそらすか。
これは、一方的な勝負。パステルを俺に惚れさせる。そのためには、最初の印象は悪くてもいい。俺という存在を覚えさせること。
ふっと、いたずら心が芽生えた。
顔を近づける。わずかに赤らんだ白い頬を見つめ、耳元で囁きかける。
「……あんた、顔赤いぜ」
「え?」
「熱でもあんのか? だいじょーぶ?」
「だ、大丈夫……」
ぐっ、と額を押し付ける。その瞬間のパステルの狼狽ぶりは、見ものだった。
倒れそうなほどに背筋をのけぞらせ、顔を真っ赤に染めて。
ぱくぱくと開かれた口からは、特に何の文句も出ねえが……照れていることは、一目でわかった。
これでいい。
これで、おめえは俺を忘れなくなるだろう?
笑みがこぼれる。それをごまかそうと、さらに軽口を叩く。
「あ、あんた……おもしれえ人だな」
「お、おもしろいって……」
俺の言葉が不服だったのか、パステルは頬を膨らませたが。
そのとき、入り口に人の気配を感じて、視線をそらした。
初日としちゃあ……上等だろう?
「おっと、先生が来たぜ」
その言葉に、パステルがあたふたと座りなおす。
……さて。これで、顔を覚えさせることには成功した。
次は……
そこで気づく。一番重要なことを忘れていたことに。
ぐっと身体を寄せる。耳元に唇を寄せたとき、その頬にくちづけてしまいたい、と一瞬でも思ったのは……何でなんだろうな?
「俺の名前は、トラップ。あんたは?」
「……パステル。パステル・G・キング」
返事は、思ったよりも素直に返って来た。
……もしかすると。これは、意外と簡単かもしれねえな。
思った以上の手ごたえ。自分でもなかなか魅力的じゃねえか、と思える笑顔を作って、俺は言った。
「同じ授業取るみてえだし……これからよろしくな、パステル」
「…………よ、よろしく」
よろしく。……そう、長い付き合いにはならねえだろうけどな?
授業なんざ、もちろん聞くつもりはねえ。
そもそも、この大学の生徒でもねえ俺には、受ける権利もねえんだからな。
もっとも、誰もそのことには気づいてねえようだったが。
時計に目をやる。本当なら、授業が終わった後、パステルをどこかにでも誘ってやりてえところだが。
生憎バイトがある。生活がかかっている以上、休むわけにはいかねえ。
仕方ねえか。
携帯の番号とアドレスを書いたメモを、パステルのカバンに滑り込ませる。
返事が来るか、来ねえか。
これは、一種の賭けだ。
熱心に授業を聞いているパステルに、そっと視線を送る。
おめえの心を、支配してやる。
どんな手を使っても……な。
ただ生活のためだけの、面白くも何ともねえバイト。
それを終えて部屋に戻ってきたときには、もう夜も大分更けていた。
だが、携帯にしっかりメールが届いていること。パステルの名前と、番号とメールアドレスが記載されたそのメールを見れば、疲れもふっとんだ。
……かかった。
嫌いな男に、自分の番号を教えるバカはいねえ。
俺の印象は悪くねえんだろう。むしろ……気にいられた、と見ていいんだろうな。
そのことに、純粋な喜びがわきあがっているのに気づいて苦笑が漏れる。
バカか。喜んでる場合じゃねえだろ?
これは、復讐だ。そして、それはまだ途中だ。
喜ぶのは、全てが終わってからでいい。
すぐに返信メールを入れる。素っ気無いくらいの短い文章。
「さんきゅ。登録しとく」
繋がりは、持てた。
手帳を開く。この後は、しばらくバイトが詰まっていて、大学に出向いている余裕はなさそうだ。
まあ……しょうがねえか。
女は、メールを打つのが好きみてえだからな。放っておけば、向こうから連絡が入るだろう。
俺から下手に連絡取ると、警戒されるかもしれねえしな……
携帯のマナーモードを解除して、俺は眠りにつくことにした。
夢の中で、太陽のような笑顔を見たような気がしたが……多分、気のせいだろう。
予想に反して、パステルからの連絡は来なかった。
……さすがに、ただ一度会っただけの男にメールを打ちまくるほど、軽い女じゃねえ、ってことか。
いや、レイプされた、っつーことを考えれば、男にメールアドレスと番号を教えることだって、あいつにとっちゃ異常事態なのかもしれねえ。
まあ、仕方ねえ。時間はたっぷりあるんだ。焦ることはねえ。
そう自分に言い聞かせながらも、暇があれば携帯をチェックしている自分に苦笑してしまう。
ところが、チャンスは意外なところから来た。
雨が降りそうな、ある日の午後。
客の少ねえ店内。レジに立って暇を持て余していると、入り口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
おざなりな挨拶を投げかけ、そして身体が強張った。
そこに立っていたのは、まぎれもなく……俺が何度も何度も思い描いた顔だったから。
「……パステルか」
名前を呼ぶと、相手は意外そうな顔をして、俺の方に歩み寄ってきた。
こんなチャンスがあるかもしれねえ、とは思った。そのために選んだバイト先だった。
だが、いざ訪れると……何を話していいのか、わからねえ。
「……バイト?」
そんな当たり前のことを聞いてくるあいつが、妙におかしかった。
「他の何に見えるんだよ」
「ずっと、ここでバイトしてたの?」
「いんや。まだ一週間も経ってねえ」
「そう……」
たったそれだけの、短い会話。
俺は店員で、あいつは客だ。あまりべらべらしゃべっているわけにもいかなかったのも事実だが。
それでも、妙に物足りねえと感じるのは……何でだろうな。
パステルの方も、それ以上会話することが思いつかなかったのか、そのまま店内へと足を進める。
その姿を自然に目で追っている自分に気づいていた。
……気になるのは、当たり前だ。あいつは、憎んでも憎みきれねえ相手なんだからな。
「これ、お願いね」
どさっ、とカウンターに籠を投げ出されて、慌てて視線を戻す。
「いらっしゃいませ」
空虚な挨拶をして、バーコードをスキャンする。
その間にも、サングラスの奥の視線は、パステルを捕らえていたこと……
文房具の棚をまわって、ドリンクの前で足を止めて、そして雑誌のコーナーに移動してきたことまで、しっかり補足していた自分が、少しばかり意外だった。
客が消えた後。カウンターの正面の棚で、立ち読みをしていたパステル。
その姿をじっと見つめていたことになんて、きっとあいつは気づいてもいねえんだろうが。
「……これ、お願いします」
「いらっしゃいませ」
客として現れたあいつが、俺の手元をバカみてえにぽかんと眺めていたこと。
「584円になります……おい、俺の手に、何かついてんのか?」
何気なくつぶやいた軽口に、弾かれたように顔をあげたこと。
俺の視線を受け止めて、とまどったような表情を浮かべたこと。
「あのっ……」
「会計」
何か言いかけたところを遮る俺の言葉に、慌てて財布を取り出したこと。
どれもこれもが、何気ねえことのはずなのに。
あいつの一挙一動が目に止まって仕方がねえのは、何でなんだ……?
「随分慣れてるのね」
「高校の頃も、バイトしてたからな……別のコンビニだけど」
「そう……」
素っ気無い返事しかできねえ自分に苛立つ。
たらしこむのが目的だ。本当は、もっとこいつを喜ばせるような、優しい言葉でもかけてやるべきなんだろうが……
どうしてだか、こいつの前では、演技ができねえ。こいつのまっすぐな視線は、俺の本心なんか簡単に見抜いているような気がして、演技をしようという気になれねえ。
財布をカバンにしまって、パステルがカウンターの前から離れる。
呼び止めたい、一瞬そう思ったが、そのときには、もう別の客が並んでいた。
舌打ちの一つもしてえ気分で、商品のスキャンを始める。
そのとき、目に入ったのは、カウンターに置きっぱなしになった見慣れねえ傘。
ばっと顔を上げる。まだ店から出てねえ。間に合う。
「お客様……お忘れです」
言葉をかけた瞬間、パステルが振り向いたこと。
再びカウンター前に戻ってきたこと。
チャンスだと……思った。あいつが傘を忘れたことはただの偶然だろうが、この偶然こそが……俺が待ち望んでいた、チャンスなんだと。
「これ」
「す、すいません……」
顔を伏せて傘を取り上げるあいつの耳元に、素早くささやきかける。
「……また、メール打ってもいいか」
一瞬、パステルはぽかんとした顔を見せて、そして大きく頷いた。
その顔は、心底嬉しそうだった。
……かかった。
笑みが浮かぶ。微笑みに見せかけてはいたけれど、心の中でどろどろした醜い感情が渦巻いた笑み。
もう逃がさねえ。
おめえの心も、身体も……全部、俺のものにしてやる。
それからは、しょっちゅうパステルが店に来るようになった。
大学に行く必要がなくなって、助かったとも言えるが。
顔を見せるたびに他愛もねえ会話が増え、それに伴いメールも徐々に増えていった。
「ノート、取っておいたよ。今度、店に持っていくね」
「あのデザート、すごく美味しかった。また買いに行くね」
どうでもいい内容ばかりが詰まったメール。それでも、確実にその分量は増えていく。
……間違い、ねえ。
バイトバイトの日々の中で、色々な人間関係を見てきた。見たくもねえのに見させられた。
経験が訴えていた。間違いねえ。パステルは、俺に惹かれている。
惚れてる、というとこまで行ってるかどうかはわからねえが。
……そろそろ、いいな。
毎日のように届くメール。それに返信を打ちながら、俺は手帳のカレンダーを広げた。
5月を過ぎた。パステルと顔を合わせてから、既に一ヶ月近くが経っている。
そろそろ、いいだろう。関係を、一歩前進させてやる。
都合のいい時間帯にこいつが現れるかどうか、それだけが問題だったが。
決意から数日後、その機会はあっさりと訪れた。
後十分でバイトが終わるという時間。店に現れたパステルを見て、俺が内心ガッツポーズをしていたことなんか、もちろんこいつは気づいちゃいねえんだろうが。
「よお。また来たのか。おめえも暇な奴だな」
「暇ってわけじゃないわよ」
最初の頃に比べて、大分砕けた口調になっている。
出会うたびにこんな軽口を叩きあうのも、今となっては挨拶がわりみてえなもんだ。
……誘っても、不自然じゃねえよな?
「そっか。お忙しいようでしたら、しょうがないですねえ」
そう言って、わざとらしく目をそらすと、パステルはあからさまに戸惑いの表情を見せた。
こいつはわかりやすい。素直で、疑うことを知らねえから……その表情から、全ての感情が読み取れる。
「何かあるの?」
「べっつにー。ただ、俺、今日はバイト、六時までなんだよね」
素早くパステルが時計に目をやった。
……乗ってきた。
「もしも暇なら、どこかにお誘いしようか、と不遜にもそう思ったのですが。お忙しいようでしたら、仕方ないですねえ」
「ひ、暇! 暇よっ」
即座に返って来た返事に、俺は笑みを隠すことができなかった。
……バカな奴だな、おめえは。
ちっとは、警戒するってことができねえのか?
どうして、こんな俺のことを信用できる。おめえは、俺のことなんざ何も知らねえくせに。
「んじゃ、店の外で待っててくれっか」
「うん」
満面の笑みを浮かべて頷き、店を出て行く。今日の目的は、一体何だったんだか。
……俺の顔を見るため、か?
その考えは、きっとうぬぼれじゃねえような気がする。
心底嬉しそうな、その笑顔。
それが心の奥に焼きついて離れねえのは、遠い夏の日に浮かんだ罪悪感を呼び覚ましたのは……何で、なんだ?
誘う、と行ったところで、大して金に余裕があるわけでもねえ。
結局、俺が連れていったのは、安さだけがとりえのファーストフードの店。
お嬢さんであるあいつを満足させることなんざ、到底できねえだろうと思っていたが。
意外にも、あいつは嫌そうな顔一つ見せなかった。
「腹減ってんだよね、俺」
そう言うと、あいつは疑いもなく店の中へとついてきた。
「今日は、いつから働いてたの?」
「正午から六時間」
一つのトレイに乗った二人分の食事。
安くなければあえて買おうなんて思わねえ。そんな程度の味なのに、二人で食うと、何故か妙にうまかった。
「何で、そんなにバイトばっかりしてるの?」
何気ない会話の中で。パステルのその言葉は、解釈によっては嫌味にもなりかねねえ言葉だった。
大した深い付き合いでもねえが、わかってる。こいつに悪気なんか何もねえってことを。
ただ、多少世間を知らねえだけだ……そう思うと、怒る気にもなれなかった。
本当なら、これは復讐心を煽る台詞のはずなのに。
「ああ? ……そりゃ、生活費稼ぐためだよ」
「え?」
「だあら、俺一人暮らししてるから。仕送りも少ねえし、バイトで生活費稼がないとやってらんねえの」
「……あ……そ、そうなんだ」
俺の台詞に、パステルは申し訳無さそうに顔を伏せたが。
だが、それ以上余計なことは、一切言わなかった。
金に苦労をしたことのねえ自分が、つまらねえ同情を寄せることは嫌味にしかならねえ。
それを悟っているのかいねえのかはわからねえが……
「そ。だけど、たまには大学に来ないと、進級できなくても知らないから」
次に返って来た台詞は、いつもの軽口と、何の違いもなかった。
「ああ? バカ言え。俺の頭を甘く見んなよなあ。試験の成績さえよけりゃあ、単位はもらえるだろ。大学なんて、そんなもんだって」
くだらねえ会話の応酬。
だけど、楽しかった。
楽しんじゃいけねえとわかっちゃいたが。
それでも、楽しいと思ってしまった。
飯が終わった後も、だらだらと会話を続けていたら、いつの間にか結構な時間になっていた。
……初めてのデートとしちゃあ、こんなもんだろ。
「おめえは、箱入りのお嬢様みてえだからな」
そう言って家まで送ってやると言うと、パステルは不服そうに頬を膨らませた。
「……別にっ、そんなこと、ないわよ」
おめえがお嬢様じゃなきゃ、誰がお嬢様なんだ。
電車に乗って、30分足らず。
パステルと二人で歩くと、それはやけに短く感じた。
俺の部屋とは全く違う、豪邸と呼んでも差し支えねえ大きな屋敷。
……俺の親父達を犠牲にして、建てられた屋敷。
そう自分に言い聞かせる。
そうでも思わなければ、目的を忘れちまいそうだった。
じっと俺を見上げるパステルの目から、視線をそらせなくなっていたから。
つまらねえ会話の一つ一つが、耳に残って仕方が無かった。
……何だよ、この気持ちは。まさか、まさか俺は……
「今日は……ありがとう。楽しかった」
「いんや。別に……」
家の門の前。本当なら、ここで手でも振って、背を向けて、帰らなければならねえ場所だ。
それなのに、パステルはなかなか玄関に向かおうとしねえ。そして、俺もその場を動けねえ。
離れたくねえと、思ってしまっている自分に気づいたから。
「あのっ……」
パステルが何かを言いかけて、そして口をつぐむ。
……何だよ。
言いたいことがあるなら、はっきり言え。
赤らめた頬。俺を見つめる熱い視線。
答えは、明白だった。
「あの、わたしっ……」
その言葉を、最後まで聞くことはできなかった。
気が付いたときには……俺は、パステルの身体を、抱きしめていた。
これは、計画なんだと言い聞かせながら。それでも、身体を突き動かす本能に、逆らえなかった。
「おめえは俺を好きなのか、そう思っていいのか?」
自分から「好きだ」と言わなかったのは、せめてもの強がりだ。
俺は、おめえに惚れてなんかいねえ。
おめえをたらしこむために……復讐のために、俺はおめえに近づいたんだから。
「……トラップは?」
「態度でわかれ」
わかるはずがねえとわかっていながら。
俺は、抱きしめる腕に、力をこめた。
その日、計画の第二段階は終了した。
犯して絶望を植えつけたのが第一段階。
たらしこみ、希望を与えるのが第二段階。
そして、第三段階は……
ゆっくり時間をかけるつもりだった。
時間をかけなきゃ無理だろう、とも思っていた。
それなのに……
焦っていた。
このままでは、目的を忘れてしまいそうな自分がいたから。
早くしなくちゃなんねえ。
取り返しがつかなくなる前に……パステルを、絶望の淵から、這い上がれなくするんだ。
そうでもしなきゃ……俺の心が、持たねえ。
何度かデートを重ねて、そうしてパステルの目が、俺からそらされることの方が少なくなって。
それが目的だったはずなのに、罪悪感に潰れそうになった。
だから、焦っていた。忘れられなくなる前に、取り返しが付かなくなる前に、全てを終わらせちまおうと。
それは、何度目かのデートも忘れた、春の終わりと夏の始めの境目の日。
大学で落ち合って、別路線の電車に乗ってデートをする。俺は滅多に休みがねえから。たまに二人の休みが重なったときは、こうして遠出をする。
どちらが言い出したわけでもねえ、ほんの小さな決まり。
それが、思わぬ機会をもたらした。
脱線事故。それ自体はよくあることだが、起きた時間帯が遅すぎたこと、そのせいで、大学近くまで戻ってきたときには、もう深夜近くになっていたこと、そして、そんな時間にパステルの家へと向かう方面の電車は、終わっていること。
色んな要素が交じり合って偶然にできた、またとない機会。
「あーっ、たく。終電ねえぞ? おめえ、どうする?」
「どうするって……」
俺の言葉に、パステルは困ったように顔をしかめた。
どうする、と言いながらも、大体返事の予想はしていた。
タクシーに乗ったっていいし、過保護な両親のこった。電話の一本もかければ、すっとんでくるだろう。
そう思っていたのに。パステルの唇から漏れたのは、予想外な言葉だった。
「トラップの家って、近く?」
返事をためらったのは、こいつがまさか自分からこんなことを言い出すとは、思ってもいなかったから。
「……まあな」
そう聞かれたとき、次に来る言葉は、大体予想がついていた。
「泊めて……くれる?」
「……いいのかよ、お嬢さん?」
「子供扱い、しないでってば!」
俺の言葉に、パステルは本気で怒っているらしい。
顔を真っ赤に染めて、それでも、俺の腕にすがりついてきた。
いいや、おめえは子供だ。
その顔を見て、胸中でつぶやく。
大人の女だったら……こんなとき、震えたりはしねえ。
小刻みに震えるあいつの手。怯えているのが一目でわかる顔。
怖いなら……どうしてそんなことを言うんだ?
誘うなら、絶対に俺からだと思っていた。おめえが、自分からそんなことを言い出すなんて。
……それほどまでに、俺に惚れてるってのか?
「泊めて」
「……ついてこいよ」
嫌だ、なんて言う理由は何もねえ。
それなのに、ためらいが消えねえのは……パステルの好意を、辛く感じる自分がいるから。
辛く感じる理由については、考えねえ。考えたって、決心が鈍るだけで……いいことなんざ、何もねえから。
「ちっと片付けてくっから、そこで待ってろよ」
「うん」
パステルを部屋の外に待たせて、先に中に入る。
片付ける、と言ったところで。部屋の中に大したものは置いてねえ。
隠すようなものがあるとしたら。
カバンの中から、いつも持ち歩いている写真の束を取り出す。
今となっては、これだけが、俺の復讐心が嘘じゃなかったと証明してくれる、唯一のもの。
ベッドのシーツをはがし、マットレスの下に押し込む。
今はまだ、見られるには早い。
素早くベッドを整えて、部屋を見回す。
……大丈夫、だな。
「……いいぜ」
「お邪魔します」
ドアを開けると、パステルは、頭を下げて玄関をくぐってきた。
部屋に入れると、パステルは物珍しそうに周りを見回した。
「そんなに珍しいかよ?」
「う、ううん、別に……」
お嬢さんであるおめえは、こんな狭い部屋を見たのは……初めてなんだろうな。
口の中だけでつぶやいて、くるりと振り向く。
視線と視線のぶつかり合い。パステルの目は、挑むように俺を見上げていた。
「風呂、使う? 狭いけど。それとも、もう寝るか?」
寝る、という言葉に小さく肩が揺れたのを、見逃さなかった。
「ベッド、貸すぜ。俺は床でも寝れるから」
「……お風呂、貸して」
からかうような言葉に、真面目に反応する。それがおかしくて、俺は声を立てずに笑った。
怯えているくせに。
あの日のことを、忘れたわけじゃねえくせに。
それなのに、せいいっぱい虚勢を張っているあいつの姿がおかしかった。
おかしくて……愛しかった。
「何か、着替え貸してくれる?」
そう言うパステルにYシャツを放り投げる。
下にはくものを貸さなかったのは、わざとだったが、あいつはそれに気づかなかったのか……あるいは、俺になら見られても構わねえと思ったのか、文句は言わなかった。
「タオルは、それ」
「……ありがとう」
狭いユニットバスの中に、パステルの姿が消えるのを見送った後、ごろりとベッドに横たわった。
薄いドアから漏れ聞こえてくる、シャワーの音。
それは、俺の妄想をかきたて、欲情を煽るのに、十分すぎる状況だった。
……計画、なんだ。
全ては計画。あいつを犯したのも、近づいたのも、たらしこんだのも付き合ったのも、全てはこの日のため。
それなのに。
この状況を嬉しいと思っている自分がいる。パステルを抱ける、ということに、男として、純粋な喜びを抱いている自分がいる。
それがどうしようもなく、情けなかった。
ユニットバスなんて使い慣れてなかったせいだろうか。
パステルが風呂からあがってきたのは、それから大分経ってからだった。
大き目のYシャツ一枚羽織っただけの姿。その姿は、この上なく扇情的だ。
瞬間的に反応を示す自分の身体が、恨めしい。
「あの……お風呂、ありがとう」
「どういたしまして」
声をかけられて、立ち上がる。
意地っ張りなあいつのこった。こうすれば、きっと……
「どうぞ。狭いベッドで寝苦しいかもしれませんがねえ?」
予想通り、パステルは顔を真っ赤にして、つぶやいた。
「……わ、わたしの部屋のベッドだって……同じくらいの大きさだから」
ぼすん、とベッドに腰掛ける。俺を見上げるその視線は、どこまでも挑戦的だった。
怯える自分を見せまいと、せいいっぱい虚勢を張っている。そんなことが丸分かりな、視線。
「二人で寝るには、ちょっと狭いかもね」
「……お嬢さんにしては、大胆なこと言うじゃねえの」
心底、そう思う。
男を誘うなんてことは、こいつには一番似合わねえ行為だと思っていたのに。
どうしてどうして……服装のせいかもしれねえが、なかなかに様になっているのは。
それは、おめえが俺に心底惚れてるから……だよな?
「だってっ……トラップは……嫌?」
「まさか」
それこそ、まさかだ。
嫌なわけがねえ。最初から、そのつもりでおめえに近づいたんだから。
パチン、と明かりを消す。豆電球もつけねえ、真の闇。
そうなって初めて、俺はサングラスを外すことができた。
憎悪に濁る視線を隠していたもの。そして、憎悪の中に、思慕、恋情が混じるのを、自分が気づかねえようにするための、フィルター。
真っ暗な中、どすんとベッドに腰掛ける。
真横に、湯上りのパステルの身体を、感じた。
ぐっと肩をつかむ。パステルの目が、俺の目をまっすぐに捉えた。
……暗いから、気づかれるはずはねえ。
そう言い聞かせても怖かった。だから、次の瞬間、俺はパステルの唇を奪っていた。
「んっ……」
想像通り、パステルの瞳が閉じられる。……それでいい。
軽くくちづけた後、頬に、耳に、額に……
うなじに、首筋に。
白い肌に、赤い痕が浮かび上がる。身も心も、俺のものにしたという証。
「あ……」
漏れるつぶやきをかき消すように、再び唇を重ねる。微かに開いた隙間から舌を滑り込ませ、そうしてあいつの全てをからめとるかのような、濃厚なキス。
「んんっ……」
徐々に、抱いている身体から力が抜けていくのがわかった。
微かなきしみとともに、その細い身体をベッドの上に横たえる。
一年前の、あの日、あのとき抱いた身体。
目の前にある身体と、あのときの身体が同じものだとは、どうしても思えなかった。
Yシャツのボタンを一つ一つ外していく。
あらわになる胸元。大して大きくもねえ、と思ったのも、同じ。
けれど、違った。あのときとは、確実に違った。
怯えて、硬いまま、ろくに反応も示さなかったあのときとは違う。
俺の愛撫に素直に身をまかせ、反応し、あえぎ声を漏らし……そうして身をくねらせる様は、この上なく魅力的だった。
シャツの隙間から、手を滑り込ませる。触れた素肌は、とても滑らかだった。
「やあっ……」
感じているのか、どうなのか。俺が手を動かすたびに、パステルの声は段々と派手になっていって……そうしてそれが、俺の子供じみた嗜虐心を煽る。
それは、「好きな子ほどいじめたい」という、ガキと全く同じ心理だと。
気づいてはいたが、目をそらして、そして言った。
「素直に反応してくれんのは嬉しいんだけど……」
胸をなで、ときに強く、ときに弱く。
肩から鎖骨へ、背中をまわってうなじへと愛撫を繰り返す。そのたびに背中をのけぞらせ、声を漏らす。
その耳元に、そっとつぶやいた。
「あんま壁厚くねえから。派手な声出すと、隣に聞こえんぜ?」
「……嘘っ!!」
思った通り、効果はてき面だった。
実際に隣に声が漏れてるのかどうかなんて知らねえし、例え聞こえたところで、顔も知らねえ隣人に恥じる心なんざ持ちあわせちゃいなかったが。
その言葉を聞いて、羞恥に顔を染めるパステルの顔が、それでも愛撫をやめねえせいで、必死に声をかみ殺すその顔が、余計にそそった。
いつしか、俺は行為に夢中になっていた。
女を抱くという行為に、金を稼ぐ手段、あるいは復讐の手段としての意味しか持っていなかったはずなのに。
いつからか、パステルの身体に溺れそうになっている自分に気づいた。
もしも、パステルがその一言を言わなかったならば。きっと、何かは変わっていたはずだ。
「やっ……トラップの、意地悪っ……」
ぴくり
大した意味は無い、とわかっていながらも。
つぶやかれた言葉は、なかなかに聞き捨てならねえ言葉だった。
意地悪。
そう、そうでなければならねえ。
俺は復讐のためにこいつを抱いているんだから……優しくしちゃ、いけねえんだ。
「意地悪ねえ。俺がこんだけ優しくしてやってんのに……」
軽く耳をかむと、パステルの顔がゆがんだ。
わかってるんだぜ? おめえの弱点が、耳だってことは。
あのときも、やけに過敏な反応を示していたよな……?
「んなこと言われたら、もっと意地悪したくなるよなあ……」
ぐいっ、と脚を開かせる。
反射的に閉じようとしたそこに、無理やり自分の身体を割り込ませる。
「やっ……」
「俺がこんだけ我慢してんのに。んなこと言われたら……めちゃくちゃにしてやりたくなるんだよなあ……」
風呂上りの姿を見たときから、密かに反応しっぱなしだったモノを取り出す。
あのときは、硬すぎて、狭すぎて。そしてあっという間だった。
今は、どうだ……?
太ももに手を這わせると、わずかに身体がそらされた。
……逃がすかよ。
がしっ、と肩をつかむ。その瞬間、パステルの表情に走ったのは、怯え。
隠そう、隠そうと必死になってきた怯えが、今、前面に押し出されていた。
「やっ……い……いや……」
「今更。止められるわけねえだろ」
もうすぐ、終わる。
貫いてしまえば、全てが……終わる……
それを残念に思う気持ちを、無理やり追い払って、震える頬のすぐそば、耳元に息を吹きかけた。
特別な意味は無かった。ただ、弱点を責めて、あいつの理性をふっ飛ばしてめちゃくちゃにしてやりてえ、そう思っただけなのに。
その瞬間、予想以上の反応が返って来た。
「い……やああああああ!!」
どんっ!!
返って来たのは、激しい拒絶。
大した力じゃねえけど、それでも、全力をこめて突き飛ばされた。
歪んだ顔を伝うのは、涙。
その涙を見たとき、思い出した。
あのときも、一年前のあのときも、貫く寸前、耳に息を吹きかけたんだよな、と。
まさか……それを、思い出した?
冷や汗が流れる。まさか、俺だと気づかれたはずは、ねえよな……?
痛いくらいの沈黙が流れた。実際のところ、それは杞憂で終わったが。
パステルの顔に浮かんだのは、怯えと後悔、申し訳ない、そういう表情。
「……あ……」
「…………」
とん、とベッドから降りる。
今日は……もう、無理だな。
思い出しちまったようだから。犯されたときの、恐怖を。
「わりい、焦りすぎたな」
「…………」
色んな意味で、それは本音だった。
焦りすぎた。取り返しのつかなくなる前に決着をつけようとして。
目の前に投げ出された肢体が、あまりにも魅力的すぎて。
「ったく。だあら、やめときゃよかったんだって。おめえ、俺に感謝しろよなあ?」
ごろりと床に寝転がる。
気にしてねえ、ということを伝えるために。ここで別れるのは、本意じゃねえから。
まだ、終わってねえから。だから、俺は言った。
「あそこまでいってやめれる男なんて、普通いねえぜ?」
返事はなかった。
ただ、暗闇の中で、押し殺したような泣き声が響いてきた。
……泣くなよ。
そう声をかけてやりてえ。おめえが罪悪感なんか感じる必要はねえんだと。
おめえの身体を汚したのは俺なんだと……そうぶちまけてしまいたい衝動に狩られる。
……バカか、俺は。
ぎゅっ、と目を閉じた。耳に届くすすり泣きの声から、無理やり注意をそらす。
バカか、俺は。何のために……これまで、苦労してきたんだ?
こんなところで、諦めたら……一体、今まで何のために……
何のために、パステルを犯して、傷つけたんだ?
次の機会を待つんだ、と自分に必死に言い聞かせた。
パステルは確かに罪悪感を感じていた。俺に抱かれるつもりは、まだあるんだ。
まだ、チャンスは、ある……
そこで抱くべきは、復讐を遂げるチャンスがある、ということに対する安心感だったはずなのに。
何故か、それより先に、「まだ嫌われてはいない」ということに関する喜びだったのは。
深く考えちゃ、いけねえことだ……
翌朝、パステルが帰っていった後。
乱れたシーツをはぎとって、写真を取り出す。
昨夜抱いた感情を、否定するために。
一枚一枚眺める。俺がしでかしたこと。自分で考え、自分で決めて、そして決行したこと。
引き裂かれたセーラー服。傷ついた身体、脚を汚す血、振り乱された髪。
何もかも、記憶に残っているあいつの姿、そのもの。
輪ゴムで止めて、カバンにしまう。
忘れちゃ、いけねえ。
忘れちゃ、いけねえんだ。
本気になっちゃ、いけねえんだ……
それから後も、パステルは店に来た。
あんなことがあったってのに。それでも、俺を諦めきれねえということか。
何度かデートも重ねた。さすがに、身体の関係にまではいたらなかったが……
必死だった、というのが、一目でわかった。
俺に嫌われるんじゃねえか、と。パステルはそのことに、ただひたすら怯えていた。
そこまで、俺のことが好きなのか。
何度か喉元まで質問がこみあげてきた。
そうまでして……俺を失いくたねえのか?
その答えが出たのは、それから数週間後のことだった。
深夜0時。バイトの疲れもあって、そろそろ寝ようか、という時間帯。
携帯電話の着信音に、俺は飛び起きた。
かけてくる相手によって、着信音をある程度変えているから。取る前から、かけてきたのが誰か、わかった。
「もしもし」
聞こえてきたのは、予想通りの声だった。
「今……大丈夫?」
「ああ」
声が震えていた。
こんな時間に電話なんて、普通じゃねえ。いつもだったら、例え何か用があったとしても、メールで済ませている。
「何か、あったんか?」
「会いたいの」
パステルの言葉は、唐突だった。
思わず時計に目をやる。……こんな時間に?
「会いたいから、大学まで来て……お願い」
「……ああ」
そう言うと、電話は切れた。
……どういうことだよ。
財布だけ持って、立ち上がる。
こんな遅くに……一体、何の話があるっていうんだ?
まさか……
走り出す。大学までは、数分の距離だ。
校門のところに立っていたのは、まぎれもなく……パステル。
「あんだよ、おめえこんな時間に……どうやってここまで来たんだ?」
電車はねえはずだ。親に送ってもらったのか……
だが、俺の予想は、見事に外れた。
「トラップ。あのね、わたし……この間から、一人暮らししてるんだ」
それは、思いもよらねえ言葉だった。
「おめえが? ……あんで。実家、引越しでもしたんか?」
「違うの。……いつまでも、『お嬢さん』でいるのは、嫌だから」
そう言うと、パステルは、まっすぐに俺を見つめてきた。
全く、迷いのねえ目で。
「話したいことが……あるの。今から、わたしの部屋に……来てくれる?」
「……りょーかい」
そのときには、悟っていた。
その目に宿るのは、決意の光。
そして、同時にわかった。
多分、今日が。
こいつと過ごす、最後の日になるだろう、と……
案内されたパステルの部屋は、俺の部屋よりもう少しだけ金のかかりそうな、だけど広さ的には大差ねえ、そんな部屋。
「ごめん……汚い部屋だけど……」
「おめえ、あからさまな謙遜は嫌味だぜ?」
塵一つ落ちてねえ部屋に苦笑する。
いかにもパステルらしい部屋だった。少女趣味なカーテンやベッドカバー。きちんと整理され、掃除の行き届いた……まだ真新しい匂いのする部屋。
床に腰を下ろす。じっとパステルを見上げてやったが、その表情に変化は無かった。
「話って、何だよ」
「……あのね、トラップ。わたし、実は……」
パステルの声は、震えていた。
聞かなくてもわかる、と言いたくなった。おめえは、あのことを言うつもりなんだろう?
一年前の、あの出来事を……
「トラップ。わたし、実はね……去年の夏に……襲われた、の」
予想通りの言葉に、俺はただ、無表情を貫くことしかできなかった。
図書館で本を読んでいて、遅くなった。早く帰りたくて、人通りの少ない道を進んだら、後ろから誰かに襲われた。
抵抗することもできなかったし、タオルで顔をふさがれて、全然顔も声もわからなかった。
そんなことを、ぽつぽつと語るあいつの顔は、どこまでも苦しそうだった。
……言う必要なんか、ねえことなのに。
黙っていりゃあ、普通は、わかりゃしねえのに。
そりゃあ、抱かれれば処女じゃねえことはわかるだろう。けど、昨今大学生にもなって処女っつー方が、ずっと珍しいんじゃねえの?
それなのに、あえて言うってこたあ……
こいつは、俺とずっと一緒にいたいと、そう思ったんだろうな。
だから、嘘はつきたくねえと……そう思ったんだろうな?
そう悟って、感じたのは……喜びだった。
気づかれねえように、手を握り締める。
チャンス、じゃねえか……
そこまで信頼して、惚れこまれて……そこで、俺が裏切ってやれば。
きっと、こいつは立ち直れねえだろう。それこそが、俺の最終目的だったはずだ。
それなのに……
パステルは、何度も何度も言葉を詰まらせながら、それでも起こったことを全てありのままに話した。
当事者である俺だからわかる。嘘は何一つついてねえ。
どこまでもバカ正直で、真摯な告白だった。
……こうなることは、予想していた。
あのパステルの性格を考えれば……本気で惚れた相手に、黙っていられるはずがねえとわかっていた。
そして。
もし告白されたとき、何て答えるか……計画を練ったその時点で、シミュレートは、終わっていた。
「ご……ごめんね……今まで黙ってて……」
「…………」
全てを語り終えたとき。パステルの顔に浮かぶのは、心底申し訳ないという、そんな表情。
「わ、わたし……」
「あんで」
ぐいっ、と腕をつかむ。
抱き寄せた身体からは、微かに石鹸の匂いが漂ってきていた。
「あんで、おめえが謝るんだよ」
「っ……だって……」
「おめえは、別に何も悪くねえじゃん」
「…………!!」
きっと自分を責めているに違いねえ。
自分は悪くないんだと言い聞かせながらも……あのおひとよしで、他人を憎むことが何より苦手なパステルのこった。
最終的には、自分を責めるに違いねえと思っていた。隙があったから、油断していたから、本気で抵抗すれば、あるいは……そんな、言ってもどうにもならねえようなくだらねえことを、気にしているに違いねえと思っていた。
だから、それを否定してやる。
おめえは悪くねえんだと……多分、それがパステルの一番欲しい言葉だろうとわかっていたから。
そう言えば、きっとこいつは、俺から離れられなくなるだろうとわかっていたから。
「わたし……だって、汚れてるって……思わない?」
それは、いかにもパステルらしい言葉。
「あんでだよ」
「だって……」
「綺麗だよ」
腕に力をこめる。胸に押し付けられるパステルの顔。薄いシャツ越しに伝わってくる、熱い吐息。
その全てが、俺の罪悪感をどうしようもなく煽った。今なら……あるいは、今なら。
全てを告白して、許しを請うて、無かったことにできるかもしれない。
そんな考えが、ふと浮かぶ。
けれど、それを受け入れることはできなかった。
電車に飛び込んで、ばらばらに飛び散った親父の身体、心労でげっそりやつれた母ちゃんの顔、男に媚を売ることに疲れ果てたマリーナの表情。
それらの全てが……その甘い、魅力的な考えを受け入れることを、許さなかった。
「おめえは、綺麗だよ。怖かったんだろ。今まで、ずっと怯えてたんだろ? だあら、あのときも……俺が乱暴に扱ったから、それで……」
「トラップ……」
「謝るのは俺の方だ。優しくできなくて……ごめん」
ごめん。
傷つけて、ごめん。裏切って、ごめん。
もっと違う出会いをしたかった。心から、そう思う。
「トラップ」
ぎゅっ、と背中にまわされた腕に、力がこもった。
「優しく……してくれる?」
「ああ。おめえが、そう望むなら」
そっとその唇にくちづける。
もう、止められねえんだ。
今更……止めることなんか、できねえんだ……
その夜、狭いベッドの中で、俺はパステルを抱いた。
一年前、無理やり引き裂いたときとは違う。
数週間前の、怯えて震える身体とも違う。
心から俺を受け入れて、素直に俺の手に全身を委ねて、されるがままに乱れて……
そうして、一つになったとき。
俺の心に、確かに浮かんだのは、愛情だった。
失いたくないと、ずっとこうしていたいという、思い。
その思いに突き動かされるようにして、俺は、力尽きるまで、パステルの身体を抱き続けた。
幸せだった。
翌朝。パステルに背を向けながら。
それでも、俺はそう思わずにはいられなかった。
たまらなく暖かい空気。ずっとこの空気に包まれていてえと……本気で思った。
……親父、母ちゃん、マリーナ……
もし、俺が。
俺がこんなことをしてると知ったら……みんなは、何て言うだろうな?
バカなことをして、って言うだろうな。
……本当にバカだと思うぜ、俺も。
復讐のために近づいた相手だった。
傷つけて、絶望を与えて、救う振りをして最後には裏切る予定だった。
そこまで残酷な計画を立てておきながら、そうして今、九割がた、計画は終わっておきながら。
今更……こんな思いに囚われるなんて。
後悔、するなんて。
壁を見つめながら考える。頭の中を、ぐるぐると色んな考えが渦巻く。
復讐を遂げるべきか。全てを話して、許しを請うべきか。
今更、という思いがある。ここまで来ておきながら、今更許しを請えるような立場か、と。
憎いという気持ちは本物だったはずだ。俺の思いは、そんなに軽いもんじゃねえはずだ、と。
同時に、それでも。例え虫が良いとわかっていても、パステルと一緒にいたいという、そんな勝手な願望が止まらない。
俺は気づかなかった。パステルが目を覚ましていることに。
もしもっと早くに気づいていたら。
そうしたら、運命は変わったのかもしれねえのに。
気づいたのは、パステルがベッドから這い出そうとしたときだった。
……起きてる?
「きゃっ!?」
向き直ろうとしたとき、響いたのは悲鳴。
ごろりと寝返りを打つ。俺が見ていることに気づいてねえのか、パステルは、ベッドの下にうずくまるようにして、床を見つめていた。
「あ……」
その声に身を起こす。そして……
身体が強張った。
ぶちまけられているのは、俺のカバンの中身。
パステルは、それを一つ一つ拾い上げて。
やがて、「それ」に気づいた。
「……え?」
「それ」を拾い上げる。その瞬間、俺は天井を仰いだ。
終わった。ゲーム・セット。
運命は、どうやら……俺に、復讐を遂げろ、と。そう言っているようだ。
「写真……?」
小さくつぶやきながら、パステルは、輪ゴムで止められたそれを、一枚一枚めくり始めた。
最初は、何が写ってるのかよくわからなかったかもしれねえ。
だけど、嫌でも理解するはずだ。
「……え?」
そこに写っているのが、自分だということに。
小さく頭を振って、考えを切り替える。
この瞬間を待っていたはずなんだ。そう、俺はおめえに復讐のために近づいた。
俺達一家がこれだけ不幸な目に合ったのは、全部……おめえの親のせいだと。
そう思ったとき、こうでもしなきゃ、俺は自分の不幸を忘れることができなかったから。
ぎゅっ、とその小さな肩をつかむと、パステルの全身が強張った。
「トラップ……?」
「自分で見つけちまったのかよ。……俺が見せてやりたかったのに」
全ての感情を押し殺す。
俺がおめえに抱いていい感情は、憎しみだけだ。そう自分に言い聞かせる。
ばっ、と振り向いたパステルと、まともに目が合った。
夜に、サングラスを外した、そのままの目。
絶望と憎悪、恋情、後悔、愛情。様々な感情が入り乱れた視線で、パステルをまっすぐに見据えた。
「と、トラップ……?」
「……別に、おめえ自身にゃ、何の恨みもなかったんだけどな……」
ゆっくりと言葉をつむぐ。パステルに伝えると同時、自分に言い聞かせるために。
「おめえの親のせいで……俺達一家が、どんだけ辛い目にあったか……おめえみてえな苦労知らずのお嬢さんには、わかんねえだろうな……」
「あ……」
パステルの顔に浮かんでいるのは、とまどい。
俺が何を言いてえのかわからねえ、そんな顔。
……そうだろう。
おめえが知ってるのは、「トラップ」と名乗っていた俺のことだけなんだから。
「そのせいで、俺も、妹のマリーナも……高校を中退させられて……マリーナはな、おめえより年下だってのに、水商売までやらされてんだぜ? 好きでもねえ男に媚売って、金を手に入れて……そうでもしねえと生きていけなかった、そんな気持ちが、おめえにわかるか?」
「トラップ……?」
「トラップじゃねえ」
この瞬間を、待っていた。
おめえに俺の正体を告げる、この瞬間を。
「ステア・ブーツ。それが、俺の本名だ」
「ブーツ……?」
その名前を名乗ったのは、随分久しぶりな気がした。
トラップと名乗ることで、自分の不幸を忘れたかった。
復讐という生きがいを見出したつもりだった。
それなのに、この胸にちっとも満足感なんか浮かんでこねえ。かわりに、わきあがるのは……
「トラップ……」
「トラップじゃねえって言ってんだろ」
自分の気持ちを否定するために、肩をつかむ手に力をこめた。
ここまで来たら……もう、逃げられねえ。
だったら、せめて。
せめて、最初の思いを貫きてえ。復讐を遂げることで幸せになれると勘違いしていた、あのときの自分も、それは確かに「俺」だったから。
中途半端な状態にするくれえなら、いっそ、徹底的に憎まれてえ。
そんな俺の視線を受けて、パステルは、かすれた声でつぶやいた。
「嘘……だったの?」
「ああ?」
「今まで、優しかったのは……付き合って、くれていたのは……」
「何を、今更」
これだけ、説明しても。
パステルの目には、まだ信じられねえという思いが、浮かんでいた。
そんな目で、俺を見るな。
俺は、俺は……
ぐいっ、とその身体を抱き寄せる。顎をつかんで無理やり視線を合わせたとき……自分の手が微かに震えていたことに、気づいた。
「俺が、一度でもおめえを好きだと言ったことが、あったか?」
「…………」
言わなかった。
認めるのが嫌だった。おめえに惚れてるなんて、到底認めることはできなかった。
おめえをぼろぼろに傷つけておきながら、今更好きだなんて思えるわけがねえと。
復讐のために近づいた相手に惚れるほど、俺はバカじゃねえと。
子供じみた意地とプライドが、認めさせなかった。
それが、こんなところで幸いするなんて。
いや……幸い、じゃねえのかもしれねえ。
パステルの顔から、光が、どんどん消えていった。
太陽のようだった微笑みをかき消して、小さくつぶやいた。
「一つだけ、聞かせて」
「…………」
「あの日……一年前、わたしを……乱暴したのは……」
「乱暴、ね」
パステルらしい、言葉の選び方だと思った。
何も知らねえ、まっさらなお嬢さん。
そんな生々しい言葉……聞いたことも、ねえんじゃねえか?
笑いがこみあげる。あれほど、「子供じゃない」と言い張っていたのに。
最後の最後まで、自分がされた行為を、口にすることもできねえなんて。
「おめえを犯したのは、俺だ」
それは、今まで築き上げてきた関係を木っ端微塵にしてしまう、鍵となる言葉。
「全部、計画だったんだよ。おめえの親に対する復讐。可愛がってる娘が、犯されて、裏切られて……そうと知ったあいつらがどんな顔をするか、見たかった。おめえをたらしこむのが、こんなに簡単だとは思わなかったぜ。バカだよなあ、おめえは……」
言葉が止まらなかった。
いや、止められなかった。
止めてしまえばためらうことがわかっていたから。
許してくれ、と叫びそうになる自分を、わかっていたから。
「何で、絶望のどん底に突き落とした当の本人に、惚れたりしたんだよ?」
そう言い放ったとき。
パステルの顔に、既に何の表情も浮かんではいなかった。
……終わった。
これで、全て終わったんだ。
これが目的だったはずだ。
絶望を与えた後で希望を与え、そしてまた絶望を与える。
どこまでも卑怯で、残酷で……それだけに、復讐としては効果的なはずだと。
自分の不幸をはねのけることもできねえ俺が考えた、浅はかな、復讐。
それ以上、パステルの顔を見ることはできなかった。
服を着て、荷物をまとめて、そして背を向ける。
振り向いたら、駆け寄ってしまいそうだったから。
パステルの顔を見ないようにして、俺は、その部屋を後にした。
バタン、とドアが閉まる音。
その音を聞いても、わたしの心には、何の感情も浮かばなかった。
大切な、人、特別な、人。
失いたくなかったもの。最後の心の拠り所。
それが離れていってしまったのだと。わたしにわかったのは、それだけだった。
ふらりと立ち上がる。もう、何も考えたくなかった。
トラップのことが好きだった。一目見たときから……ずっと惹かれていた。
ずっと一緒にいたいと、そう思っていた。
絶望に染まって、男性を見るたびに怯えて、そうして殻にとびこもっていたわたしを、引きずり出してくれた人だから。
なのにっ……
知らされた事実は、あまりにも残酷だった。
もう……嫌。
こんな現実は……嫌。
そっとお風呂場の戸を開ける。
水がいっぱいに満たされた浴槽。
洗面台に置かれた、剃刀。
右手首を切り裂いたときも、痛みは何も感じなかった。
痛いわけが、ない。
心が、こんなに痛いんだもの……
どぶん、と腕を水につけると、鮮やかな赤が、目に染みた。
いっそ、嫌いになれたらよかった。
トラップのことを嫌いになれたら……裏切られたと知っても、きっと耐えられた。
少しずつ、少しずつ力が抜けていく。ぐったりと浴槽に身をもたせかけて、わたしは目を閉じた。
頬を伝う暖かいものは、何だろう?
出会ってから今までの出来事が、いっぱい、いっぱい駆け巡っていった。
好きだから。
例えトラップはわたしのことを憎んでいたとしても……わたしは、まだ好きだから。
だからこそ……トラップを失った人生なんか、考えられなかった。
ねえ、トラップ。
わたしが、お父さんの娘じゃなかったら。
そうしたら、あなたは……わたしを、好きになってくれた?
ふうっ、と意識が遠のくのがわかった。
答えを知りたかったけれど……しょうがないよね。仮定の話をしたって、仕方がない。
ばたばたという足音がした。バタンッ、とドアが開く音がした。
「パステル!」
それは、きっと空耳に違いない。
トラップのことが好きで好きでたまらないわたしに、神様が最後にくれた、プレゼント。
……ありがとう。
最後に、トラップの声が聞けて……よかった。
お風呂場の前に、誰かが立っているような気がしたけれど、もう目を開けることもできなかった。
そのまま、わたしの意識は、暗い暗い闇の中へと沈んでいった。