彼の傍にいると、どうしてだか……とても心が落ち着いた。
何故わたしにこんなによくしてくれるのかわからない。どうしてわたしを助けてくれたのか、どうして面倒をみてくれるのか……
彼は何も語ろうとしない。ただ、たまたまわたしを見つけただけだ。記憶を失ったというわたしを放っておけなかっただけだ、と、そう言って。
彼の好意に甘えることで、わたしはこうして生きてきた。
記憶を失った、という恐怖を、不安を、乗り越えることができた。
トラップ……
「ずっと前から、おめえのことが好きだった」
傍にいると安心できる。その温もりに包まれていることでホッとすることができる。
その気持ちが恋愛感情に変わるのに、大して時間はかからなかったから。
トラップのその言葉を聞いたときは、とても……とても、嬉しかった。
なのに、どうして……
「トラップのこと、好きになっても、いいかなあ?」
そう言ったとき、頭を、がん! と殴られたような衝撃を覚えた。
何か、とてつもなく重要なことを忘れているんじゃないか。
わたしは……何か、とんでもない間違いを犯したんじゃないか。
そんな風に思ってしまったのは、どうしてだろう?
「好きだ」
トラップの傍にいるととても安心できた。何だか、とても、とても懐かしいような……
ずうっと前からの知り合いだったんじゃないかっていうくらいに、懐かしい匂いがしたから。
なのに、どうして。
「トラップ……?」
ときたま、彼のことが……
どうしようもなく、怖いと感じてしまうんだろう……?
こんな日が本当に来るなんて、俺自身が一番信じられなかった。
「トラップ……」
俺の腕の中で、はにかんだような笑みを浮かべているのは、パステル。
「トラップ……好き……」
「……俺も」
腕の中のパステル。抵抗する素振りは、全くない。
むしろ積極的に望んでいるようにすら見えた。潤んだ瞳が、わずかに開かれた唇が、薔薇色に染まる頬が。
何もかも、俺を誘っているように見えて。
「……好きだ」
「トラップ……」
「ずっと、ずっと前から……おめえのことしか、見れなかったっ……」
力をこめればたやすく壊れてしまいそうなほどに細い身体。
抱きしめれば、唇から漏れるのは歓喜の声。
こんな日が来るなんて思わなかった。ずっとずっとこうしたいと願って、けれどそれは叶わぬ願いだともわかっていた。
一度は諦めようとした。受け入れてくれるわけがねえと、許されるはずもねえと、わかっていたから。
けれど……
「パステルっ……」
服のボタンに手をかけ、その内部へと手を滑り込ませる。
肌と肌が直に触れ合った瞬間、部屋の中に響き渡る甘い声。
「あっ……んっ……」
「パステル。パステルっ……」
「トラップ……」
お世辞にも大きいとは言いがたいが、弾むように押し返してくる瑞々しい胸。ほっそりとしたウェスト。艶やかに光る太もも。
俺のものになったんだ。
そう思うだけで、震えるほどの喜びがわきあがってくる。
ずっと望んでいたこの身体が、ようやく、俺だけのものになったんだ、と。
「パステル……」
狂ったように名を叫びながら、抱いた。
全身全霊をこめて、その身体をむさぼった。
触れるだけで潤いを見せ、素直にあえぎ声を漏らし、繋がった瞬間に見せるは幸せそうな笑顔。
ああ……
俺は、ずっとその笑顔が見たかったんだ。
そうやって俺を受け入れてくれることを、ずっと、ずっと……望んでいたんだ……
「パステル……」
重なる唇とうごめくように絡み合う舌。
「嬉しい……トラップ……」
何も知らずに無邪気な笑みを浮かべるパステルを見ても。
罪悪感のような感情は、一切浮かんでこなかった。
誰に言っても信じてもらえねえだろう。例え信じてもらえたとしても、認められることは決してねえだろう。
恋に落ちることなど決して許されねえ関係。それが、俺とパステルの関係。
パステルは思ってもいなかったはずだ。俺から、ずっとそんな目で見られていたことを。
パステルだけじゃねえ。親も、友達も、教師も。
誰も誰も気づかなかった。俺の胸に宿る、凶暴な思いに。
実の妹を本気で愛してしまったという、言葉にすればただそれだけで終わる、思いに。
最初は諦めるつもりだった。自分の気持ちが異常なことは自分自身が一番よくわかっていた。思いを告げたところで祝福してくれる奴なんざ誰もいねえ。パステル本人を苦しめることになるだけだとわかっていたから。
俺は、この思いを誰にも伝えねえまま、あいつの前から姿を消すつもりだった。
それなのに。
「ギア先生と、付き合うことになったの」
他の誰かに取られそうになった瞬間、悟った。
それは無理だろう、って。
この思いを諦めること、パステルを失うこと……そんなことには、もう絶対に耐えられねえだろう、って……
そして。
どんな手を使ってでもパステルを手に入れてしまいたい、と。思いの暴走を止められなくなった瞬間……俺の中で、全ては壊れた。
どうでもよかった。周囲が何を言おうと、パステルがどれだけ泣こうと苦しもうと。
他の誰かのものになるくらいならば、例え絶望と憎悪に染まった瞳であっても、俺だけを見つめ続けて欲しいと。
そう願って、あいつを、無理やり自分のものにした。
この手で、何度も何度も、あいつの身体を犯した。
そして。
その瞬間、パステルの心は、壊れた。
「パステル。飯、持ってきてやったぜ?」
「ありがとう……トラップ、もう本当にいいのに。わたし、もう身体はどこも悪くないんだし。家事くらいやらないと申し訳なくて……」
「いいっつーの。おめえに任せたら食器全滅にされそうで怖い」
「ひ、ひっどーい! そんなことないもんっ」
「どうだか」
それは、傍から聞いていれば実に微笑ましい、恋人同士の会話に聞こえたかもしれねえ。
そして、実際にパステルはそう思っているんだろう。
あいつは覚えていねえ。俺に抱かれたその瞬間、あいつは、自分のことも、俺のことも、かつては愛して付き合っていたはずの男、ギアのことも。学校のことも親のことも……
何もかも忘れて、ただ自分の名前だけを抱きしめて、自分の殻の中に閉じこもった。
「あなたは……誰? ここは、どこ?」
それが、あの日。目を覚ましたあいつの第一声。
俺との関係も、俺にされたことも、何もかも忘れた真っ白な心で。
俺と再び、巡りあってくれた。
それを心から喜んだ俺に、もう救いが来ることは決してねえだろう。
「……誓ったんだ……」
「初めて」俺に抱かれて。満面の笑みで眠るパステルの身体を抱きしめて。
俺は、虚空へとつぶやいていた。
「誓ったんだよ。俺は……パステルと一緒になれるのなら、この身がどうなっても構わねえ。地獄に堕ちたって構わねえ。どんなことをしたって、他の何を失ったって……パステルさえいてくれれば、それで満足だって……」
小さな身体を抱きしめて。
何度繰り返したかわからねえ誓いを、今日もつぶやいて。
他に誰もいねえ部屋の中で、そっと、目を閉じた。
彼に抱かれている間、とても、とても幸せだった。
いくら記憶を失っているとは言っても、知識までがなくなったわけじゃない。当然、その行為がどんなものかも、その意味も……わたしにはわかっていて。
わかっていても彼のものになりたかった。
痛いとか辛いとか、そんな噂ばかり先に聞いていて、未知のものに対する恐怖がなかったとは言わない。
だけど、彼に任せておけば大丈夫だと……素直に、そう思ったから。
そうして、実際に。彼はとてもとても優しく、わたしの身体を、受け止めてくれた……
痛みなんか感じなかった。ただ甘い快感だけが全身を支配して、とろけそうな幸せだけを、感じることができた。
絵に描いたように幸せな毎日、だった。
けれど……
どうしてだか、ときどき不安になる。
どうして。
彼は……こんなにも。
わたしを手放すことを、恐れているんだろう……?
「買い物くらい大丈夫だってば」
「駄目だっつーの。おめえみてえな鈍くさい奴、一人で外に出せるかって」
「子供じゃないんだから」
「生まれてから一年も経ってねえ赤ん坊と同じだっつーの。それ以前の記憶はねえんだから」
「う……」
「とにかく。大人しくしてろって。気ぃ使う必要なんざねえんだよ。おめえは俺が好きで家に置いてやってるんだ。負い目なんざ感じる必要はねえって」
「…………」
俺の言葉に、パステルは納得いかないような顔をしていたが。
それでも、「絶対に駄目だ」と繰り返すと、それ以上粘ろうとはしなかった。
パステルが記憶を失ってから、もう一年近い月日が流れようとしている。
それだけの期間、あいつは、この家の……俺しかいない家の中で、一歩も外に出ることなく、暮らしてきた。
最初の半年は、外出するなんて気力もないようだったから。自分に何が起きたのか覚えていねえことが余程不安だったのか、外に出たい、と言うこともなかった。
けれど。
俺のことを好きだと言って、俺と気持ちを通じ合わせて。それ以来、徐々に「このままじゃ駄目だ」とでも思い始めたんだろう。
外に出たい。何かがしたい……
そう言いだすことが、日に日に多くなった。
それは、俺がもっとも恐れていた事態。
「……頼むから、どこにも行ってくれるな」
「…………」
そう言ってしまえば、あいつは、もう何も言えなくなる。
俺に惚れているから。俺を失ってしまえば、もう自分には何も無いということをよくわかっているから。
だから、あいつは俺に逆らわない。家にいろ、と言えば、きっと一生その通りにするだろう。
「おめえを、絶対に離さねえ……」
外に出すわけにはいかなかった。どこで知り合いに会うかもわからねえ。記憶を失ったパステルには混乱させるだけだから、余計なことは言うな、と。あいつの友達にも、実の親にすらもそう言い張って。
そうして、俺は、自分とパステルの関係を、徹底的に隠し通してきた。
今更、知られるわけにはいかねえんだ……
一年も経てば、学校の知り合いもいいかげん訪ねてくる奴はいなくなった。
親は滅多に家に帰ってこねえ。「記憶が戻らない娘」にどう接すればいいのか戸惑っているんだろう。たまに帰ってきても、腫れ物を触るようにただ遠くから見つめているだけで。
俺とパステルの関係を邪魔する奴は誰もいねえ。二人だけの空間。それを、誰にも壊させねえ。誰にも邪魔は、させねえ……
「おめえは一生俺だけのもんだ、パステル……」
「トラップ……」
誰に気兼ねすることもなく関係を結べる。それはまさに俺が待ち望んでいた理想の世界。
無理やり犯したあの日、あのとき、パステルは最後の最後まで泣いていた。
「おにいちゃん」と、ずっと以前にやめたはずの呼び名を繰り返して。
最後には、何の感情もこもってねえ空ろな目で、虚空を見つめていた。
そんなパステルが欲しかったわけじゃねえんだ。俺が、俺が欲しかったのは……
「トラップ、大好き」
そう言って笑ってくれる、いつものパステルだったのだから。
どうして外に出してくれないの?
どうして、誰にも会わせてくれないの?
そう聞きたくても、聞けない。何だか、それは聞いてはいけないことのように思えたから。
聞いてしまえば今の幸せが壊れてしまうような……そんな、とても嫌な予感がしたから。
だけど。
「……うっ……」
それは、トラップが大学に出かけているときの出来事。
本当に外出したいのなら、彼が出かけているときでも、お風呂に入っているときでも寝ているときでも、いくらでもチャンスはある。
だけど、黙って勝手に出かければ、トラップが怒るだろうと……怒って、悲しむだろうと、そう思うと、怖くてできなかった。
トラップは優しい。優しすぎるくらいに優しい。
けれど、時々彼が怖くなる。明るい茶色の瞳の奥に、ぞっとするような暗い闇が渦巻いているような、そんな気がして……
ときどき、何を考えているのか、わからなくなることがある……
だけど。
「っ…………」
まさか、と思った。
こみ上げてくる吐き気、眩暈、頭痛。
最初は風邪をひいたのか、とも思った。だけど……直感的に。
何かが違うと、そう、感じた。
「……まさか……?」
そっとお腹に手を当てる。
わたしは医学に詳しいわけじゃないけれど。こんな症状が出る原因なんて、一つしか、思い浮かばなかった。
まさか、この中に……トラップの子供が、いるんだろうか?
そう考えても、否定することはどうしてもできなかった。
彼とこんな関係に経って、どれくらいの月日が流れただろう?
助けてもらったあの日から、もうすぐ一年近い月日が流れようとしていて。好きになってもいいかと告白してから、半年近くが経とうとしていて……
トラップが避妊をしているところを、わたしは、一度でも見たことがあっただろうか……?
「…………」
そっとお腹を抱えて、身を丸める。
嬉しい、と思った。
わたしはトラップのことが好きだから。愛しているから。
彼の子供を宿す。それは、とても嬉しいことのはず。
けれど。
それ以上に、不安の方が大きかった。
「……で、くれるかな?」
喜んでくれるだろうか。彼は……嬉しいって、思ってくれるんだろうか?
結婚、して欲しいって……そう言ったら、迷惑だろうか?
ずっと傍にいたいんだって、そう言っても……いいんだろうか……
よくわからなかった。喜びよりも不安の方がずっとずっと大きいのは……こんなことになったら、普通誰だってそうだろうと思うから。不思議ではないけれど。
「トラップ……」
愛しい人の名前を呼んで。
わたしは、そっと目を閉じた。
その報告を聞いたとき。
最初に感じたのは、「とうとう来たか」という、そんな思い。
「……できた?」
「…………」
俺の言葉に、パステルは恥ずかしそうに頬を染めてうつむいた。
その身体に目立った変化はねえ。この中に、一人の命が宿っているんだ、と言われても、にわかには信じられねえくらいに。
「……マジか?」
「わ、わからない。けど……吐き気が、止まらないの。頭も、痛くて。何だか……」
「…………」
覚悟はできていた。
パステルを抱くとき。一度だって避妊をしようなんて思ったことはなかった。
生のこいつを感じていたかった。余計な隔たりなんか作りたくなかったから。
そして。
そんなことを繰り返していれば、いつかこんな日が来るだろうというのは、わかっていた。
「……堕ろせよ」
「え?」
「生めるわけねえだろう? 堕ろせ」
「…………」
「おめえを愛してる。愛してるからこそ、おめえに余計な苦労はかけたくねえんだよ」
そっとその身体を抱き寄せて、額に、唇に、いくつもキスを落とす。
「子供なんかできたって、邪魔なだけだろうが? 他に誰もいらねえよ。おめえだけがいれば、それでいい……」
「…………」
俺の言葉に、パステルはショックを受けたようだったが。
それでも、反論はしてこなかった。
……本当は。
本当は、俺だって喜んでやりてえんだよ。
けど、駄目なんだ。もしも子供ができたとなったら……
そうしたら、この世界は、きっと壊れちまう。
記憶を失って、ほとんど外出することすらままならなくなったパステル。
そんなパステルを孕ませることができた男なんか、俺以外の誰がいる?
誰にも知られるわけにはいかねえ。絶対に、絶対に。
パステルを愛しているからこそ。
俺は、その子供の存在を……認めるわけには、いかねえんだ。
彼の言うことはいちいちもっともで、反論することなんかできなかった。
けれど。それでも……ショックだった。
「うっ……」
好きだって言ってくれた。愛してるって、言ってくれた。
けれど、子供は生むなって言われた。結婚まで望むのは贅沢だってわかっていたけれど。例え結果として堕ろすことになるとしても……せめて、喜んで、欲しかった。
ごめんって、泣いて欲しかった。
邪魔者を見るような目でなんか、見て欲しくなかった。
誰もいない部屋で、一人で、泣いた。
今、トラップはいない。大学に行ってしまっている。
本当に妊娠したかどうかわからないというと、彼は「そっか」とだけつぶやいて、それ以上何も言おうとはせず。
まるでそんな話は聞かなかったとばかりに、いつものように、わたしを抱いた。
「……トラップ……」
彼の愛情を疑ってしまいそうな自分がいた。それが、とてもとても怖かった。
どうすれば、いいんだろう?
わたしにはトラップしかいないのに。記憶はちっとも戻らない。どうすれば戻るのか、その手がかりすらつかめていない。
わたしは……どうしたら……
「…………」
まだ膨らんでもいないお腹を抱えて、そっと身を起こす。
今の時間なら。
トラップが帰ってくるより前に、帰宅できると思ったから。部屋の中を漁って、トラップの上着を借りて。
わたしは、この家に来て初めて、一人で、外出をした。
薬局に出向いて「それ」を買うのは、とてもとても勇気がいった。
というよりも、まずお金がなかったから。
申し訳ないとは思ったけれど、上着を借りるついでに、トラップの部屋に忍び込んで、少し借りた。まずは確かめることが先決だと思ったから、手段を選んでいることができなかった。
妊娠検査薬。
「……確かめ、なきゃ」
もしも堕ろすのなら、早くしなきゃいけない。わたしにだって、それくらいの知識はあった。
薬局の人と顔を合わせることができなくて、うつむいたまま会計を済ませて外に出る。
早く戻ろうと思った。早くしないと……トラップが戻ってくるかもしれないから。
それだけを考えて、脚を早めた……そのとき。
どんっ!!
「あっ……」
角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。
相手は微動だにしなかったけれど、わたしは、その勢いに耐えられなくて、しりもちをつきそうになってしまう。
……駄目っ!!
反射的にお腹をかばって、横に転がった。無意識のうちにそんなことをしている自分に気づいて、泣きたくなった。
どうせ望まれてはいない子供なのに。今守ってあげたって……近いうちに、殺さなきゃいけない子供なのに。
どうして、わたしは……
そのときだった。
「……パステル?」
「……え……」
響いた声は、聞き覚えのある声。
「パステル。やっぱりパステルなのか!?」
「……あなたは……」
見上げる。そこに立っていたのは、黒髪に長身の、とてもひきしまった体格の男性。
見覚えがあった。わたしが事故にあったばかりの頃、何度かお見舞いに来てくれた……
わたしの、担任の先生だって、そう言っていた、人……
「ギア、先生……?」
「……思い出して、くれたのか?」
わたしの言葉に、先生は一瞬嬉しそうな顔を浮かべたけれど。
わたしが首を振ると、すぐに、その表情は落胆に変わった。
覚えていなかった。
それは本当だった。家に来て、「どうして思い出してくれないんだ」って、何度も何度も叫んでいて。その様子は、ただの担任と教え子っていう関係以上のものがあるんじゃないか、と、そんなことすら考えてしまったけれど。
それはわからなかった。彼自身も、トラップも、何も言ってはくれなかったから。
「ごめんなさい……」
「……いや。君のせいじゃない。仕方のないことだ……君にとって、俺がその程度の男だったと、そういうことなんだろう」
わたしの言葉に、彼は落胆の表情を浮かべながらも、手を差し伸べてくれて。
そうしてひっぱり起こされた。その瞬間、彼の視線が、わたしの手元に釘付けになる。
手に持っている、薬局の袋に。
「…………」
「あ、あの……ありがとうございました。わたし……そろそろ……」
「……いや……」
ギア先生の視線に浮ぶのは、戸惑いの表情。
わたしの全身を眺め回して、手元の袋と、さっきとっさに庇ったお腹を見つめて。
その表情が徐々に強張っていくのに、大した時間はかからなかった。
「あの?」
「……君は、まさか……」
ギア先生の言葉が、硬い。とても信じられない、と、そんな口調で。
「間違っていたら、すまない。失礼なことを言ったと、いくらでも詫びよう」
「…………」
「まさか、君は……妊娠、しているのか?」
言われたのは、確信をつく言葉で。
わたしはそれを、とっさに否定することができなかった。
まだわからない。できているのかどうか……もしかしたら、勘違いかもしれない。けれど、できているかもしれない。
一瞬の迷い。否定しなかったということ。それが、肯定したのと同じことになった。
「……まさか……」
「そ、その……ごめんなさい……」
ギア先生の表情は、どこまでも硬く、そして冷たい。その顔を見ていると、誰に責められるようなことでもないとわかっていても、つい謝らずにはいられなかった。
……どうして……
どうして、先生は、こんなに……
「まさか、その相手は……彼、なのか?」
「……え……?」
「君のお腹の子の父親は」
そう言うとき。
先生の顔から血の気が引いたように見えたのは、わたしの、気のせい……じゃ、ない?
「トラップ、なのか?」
「…………」
否定するようなことじゃなかった。一年、ずっとあの家で、外出することすらなくトラップと過ごしてきたわたしにとって、他に相手がいるわけもなかったから。
けれど、それが。
何もかも破壊してしまうことになるなんて。そのときのわたしには、想像することすらできなかった。
大学に行ってみりゃ、受ける授業が休講だった。
こんなこともあるのが大学ってとこだ。まあ、嬉しい誤算って奴だが。
そんなことを考えながら家に戻る。途中果物屋に寄って、レモンとグレープフルーツを買い込んだ。
妊娠初期は、酸っぱいもんが食いたくなるって言うしな……
無意識のうちにそんなことを気遣って、苦笑しちまう。
堕ろせ、と言っておきながら。認めることはできねえと言っておきながら。
それでも俺は確かに喜んでいた。パステルが、悲しそうな表情を見せたことに。
俺が歓迎していねえことを知って、今にも泣きそうな顔をしたパステル。
あいつは俺に喜んで欲しかったんだ。「良かったな」「これで一緒になれる」って、そう言ってほしかったんだ。
それは、あいつが、身も心も俺のものになったという、確かな証。
「……そうか……」
いっそ、本当にあいつと一緒になるか。
俺達のことなんざ誰も知らない遠い遠い場所へ行って。
そこで、ひっそりと……子供と三人で暮らすか?
何とでもやっていけるだろう。幸いにして身体は頑丈な方だ。内容を選びさえしなければ、パステルと子供一人、食わせてやることくらいはできるはずだ。
親も友達もいらねえ。誰も、いらねえ。
ただパステルさえ傍にいれば……それで、いい。
そんな思いに囚われながら、玄関をくぐったとき。
出迎えたのは、冷たい沈黙。
「……パステル?」
どさり、と、買い込んだフルーツが下に落ちたが。
それにも構わず、俺は走り出していた。
「パステル、パステル!?」
階段を駆け上がる。部屋を片っ端から覗いてみたが、誰の姿も見当たらねえ。
大して広い家じゃねえ。あいつがどこにもいないことは、すぐにわかった。
……どこに、行った……?
身体が震えるのがわかった。
あれほど、どこにも行くなと言ったのに。
あれほど、俺から離れるなと言ったのにっ……
「パステルっ!」
黙って待っていることなんざ、できそうもなかった。
そのまま玄関に舞い戻る。果物を片付けようとか戸締りをしようとか、そんな冷静な考えはチラリとも浮かばなかった。
靴を履くのももどかしく、外にとびだしたそのとき……
どんっ!!
ドアの前に立っていた人影にもろにぶつかり、そのままはねとばされた。
「っ……つつつっ……」
「…………」
「誰……」
顔をあげて、ぎくり、と身体が強張るのがわかった。
そこに立っていたのは。
忘れもしねえ……俺が、何もかも失った……人間らしい心も、理性も、倫理観も、全てをかなぐり捨てることになった、元凶。
「……ギア」
「トラップ。久しぶりだな……卒業以来だから、もう一年近くになるか?」
担任を持ってもらったことはねえが、かつては授業を受けたこともあった。
俺が……パステルが通っていた高校の教師。そして、パステルを奪おうとした男、ギアが。
冷たい冷たい目で、そこに立っていた。
そして。
その背中に隠れるようにして、真っ青な顔をしているのは……パステル。
「……ぱすて……」
「トラップ」
立ち上がった瞬間、胸倉をつかみあげられた。
覗き込むギアの目は、冷たい。どこまでも、どこまでも……
「トラップ。おまえ……自分が何をしたのか、わかっているのか?」
「…………」
その目を見たとき、わかった。
ギアは、多分……何もかも、知ってしまったんだろうと。
「おまえのせいなのか」
「…………」
「パステルがこうなったのは、全て、おまえのせいなのか?」
「…………」
俺は、その言葉にどう答えてやればよかったんだ?
違う、と言えばよかったのか。違う、そんなつもりはなかった。俺は諦めようとしていた。報われねえ思いだということは、自分が一番よくわかっていた。
ギアさえいなければ。
こいつさえ現れなければ。あるいは……こいつが、パステルの卒業まで待ってくれれば。俺が傍を離れてからのことだったら。
少しは、変わったはずだ。少なくとも、パステルが傷つくようなことにだけは、ならなかったはずなのにっ……
「……おめえには関係ねえ」
「トラップ」
「関係ねえ! おめえになんざ関係あるか……俺達が何をした。ただ愛し合っただけだ。誰に文句を言われるようなことじゃねえ。俺が誰を好きになろうと、パステルが誰を好きになろうと……そんなのは俺達の自由だ、そうだろう!?」
がっ!!
めりこんだ拳は、全く容赦というものがねえ一撃。
口の中いっぱいに苦味が走った。吐き出した瞬間、地面に血だまりができて。それを見て、パステルが小さく悲鳴をあげた。
「やっ……」
「こんなことなら、あのとき、何が何でもパステルを連れ出すんだった……」
「…………」
「お前の言葉なんかを真に受けた俺が間違いだったよ、トラップ。自分が鈍いと思ったことはない。お前がパステルに対して、特別な思いを抱いていることは知っていた。けれど。お前がそこまで馬鹿だとは、思わなかった」
「…………」
「どうするつもりだ、これから」
「どうする?」
「パステルのことを、これからどうするつもりなんだ」
「……おめえに、そんなことを教える義理が、あるのか?」
「…………」
「パステルはおめえのことを思い出さなかった」
それだけが、心の拠り所だった。
もしも本当に愛していた相手なら、いくら記憶を失ったとはいえ……顔を見ても何の反応も示さねえなんて、そんなこと、あるはずがねえだろう?
パステルにとって、所詮ギアは本当に恋した相手ではなかった。恋愛感情には恐ろしいほど鈍くて、奥手だったあいつのこと。恋に恋する年頃で、本当の愛ってのが何なのかも知らなかったパステルのこと。
嫌いじゃねえ男に好きだと言われたから断れなかった。それ以上の意味なんざなかったんだとわかって、俺がどれほど喜んだか……
「おめえなんてパステルにとっちゃその程度の男でしかなかったんだ……そんなおめえに、今更、どうのこうの言われる筋合いはねえ」
「筋合い?」
「そうだろうが!? 俺達のことに、おめえに何の関係が……」
「そういう問題じゃないだろう!?」
ギアが言葉を荒げるのを聞いたのは、これが初めてかもしれねえ。
俺の言葉に本気で激昂して。ギアは、まくし立てた。
後ろにパステルがいるんだということ。それを、一瞬とは言え忘れたように。
「そういう問題かっ……トラップ。おまえ、自分が何言ってるのかわかってるのか!? お前とパステルは……」
「…………」
「実の兄妹だろう!?」
瞬間。
空気中で、何かが破壊されるような。そんな音を聞いた、と思ったのは、俺の思い過ごしだろうか?
「…………う、そ………?」
瞬間、響く。パステルの声。
その声に、身を強張らせる、ギア。
「……何、それ……ギア、先生? 何、言ってるの……?」
「…………」
「わたしと、トラップが……」
「パステル」
一歩前に出ようとしたところを、ギアに動きを阻まれた。
それだけは。
それだけは、伝えちゃいけねえ言葉だった。
それだけは、決して言っちゃいけねえ言葉だったのに……
「パステル、それはっ……」
「トラップ……あ……」
立ちはだかろうとするギアを強引に押しのけて、パステルの肩をつかむ。
視線と視線が、もろにぶつかった。その、瞬間。
「…………っ!!」
そのときパステルの表情に走った光は。
一体、何だったのか。
「お……にいちゃん……?」
「…………」
「あ…………」
がらがらと、何かが崩れ落ちるのが、わかった。
今まで、必死になって守ってきた、俺とパステルの二人だけの世界が。
今、大きく崩れ去ろうとしてるんだと。それが、嫌でもわかった。
「トラップ……おにい、ちゃん……」
「…………」
「どう、し……」
どうして、このとき。
俺は、パステルを止めることができなかったのか。
あいつの絶望に彩られた表情。本当に久しぶりに見た……いや、初めて見た表情。
力づくで身体を奪ったあのときよりも、さらに濃い闇で彩られた表情で。
パステルは、走り出した。
前に立つ俺とギアを押しのけるようにして。
一目散に、家の中へと、走りこんでいった。
「パステル!?」
「近寄らないで!!」
バンッ!!
玄関を開け放ったまま、パステルは、言った。ただ、一言だけ。
「近寄らないで……トラップも……ギア、先生も……」
「…………」
「誰も、誰も近寄らないで……見ないで……わたしを見ないでっ……」
冷たく閉じられるドア。重たく立ち込める沈黙。
「……おめえが……」
「…………」
「おめえさえ、現れなければ……」
ギアさえいなければ何もかもうまくいったんだ。
こいつは、どこまでも、俺とパステルの邪魔ばかりして。
どうして、こんな……最後の最後まで。
せっかく、何もかも……うまくいくと、思ったのに……
何もかも思いだした。
けれど、いっそ、思い出さない方が幸せだった。
こんなことになるのなら。
こんな記憶なら。
闇に封じ込められていた方が、ずっと、ずっとマシだった。
どうして……
どうして、こんなことになるの。どうして……
わたしは、ただ。
ずっと傍で見守ってくれた彼を愛した。ただ、それだけだったのに。
パステルに拒絶されたことがショックだったのか。
ギアは、それ以上何も言わなかった。
「許されることだとは思うな」と、警告じみた言葉だけを発して。
どこだかへと、消えて行った。
残されたのは、俺一人。
「……パステル」
静かな家を見上げて、そっと中に入る。
「パステル」
話を聞いて欲しかった。
俺の気持ちに偽りなんか何一つ混じってねえ。
おめえが俺の妹だった。ただそれだけのことなのに。どうして……思いを、否定しなきゃいけねえんだ?
謝れというのならいくらでも謝ってやる。俺がおめえを傷つけたということは、どれだけ否定しようとしても否定できねえ事実。
けれど、だからこそ、余計に。
傷つけずにはいられなかったという気持ちを、わかって欲しかったから。
「……パステル」
返事はどこからもねえ。
何度か声をかけて、二階に上る。だが、部屋の中にあいつの姿はなかった。
……だとしたら。
家に裏口なんてもんはねえ。玄関から出ていない以上……
「……パステル?」
声をかけて、台所を覗く。
そして。
身体が、凍りついた。
「……あ……」
「トラップ……」
パステルが、立っていた。
唇から漏れる、細い息。
手に持っているのは、赤い雫を滴らせる、包丁。
そして。
腹からおびただしく溢れ出す、赤い、赤い液体……
「パステルっ……」
「どうして……」
近寄ろうとした俺を押しとどめたのは。
息をすることさえ辛そうな、パステルの声。
「どうして、こんなことに、なるの……」
「…………」
「どうして、わたし達……」
大きな目に、涙をいっぱい浮かべて。
あいつは、言った。
「兄妹として、生まれちゃったの……?」
それは。
現実をえぐる、冷たい冷たい言葉で。
それでいて……どこまでも、優しい言葉。
だって、そうだろう?
兄妹であることを嘆いているということは……
あいつも、俺を愛してくれていると。そういうことだろう……?
だから。
だから、俺は後悔しねえよ。
力のない足取りで歩み寄ってくるパステル。それを避けようという気には、なれなかった。
腹に潜り込む熱い感触。胸にぶつかる、熱い吐息。
「……トラップ……」
「パステル……」
とびこんできたあいつの身体を、力の限り抱きしめる。
瞬間、口元から血の塊がほとばしって、パステルの白い頬を、赤く、まだらに染め上げた。
挿絵:匿名U様
……言っただろう?
おめえと一緒になれるのなら。この身は、地獄に堕ちたって構わねえんだと。
おめえを失うこと以上に恐ろしかったことなんか、俺には、何一つ、ねえんだから……
「……愛してる、パステル」
耳元で囁いて、精一杯の力をこめる。
腕の中で、パステルは、笑った。
笑いながら、囁いた。
「わたしもだよ……おにいちゃん……」
――トラップ――
その呼びかけは、本当に耳に届いたのか。あるいはただの幻聴だったのか。
次の瞬間、俺とパステルは、もろとも床に倒れこんでいた。
細い身体を抱いたまま、そっと唇を寄せる。
最後のキスは、恐ろしく鉄臭い、血の味のするキス。
けれど。
パステルは、拒否しようとはせず。俺の腕を振り解こうともせず。
キスを受け入れたそのままの表情で、そっと、目を閉じた。