フォーチュンクエスト二次創作コーナー


トラパス 束縛編パステル視点

 どうしてあいつは、いつもいつもああなんだろう……
 ちょっとした買い物と、それと気分転換のためぶらぶらとシルバーリーブを歩いていると。
 わたしの目に飛び込んできたのは、見慣れた赤毛頭。
 どんな遠くからでも絶対見分けられる自信がある。あんなに鮮やかな色、他では見たことが無いから。
「とらっ……」
 かけようとした声を慌てて飲み込んだ。人の波が途切れて、トラップの脇にもう一人、女の子がいるのを見つけて。
 えーと……誰だっけ?
 トラップの腕に自分の腕をからめて嬉しそうに笑っているのは、多分親衛隊の一人……だと思う。よくわたしに「トラップ様から離れなさいよ!」とか言ってきた子達の中にいたような気がする。
 ふーん。今日はその子、なんだ……
 意地悪な思いがこみあげてきて、自己嫌悪に陥ってしまう。
 昨日も、その前も。シルバーリーブを歩いていると、必ずトラップの姿を見かけた。
 そして、彼の脇には、いつも女の子がいた。それも、毎日毎日、違う女の子が。
 わたしが見ていることに気づいていないのか。女の子とトラップは、物凄く親密な様子で何事か言い合いながらどこかへと行ってしまった。だけど、わたしは見逃さなかった。
 腕をからめられて、トラップがちょっとだけ不愉快そうな顔をしたのを。
 べったりとくっつかれて、不機嫌そうに顔をしかめたのを。
 ……なら、どうして一緒に歩いているの?
 聞きたくても聞けない疑問が渦巻く。
 トラップのナンパ好きは昔からだった。ちょっと綺麗な女の子を見るとすぐに声をかけて、適当にデートに誘って。
 でも、絶対に深入りはしなかった。相手の子が本気で好きだと言い出したら、すぐに逃げ出すような……そんないい加減なことを繰り返して。
 だから、今日隣にいたあの子も。あの調子だと、明日には何事も無かったかのように逃げられるんだろうなあ……と。そう思うと密かに同情さえしてしまった。
 こんなこと、絶対に言えないけど。
 ずきずきする胸を押さえて、くるりときびすを返した。
 もう散歩しよう、なんて気分はすっかり無くなってしまった。だけど、今日はみすず旅館には誰もいない。みんなそれぞれ用事があったり遊びに行ったりデートだったり……で、出かけてしまっている。
 こんな気持ちのまま一人で部屋にいるのは辛かったから。わたしは猪鹿亭へと足を向けた。
 誰かに話を聞いてほしかった。この思いが何なのかわたしは知っていて、でも、それに決着をつけるためにはどうすればいいのかがわからなかった。
 ウェイトレスとして、たくさんの人に触れているリタなら……きっと何かいいアドバイスをくれるに違いない。
 そう考えて、わたしは昼下がりのシルバーリーブを、突っ切って行った。

「トラップは、男だからね」
 わたしの話を聞いて、リタは苦笑を浮かべて言った。
 昼食の時間は終わって、でもまだ夕食の準備には早いっていう中途半端な時間。
 猪鹿亭にはわたし以外誰もお客さんはいなかったから。リタにゆっくりと話を聞いてもらうことができたんだ。
 だから、わたしは思い切ってぶつけてみた。「一体トラップは、何を考えているんだろう」って。
「トラップが何考えてるのかわからない。本気になられるのが嫌なら、どうして声をかけたりするのかな。それも手当たり次第に。それでさ……」
 とにかく、今日見た光景も含めて、わたしが不思議に思っていたことを全部全部ぶちまけてしまうと。
 それを黙って聞いてくれたリタが放った第一声が、冒頭の台詞だった。
 ……もっとも、言われたわたしには、さっぱり意味がわからなかったんだけど。
「リタ。それって、どういうこと?」
「どういうって……だからさ、パステル。わたし達女の子と、男って、考え方っていうのかな。求めてるものが違うんだと思うのよね」
 きょとんとするわたしの前に頬杖をついて、リタは、何だか同い年とは思えないようなすごく大人っぽい笑みを見せた。
「女の子ってさ、好きになったらずっと相手と一緒にいたい! とか。そんな風に思うじゃない?」
「うん」
「相手が何してるのか知りたい、いつも自分のことを気にかけていて欲しい……そんな風に思うじゃない?」
「うんうん」
 リタの言葉に、力強く頷く。
 確かにそうだと思う。女の子って……いや、もちろん人によるだろうけど……そういうところ、あるよね。
 だって、わたしも思ってるから、今。
 トラップにわたしを見て欲しい。一緒にいて欲しい。他の女の子に声なんかかけないで欲しい、って。
 それは、多分……わたしが、彼に恋していると。そういうことなんだろう。それを自覚したのは随分前のことだから。以前はそんなことを考えるたびに必死で否定していたけれど。今となってはもう「認めるしかないかな」って、諦めてる。
 好きなんだ。わたしは彼のことが好きで好きでたまらなくて。だから彼のことを何もかも知りたいと思って……でも、それができなくて。だから今、こうしてリタに愚痴ってる。
「でも、それって、そんなに変なこと?」
「変じゃないわよ。相手のことが好きだから……でしょ? それは全然変なことじゃないと思うけど。でも、みんながみんなそんな風に思ってるとは限らないってこと」
 わたしの考えなんか、全部お見通し……そんな顔をして、リタは、いたずらっぽく笑った。
「だけど、男は違うんじゃない? ほら……男、っていうかトラップみたいな男ってさ、べたべたしたの、嫌いじゃない」
「……そう?」
「そうじゃない? 何ていうのかなあ……相手にああしろ、こうしろって命令されるのが嫌いっていうか。何かに縛られるのが嫌い……そう見えない?」
「うーん」
 そんな風に言われると、そうかなあと思ってしまう。
 確かにトラップはそんなところがある。わたしがよく「ずっとみんな一緒にいれたらいいね」っていうようなことを言ったら。「ばあか。いつかは絶対離れ離れになるんだよ。あに甘えたこと言ってんだか」なんて、すっごく冷静な顔で言ってる人だから。
 確かに。彼は……何ていうか。恋人同士だから、四六時中べたべたとデートしているような。そんな付き合いは望まない人だと思う。
「そうでしょ? それにさ、多分面倒なことが嫌いなのよ。深い付き合いになるのが嫌っていうか……あいつは、もっと気楽に楽しく遊べる相手……っていうのを、恋人とかに望んでるんじゃないかしらね?」
「気楽に、楽しく……?」
「例えば。そのときどんなに好きだったとしても……いつか心変わりする日が来るかもしれないでしょ? だけど、だからっていざ別れようと言い出したとき、相手に泣いて嫌だってごねられたり、しつこく理由を聞かれたり……そんな面倒事に巻き込まれるのが嫌いなんじゃないかしら。だから、最初っから相手に深入りさせないようにしてるんじゃないかなあ、って思うのよね」
 そう言って、リタはけらけらと笑った。
「もっとも。そんなタイプの男に限って、いざ一人の女の子に本気になったとき……それまでの反動で、ぼろぼろになるまでのめりこんだりするもんだけどね?」
 リタの視線が意味ありげにわたしをとらえたけれど。わたしはそれに、どう返せばいいのかわからなかった。どういう意味なのかもよくわからなかったし。
 面倒なのが、嫌い。
 それはまさしくトラップにぴたりと当てはまる言葉だった。そんな風に言われたら、彼の軽い態度の意味も大体わかった。
 彼はその日その日が楽しく暮らせれば、それでいいんだろうな。
 何かに縛られる、そんな生活を、送りたくはないんだろうな。きっと……
 そう思ったとき。
 この先、わたしの思いが実る日が来るのかどうか。
 その答えもおぼろげに見えてきて。わたしは、大きな大きなため息をついた。

 ――それでも――
 彼は求めていなくても。わたしは彼を求めてる……

 だから。
 あまりにも突然に「その日」が来たとき。わたしに出来たことは、自分の内面を外に出さないようにすることだけだった。
「……好きなんだよ」
 みすず旅館のわたしの部屋で。
 いつものように執筆に追われていると、突然ノックもなく、赤毛の盗賊が部屋に入ってきた。
「何か用?」
 そう聞くわたしに、彼は何だかひどく複雑な表情で、そうつぶやいた。
 ……好きなんだよ。
 好き。好き……? トラップが。わたしのことを……?
「…………そうなんだ」
 そう聞いたとき。わたしの頭は、目まぐるしい勢いで回転していた。
 どういうこと?
 どうして……あの彼が。トラップが。今、わたしに「好きだ」なんて……?
 どうして? 今まで、一度だってそんな態度……見せたことなかったじゃない。
 それなのに。どうして?
 何度も何度も「どうして」が頭の中を駆け巡って。だけど、うろたえるところなんて、トラップに見られたくなかったから。
 わたしは、必死に平静を装っていた。感情を殺すなんて、わたしにとっては一番難しいことなんだけど。それでも、「トラップにみっともないところを見られたくない」と、そう思うだけで。何とか自分を自制することができた。
「好きなんだよ。……おめえのことが」
 わたしがあんまりにも長く黙っているからか。トラップは少しイライラしたみたいだった。
 同じ言葉を繰り返された。そして最後に一言付け加えられた。
 その一言が、これは夢でも何でもない、と教えてくれて……
 だけど、どう反応すればいいのかわからなかった。

 ――あいつが求めてるのは、気楽に楽しく遊べる相手なんでしょうね――

 この間、リタに言われた言葉が蘇った。
 楽しく遊べる相手。だけど、シルバーリーブの女の子達は、みんなみんなトラップに夢中な女の子ばっかりで。
 彼が望むような軽い付き合いで済ませてくれる子はいないから……だから、彼は見切りをつけた? そして……わたしに目をつけた?
 そう、なの……?
「聞こえてんのか?」
「聞こえてるよ」
 いらだたしげに言われた言葉に即答して、トラップの目を見据える。
 そうなんだ。
 今まで散々、わたしのことを色気がないとか子供だとか、馬鹿にしてきたくせに。
 いざ遊び相手に困ったら……わたしを、選ぶんだ。
 わたしなら、あなたの望む付き合いをしてくれると思ったから……? わたし、そんな軽い女の子に……見えたの?
「ふうん……付き合おうか?」
 そんな風に思ったとき。
 わたしの口から滑り出たのは、自分の本心とは全然違う……それでいて、ずっと望んでいた言葉。
「ああ?」
「トラップと付き合おうか? わたし」
「……あに言ってんだ? おめえ、それ本気か?」
 わたしがあまりにもあっけらかんと答えたせいか。トラップはちょっと面食らったみたいだった。
 驚いた……? そうだよね。
 以前のわたしなら。きっとそんな風に言われたら、「え!? ええっ……ちょっと、何? それ、本気? 冗談? 突然何?」なんて……慌てふためいただろうから。
 だけど。今のわたしは……もう以前のわたしじゃないんだ。
 心が酷く冷めているのがわかった。トラップにそんな付き合いを求められていると知ったのが悲しくて。
 そして、そんな軽い女の子に見られていながら……それでも、「好きだ」という言葉を、例えそれが本気でないにしろ……嬉しく思っている自分が、悲しくて。
「トラップこそ何言ってるの……?」
 だから。
 だから、わたしは怒ることができない。
 トラップのことが好きだから。例え求められているのが一時的な関係だとしても。
 嘘でも彼を嫌いということができないから。断ることが、できない。
「付き合って欲しいから、『好きだ』って言ったんじゃないの?」
「付き合うって意味がわかってんのか、おめえ」
「……彼氏彼女の関係になる。そういうことじゃ、無いの?」
 彼氏彼女。
 言葉にしてから、ちょっと言い過ぎたかな、と思った。
 彼が真剣な付き合いを望んでいないのなら。そんな言われ方は、きっと嫌がるだろうと思ったから。
 もしかしたら、「そんなら、もういい」なんて言われるんじゃないか。そんなひどく悲しい想像までしてしまったけれど。
 幸いなことに、わたしの予感は、外れてくれた。
「違わねえ」
 吐き捨てるように言われたその口調は、少し冷たい。
 冷たいけれど。それでも、今この瞬間……
「……いいよ。わたし、トラップの彼女になっても、いいよ」
 わたしは、トラップの彼女になることができたんだと。そう思ったら、その冷たさも……気にならなかった。
「本気で言ってんのか?」
「嘘ついて……」
 どうするの、と続けようとした瞬間、唇を塞がれた。
 荒っぽく肩をつかまれて、強引に重ねられたトラップの唇。
 それは少し乾いていて、想像していたほどの柔らかさはなくて。
 でも、十分に暖かかった。
 二度目のキス。
 一度目は、何が何だかわからないうちに、一瞬触れるだけで終わったキス。
 二度目のキスは……
「っ…………」
 痛いほどに吸い寄せられた。
 唇を挟んで歯と歯が触れそうな、強引なキス。
 こぼれそうになる涙を必死に堪えた。

 トラップは、男だから――

 また蘇る、リタの言葉。
 わかってる。年頃の男の子であるところのトラップが、こういうことに興味を持ってもおかしくないってことくらい、経験してみたいって思ってることくらい、いくらわたしでもわかってるから。
 どうして女の子に声をかけるのか? ……そんなの、聞くまでもないよね。
 ――したいから――
 だったら。それに答えてあげるしかない。
 わたしが彼を好きである以上、彼に嫌われたくないと思っている以上。
 トラップの望むような付き合い方をしてあげるしか、無いじゃないっ……
 心の中でそう決意した途端、ひどく長いキスは終わりを告げて。
 そのまま、トラップはぷいっと身を翻して、部屋を出て行ってしまった。
 それが、トラップとわたしの関係の始まり。

 覚悟はしていた。
 そんな風に始まった付き合いだから。いつかこういう日が来るだろうとは思っていたけれど。
 それでも、心のどこかで期待している自分に気づいて、胸が痛くなった。
 そんなときくらいは、優しくしてくれるんじゃないだろうか――
 本気では無いにしろ。そんな風に言われることを彼が決して望んでいないにしろ。
 それでも、わたしはトラップの「彼女」なんだから。
 例え偽りでも、優しい笑みを向けてくれるんじゃないか。そんな風に期待して。
 そして、それはあっさりと裏切られた。
 部屋にわたし以外誰もいなくなったのを、トラップが狙っていたのかどうかはわからない。
 少し寒い中。かじかむ手に息を吐きかけながら、せっせと原稿を書いていたとき。
 それは、嵐のように突然始まって。そして、呆気なく終わった。
 ――バタンッ!
 突然開いたドアに、弾かれたように振り返る。
 だけど、視界にその人物をおさめる前には、わたしにはもう、それが誰なのか想像がついていた。
 こんな風に乱暴にドアを開ける人なんて、ノックもせずに突然部屋に入ってくる人なんて。
 彼以外に、いるわけがない……
 一瞬で目の前まで迫ってきた鮮やかな赤。
 至近距離に迫ってくる、明るい茶色の瞳。
 あっ、という間に。わたしはあのときと……付き合い始めたあの瞬間と同じように唇を奪われていた。
「……んっ……」
 ぐいっ、と唇をこじ開けるようにしてもぐりこんでくるのは、とても熱い、柔らかい塊。
 舌を絡め取られた。挨拶なんかじゃない、恋人同士しか交わさない深い深いキス……
 初めて経験するそれは、想像していた、甘くて暖かい雰囲気なんか微塵もなく。
 次の瞬間にはベッドに組み敷かれていた。耳に触れる荒い息と、ひどく性急にセーターにかけられた、骨ばった手。
「っ…………」
 ぎゅっ、と唇を噛み締める。
 本当ならいっぱいいっぱい頼みたかった。優しくして、もそうだけど。恋人なんだから。もっと……こんな、こんな無理やりみたいなやり方じゃなくて。
 もっと甘い雰囲気で、それらしい始まり方をして欲しい、って。そう思った。
 ねえ、トラップ。
 わたし……初めて、なんだよ?
 あなたが適当に遊んできた女の子とは違う。わたしは……誰かと付き合うのも、こんなことするのも……何もかも初めて、なんだよ?
 乱暴につかまれた胸。強引に割り開かれた脚。
 ぐいっ、と膝を曲げられて。一体自分のどこが彼の前にさらけ出されているのかがわかって……ひどく恥ずかしかったけれど。
 それでも嫌とは言えなかった。やめて、とは言えなかった。
 ……鬱陶しいって、思われたくない。
 面倒だって、思われたくないっ……!
 わたしの心をよぎるのは、ただそれだけ。「トラップに嫌われたくない」という、ただその一点だけ。
「っ……はっ……!」
 ねじいれられたのは、多分彼の指。
 細くて長い、綺麗な指だと、何度も羨ましく思った指。
 それが今、乱暴にソノ部分をかきまわしていて。
 そんな場所で受け入れたせいか。それはやけに太く、大きく思えた。
 …………っ。
 目の端に涙がにじむのがわかったけれど。何とか零れ落ちることだけは堪えた。
 トラップはわたしを見ていない。視線を向けていても。わたしが何を考えているのか、心を見ようとはしてくれない。
 彼が考えているのは、ただ一つ……自分の欲望を適度に処理してしまいたい、と。
 きっと、ただそんなことだけ。
 だって、そうとしか思えない。
「――――!!」
 ぐいっ、と、指に続いてねじいれられたのは。
 もっともっと太くて大きいもの。
 とても見る勇気は出ないけれど。それでも……それが何なのかくらいは、わかったから。
 漏れ出る悲鳴を必死に抑え、シーツを握り締めることでどうにか痛みを堪えた。
「……痛くねえのか」
 そんなわたしを見て。
 トラップがかけてきたのは、何の感情もこもってない……ただの疑問。
 せめて、その声音の中に。
 少しでも、気遣いを感じたかった。
「痛いよ」
 嘘はつきたくなかったから、正直に答えた。
 なるべく、涙が混じらないように。本当は泣き叫びたいくらい……わめきたいくらいに辛いんだってことを、悟られないように、頑張って。
「初めてなんだろ?」
「見ればわかるでしょ……?」
「……痛いなら、ちっとは悲鳴あげるとか……すればいいだろ」
「あげて欲しい? なら……あげるけど」
「…………」
「大声出したら、誰か、来るかもしれないじゃない……」
 あなたは面倒なことが嫌いなんでしょう?
 だってそうとしか思えない……
 少しでもわたしを好きだと思ってくれているのなら。大切に思ってくれているのなら。
 もっと優しくしてくれても、いいはず。そうじゃない……?
 ただ、相手をして欲しかった……欲望の処理をして欲しかった、興味を満たして欲しかった……それだけ、なんでしょう?
 だったらそれに答えるから。わたし……頑張るからっ……
 まともにトラップの目を見ることはできなかったら。
 視線をそらして、目を伏せて、つぶやいた。一言だけ。
「早くしてよ。トラップの好きにして、いいよ。わたしは、トラップの彼女なんだから」
 彼女。
 トラップはそんな風に思いたくないかもしれないけれど。
 そう名乗ることくらいは……許してもらって、いいよね?

 顔では何でもない振りをして、心でいっぱい泣いた。
 わたしの「初体験」は、こうして、あっさりと、終わった――

「……どうだった」
 全てが終わったとき。
 トラップからかけられた言葉は、たった一言だけだった。
 その言葉にどう答えればいいのかわからなかった。視線を戻せば、わたしの顔を覗きこんでいるトラップの顔がある。
 複雑な表情だった。わたしには彼が何を考えているか読み取れなかった。わたしの身体で満足してもらえたのか、喜んでもらえたのか。……抱いて、失望されなかったか。
 せめてそれだけでも知りたかったけれど。自分でそれを聞くことはできなかった。トラップのように、あっさりと聞くことなんか、絶対にできなかった。
 残酷な答えが返ってくるかもしれない――それが怖かったから。
 だからこそ。
 何のためらいもなくそんなことが聞けるトラップは、やっぱり……わたしからどう思われようと、気にもしていないんだな、と。
 冷めた頭で、そんなことを考えていた。
「どうって?」
「良かったか。嬉しかったか。……痛かったか、辛かったか」
「…………」
 だって彼の口調からは。
 感想を求める以上の意味は、読み取れなかったから。
「恋人同士って、こんなこと、するんだね」
「…………」
「もう……服着て、いい?」
「……ああ」
 ごめんね。
 本当は痛かった。辛かった。
 あなたがわたしを見てくれないのが辛かった。もうやめて、って、言ってしまいたかった。
 だけど、それを言ったら。この関係はあっさりと終わりを告げてしまうでしょう?
 だからわたしは言わない。嘘はつかないかわりに、本音も言わない……
 のろのろと服を身につけて。
 今度部屋から出るのは、わたしの方。
 ここはわたしの部屋で、先にここに居たのもわたしで……本当ならトラップが出て行くのを待つのが筋なんだろうけれど。
 一刻も早く一人になりたかったから。一人になって、トラップの見ていない場所で……思いっきり感情をぶちまけてしまいたかったから。
 だから部屋を出た。立ち上がったとき、トラップを受け入れたその場所がズキリ、と痛むのがわかった。
 もっと幸せな気分になると思ってたのに。
 好きな人と過ごす初夜……それはもっと、素敵なものだと思っていたのに。
 どうして? わたしはトラップのことが好きなのに。間違いなく好きで……今彼の彼女になっていて、それはとても幸せなことのはずなのに。
 どうして、こんな……こんな思いを、味あわなきゃいけないんだろうっ……
「パステル。どうしたんだ?」
 そんなときだった。
 部屋から出て数歩歩いた途端、とてもとても優しい声が、背後からとんできたのは。
「クレイ……」
 振り向く。そこに立っていたのは、とても心配そうな表情を浮かべた、優しい光を目にたたえたクレイの顔。
「どうしたんだ? 何だか……疲れてるみたいだけど」
 かけられた言葉に、我ながら力が入ってないなあ……とわかる笑みを浮かべる。
 安心できた。
 クレイのそんな顔を見るだけで、ホッとすることができた。
 優しさに飢えていたから。望んだ相手からはかけらも向けてもらえない。与えられるのは失望と絶望だけ……そんな状態に、わたしは思っていた以上に疲れているんだ、ってことがわかったから。
 だから素直に頷けた。トラップには見せられない本音を。
「……うん、疲れてる」
「大丈夫か?」
「あんまり大丈夫じゃないかもしれない……何だか、色んなこと考えすぎちゃって。わたし、どうすればいいのかなあ……」
「……? よくわからないけど。悩みがあるなら聞くよ。何があったんだ?」
 クレイは優しい。
 人の悩みを聞くっていうのは、とても疲れることだと思う。だって、相手が求めているのはただ聞いてもらうだけじゃない。その問題の解決に向けて、せめてヒントめいたものでも欲しい……悩みを人に相談するっていうのは、そういう意味があることだから。
 それが思った以上に重たい問題で、とても自分には答えられそうにないと思っても。一度聞いてしまったら、もう逃げ出すことはできない……そう考えると、とても勇気のいることだと思うのに。
 クレイは何のためらいもなく聞いてくれた。本当にわたしのことを、心配してくれた。
 それだけで……十分だと思えた。
「ありがとう……でも、いい」
「パステル?」
「いいの。これは、わたしの問題だから……ごめんね。クレイのことが頼りにならないとか、そんなことじゃないんだ。本当はすごく聞いて欲しい。だけど……これはわたしだけで解決しなきゃいけない問題だから。本当に、ごめんね……」
「……わかった」
 わたしがそう言うと、クレイはそれ以上しつこく聞こうとはしなかった。
 ただ、ぽんぽんと優しく肩を叩いて。
「だけど、抱えてるのが辛くなったら……いつでも言えよ」
 と。
 それだけ言って、にっこり笑ってくれた。
 ありがとう。
 その笑顔だけで……わたし、まだ頑張れるって、そう思うから。
 それだけで十分。多分、抱えきれなくなっても……相談することは、ないだろうけど。
 だって。
 もし言ってしまったら……クレイのことだもん。きっと、トラップに話を聞こうとするでしょう?
 それは駄目。できない。
 迷惑、かけたくないの。
 鬱陶しいって、思われたくないの。
 わたしは大丈夫。傷ついてなんかいない。しつこくすがったり、べたべたくっついたり……「彼女」だからって、トラップに何かを求めたりは、しないから。
 別の女の子じゃなくて、他ならぬわたしを求めてくれている。例えそれが、身体だけだったとしても。
 それだけで……十分だから。
 自分にそう言い聞かせて。
 わたしは、無理やり笑顔を返していた。

 せめて少しでも長く続いて欲しいって思った。
 我慢した。いっぱいいっぱい我慢して、少しでもトラップが望む「彼女」でいられるよう頑張ろうって思った。
 だから、せめて……その努力を認めて欲しかった。
 だけど。トラップは……
 わたしのそんなささやかな願いですら、ちっとも叶えてはくれないんだね。
 わたしはトラップの願いをできるだけ叶えてきたつもりなのに。
 わたしは、これ以上……あなたのために、何をすればよかったの?

「……別れるか」
 その日は、本当にあっさりとやって来た。
 どれくらいの時間が過ぎたんだろう。少なくとも、そんなに長くはなかったのは事実だった。
 何度彼に抱かれたかわからない。何度唇を重ねたかわからない。
 だけど、どれだけ我慢を重ねても。一度だって、わたしが望む「優しさ」はもらえなかった。
 与えるばかりで何も与えてもらえない関係。
「別れるか、俺達」
「…………」
 それでも良かったのに。わたしは、トラップと付き合っている……そう胸を張って言える、たったそれだけのことで満足しようって決めていたのに。
 そんなことも許されないんだね、わたしには……
「……そう」
「…………返事は?」
 ゆっくりと、トラップが歩み寄ってきた。
 わたしが腰掛けていた机の横。ちょうど窓の正面にあたる位置にもたれかかって。
 切れ長の目が、わたしを見下ろしていた。
 返事。それは、「別れよう」に対する返事、だよね?
 ここで、わたしはあなたの望む言葉を言えばいいんだよね? そうすれば……関係は終わるにしても。せめて……嫌われずには、すむよね? きっと。
「トラップがそうしたいのなら、いいよ」
「それだけか?」
 わかっていたから。
 トラップがわたしの身体に飽きるまでの関係だってことは、わかってたから。
 彼は、他の女の子に対するのと同じように、適当に気楽に相手をしてくれる相手として、わたしを望んだ。そして、もうわたしじゃ満足できなくなった……それだけのことだって、わかってるから。
 だから、泣いてすがったりなんか、しないよ。
「他に何を言って欲しいの? トラップがそうしたいんでしょう? だったらそう言うしかないじゃない」
「……何とも思わねえのか?」
「何を?」
「嫌だ、とか。どうして、とか。思わねえのか、聞かねえのか?」
「何言ってるの」
 きっと、彼は驚いているに違いない。
 他の女の子達にも、同じように何度となく別れを告げてきたんだろう。そして、そのたびに、「嫌だ」「別れたくない」って泣かれて、うんざりしてきたんだろう。
 わたしは他の女の子と違うよ。
 他の女の子なんかより……ずっとずっとあなたのことを思ってる。そして、あなたのことをわかってる。
 どうして、そんな簡単なことに……気づいてくれないのよっ……!
「わたしが何を言ったって、トラップは自分の考えを変えるような人じゃないじゃない」
 鬱陶しくすがりついたって、嫌われてうるさがられて、そして結局終わってしまう関係。
 それくらいなら。せめて、別れた後も……見つめるくらいは、傍にいることくらいは許してもらえる、そんな関係でいたい。
 好かれようなんて思わない。「好き」って気持ちであなたを縛りたくない。ただ望むことは、「嫌われないこと」……ただそれだけ。
「いつだってそうだったじゃない。わたしが何をどう言ったって聞かないじゃない……だから何も聞かないよ。今まで彼女でいさせてくれて、ありがとう」
「…………」
 最後の言葉だけは、本音だった。
 一瞬だけでも……トラップの「彼女」と名乗れて嬉しかった。
 そう名乗ることで、わたしはトラップを自分だけのものにできたような気になれた。「ただの仲間」じゃない、「特別な相手」になれたんだって、そう思えたから。
 嬉しかったんだよ? 辛くて悲しくて寂しくて……いっぱいいっぱい泣いたけれど。それでも、確かに嬉しかったんだよ?
 だから……ありがとう。
 開いた窓から、強い風が吹き込んできた。
 赤い髪がかき乱されて。それを鬱陶しそうにかきあげながら……
 トラップは、ひどく冷たい目で、わたしを見下ろしていた。
 ぞくり、と、背中が震えた。
 わたしはトラップの望む通りの対応をしたはずなのに。こう答えることが、彼の一番の理想の展開だったはず、なのに。
 どうしてだか……何か、致命的な間違いを犯してしまったような、そんな気に、なった。
 時間がゆっくりになったような、そんな気がした。
 わたしの目の前で、トラップは……ゆっくりと、乱れた髪に手を伸ばした。
 するり、と解かれたのは、彼の髪をいつも束ねていた、黒いリボン。
 ふわり、と、赤が広がった。その瞬間……
「やっ……!」
 がたんっ!!
 目で追いきれなかった。一瞬、何をされているのかわからなかった。
 次の瞬間……わたしは、両腕を、背中側にねじりあげられていたから。
「やっ……痛い、痛いってば! トラップ……何、何するの、よっ……!!」
 ずきんっ、と肩が痛んだ。
 無理な格好を強いられて、涙がにじんだけれど。たまらず漏らした苦情は、静かに無視された。
 どんっ、と肩を小突かれる。立っていられなくて、膝が崩れた。
 そうなって初めて、わたしは、いつの間にか両腕を縛り上げられていること……ついさっきまで、彼の指先で踊っていたリボンが消えていることに、気づいた。
「トラップ……?」
 ぐいっ、と後ろ頭をつかまれた。
 乱暴な手つきだった。髪がひっぱられて、小さな痛みが走ったけれど。今度は、文句を言えなかった。
 視線がぶつかった。膝立ちを強いられたわたしと、立っている彼。とても高いところから見下ろされて、全身がひどく震えるのがわかった。
「トラップ……何、何するつもり……?」
 どうして。
 どうしてこんな目で見られなきゃいけないの?
 わたし……一体、何を間違えたの?
 どうして。こんな……憎しみのこもった目で、見られなきゃいけないのっ……
「トラップ……」
 薄い笑みが、広がった。
 涙でにじむ視界。そこにうつるトラップの顔は、酷く酷薄な笑いを浮かべていて。
 ただ見られるだけで凍てついてしまいそうな冷たい目で、わたしを見据えて……片手でわたしの頭をつかんだまま、もう片方の手で、ズボンのファスナーに手を伸ばした。
「……トラップ……?」
「別れたんだよな、俺達」
 冷たい声音が、耳に届く。
「おめえは俺の彼女じゃなくなった……そういうこと、だよな?」
「…………」
「だったら、もし今ここで俺がおめえを抱いたら……それはつまり、嫌がるおめえを無理やり犯した、と……そういうことになるんだよな……?」
「…………」
 何を言っているのかわからなかった。
 彼が何を考えているのか……一体何をしようとしているのか、さっぱりわからなかった。
 ただ、一つだけ確かなことは。
「うっ!?」
 頭を捕らえていた手が、顎まで滑り降りて。そして強くつかまれた。
 爪が刺さって痛みが走る。だけど、わたしの苦痛の表情なんか気にも止めず、その手は強引にわたしの口を開かせて……
「ただ黙ってされるがまま……なんてつまんねえんだよ」
 淡々とした声が響く。
「たまには、嫌がる女を無理やり犯してみるっつーのも……いいんじゃねえか? 刺激的で。なあ、そう思わねえ?」
 そう言って。
 目の前で、一気にファスナーが引き下ろされた。
 何度も抱かれてはいたけれど。その実一度も見たことがなかった……わたしを傷つけるだけ傷つけたソレが。
 予告もなく口の中に押し込まれて。苦い苦い味が、いっぱいに広がった……

 わからない。
 わたしにはわからないよ、トラップ。
 ねえ、どうしてこんなことされなきゃいけないの?
 何が……いけなかったの?
「……どーした? 動きが止まってんぜ」
 どうすればいいのかわからなかった。
 こんなことは初めての経験で。ようするにトラップが求めているのは快楽を得ることだと……わかってはいたけれど。
 どうやれば彼を満足させることができるのか。ちっとも、わからなかった。
「とらっ……」
 口の中いっぱいに押し込まれたモノのせいで、うまく言葉が出ない。
 それでもどうにかこうにか声を出すと……それが気に入らなかったのか。再び頭をつかまれた。
 喉の奥にまでソレが侵入してきて。胃の中のものがせりあがってくるのがわかった。
 駄目……吐いちゃ駄目。
 そんなことをしたら。ますますトラップに嫌われる……っ!
「んっ……んんっ……ふっ……」
「ほれ……早く動け。あんだ? やり方がわかんねえのか? そんな下手な舌使いじゃなあ、いつまで経っても俺をイかせることなんざできねえぜ?」
「…………」
 かなり苦しい体勢。膝立ちで、顎だけ上げさせられる。首が痛くなって耐え切れなくなった頃、それを見計らうかのようにトラップが腰を引き上げたから、余計に辛くなった。
 ……どう、してっ……
「んっ……んぐっ……」
「苦しいか? そうだろうなあ……俺はもっと苦しかった」
 …………?
 かけられた言葉の意味がわからなくて、そっと視線を上げる。
 ぶつかった瞳には、何だか悲しげな色が浮かんでいたように見えた。
 だけど、どうしてそんな目をしているのか……わからなかった。
 苦しい?
 トラップが? どうして?
 苦しかったのはわたしの方だった。いつだって、好き勝手に行動していたのはトラップだった。
 わたしはトラップの希望を叶えることだけを考えていたのに……それなのに、どうして……?
「いつまでこうしてるつもりだ?」
 だけど、どれだけ視線で問いかけても。
 返事は、ちっとも返ってこない。
 わたしにできたことは、ただ言われるがままに……トラップが望む通りの行動をすることだけだった。
 好きだ、と言われたときから今日まで。そうすることでしか、彼に嫌われない道を見つけることはできなかったから。
 だから、今回も。言われた通りに動いた。巧いか下手かなんてわからない。彼を満足させることができるかどうかなんてわからない。
 それでも、必死に舌を動かした。ソレはとても苦い、今まで味わったことのないような変な味しかしなかったけれど……それでも、頑張った。
 ……どうして。
 どうして、ここまでしなきゃいけないんだろう。
 こんなことまでして……わたしは、彼に嫌われたくないと、そう思ってるの?
 どうして。
 もう、いいじゃない……どうやったって好かれない、愛されない。何をどうしたって求めるものは得られない。
 それならもういいじゃない。こんな、無理をしてまで……それに一体何の意味が、あるっていうのっ……?
「んっ……んんんっ」
 口の中で、ソレが、大きく膨らむのがわかった。
 次に何が来るか。それを理解して、一瞬逃げ出したくなったけれど。
 もちろん、それをトラップが許してくれるはずもない。
「…………!」
 口の中でほとばしる、ひどく苦い、生臭い、どろりとしたモノ。
 舌に、喉にまとわりつくような感触。その不快さに泣きたくなった。
 拘束が緩む。頭を押さえていた手が外されて、同時に、口の中からソレが引き抜かれた。
 やっと自由になった瞬間、わたしは膝から崩れ落ちていた。
 痛い。
 ごほごほと咳き込むと、鼻の奥がつんとするような独特な感覚が襲ってきた。
 変なところに入ったのかもしれない……
 気管支のあたりがひどく痛くて、涙がぼろぼろと溢れてきた。
 楽になりたい。
 背中を丸めて、必死に吐き気を堪えながら、わたしはただそれだけを考えていた。
 楽になってしまいたい。どうしてこんなことをされなきゃいけないのか。
「……どんな気分だ? 好きでもねえ男のモノの味は、どうだ?」
 …………
 好きでもない男。それは間違いだ、って言いたかったけど、言えなかった。
 喉が痛くて、うまく声が出せなくて。
 でも、どれだけ苦しんでも、いたわりの言葉は降って来ない。
 どこまでも意地悪な声。何を望んでいるのかさっぱりわからない言葉。
「…………どう……して……」
 ごほっ、と息を吐いて、どうにか声を絞り出すと、唾液と一緒に白いものが滴り落ちるのがわかった。
「どう、して? どうして……こんな……」
「どうして? そうだな……」
 顎をつかまれる。
 わたしの目を覗きこんで。トラップは、ただ淡々と告げた。
「綺麗なものを見ると汚したくなる。俺はガキだから。どうしようもないガキだから……ただそれだけのこった」
 …………
 何よ、それ……
「……どういう、意味……?」
 わからない。
 わたしはトラップのことをわかっているつもりだった。彼の望みなんか全部見抜いていて……そしてその通りに行動してきたと、今までずっとそう思ってきた。
 だからこそ、与えられる理不尽な苦痛が辛かった。
 けれど。
 今、この瞬間。その言葉を聞いた瞬間。
 わたしはわからなくなった。トラップのことが……今までわかっていると思っていたことも全てひっくるめて、全くわからなくなった。
 綺麗なもの。綺麗なものって……一体、何……?
 無言で問いかける。だけど、トラップはそれに答えるつもりは無いみたいだった。
 脇に手が差し入れられた。そのまま、彼の細腕が、易々とわたしの身体を持ち上げる。
 無理やり立ち上がらされた。そうして押し付けられたのは、窓。
「やっ……」
 さっきと同じように、また後ろ頭をつかまれる。額に感じる冷たさ。視界に広がる、外の光景。
「おめえばっかりに奉仕させちゃ、わりいからな」
「…………」
「今度は俺が奉仕してやるよ。ああ、大声出すなよ? 聞こえるかもしんねえし……まあ、部屋鍵かけてねえからな。誰が入ってくっかわかんねえんだけど」
「なっ……やっ……!」
 誰かに見られるかもしれない。
 今、わたし達がしていることを……パーティーの皆に知られるかもしれない。
 そう気づいた瞬間、背筋がゾッとしたけれど。どれだけもがいても、トラップの手が緩むことはなかった。
 どうして。どうしてっ……!
 どうしてこんなことされなきゃいけないの。ねえ、トラップ。何で……
 わたし、あなたに嫌われないようにって、それだけを考えてたんだよ……? あなたの望みを叶えようって。何も望まない。ただそれけを、考えてきたんだよ……
 なのに、どうして……こんなこと、するのっ……!
「抵抗してもいいぜ……終わるのが遅くなるだけだ。大人しくしてりゃあ、すぐに終わる。ま、どっちを選ぼうと、それはおめえの自由だけどな……長く楽しみてえのか、それとも?」
 額に触れるガラスよりも、よっぽど冷たい言葉がとんできた。
 トラップの手が伸びてきて、スカートをまくりあげられる。
 下着の中に無遠慮に忍び寄る指。もう何度だって経験してきたけれど。いつまで経っても慣れることがない……痛みに近い刺激。
「っ……あっ……!」
 ひときわ敏感な部分を乱暴につまみあげられた。指先でこするように、爪でひっかけるように。
 血がにじむんじゃないか。そんなことを本気で心配してしまうような、荒っぽい動き。
「……トラップ……」
「…………」
 回数を重ねるごとに、自分の身体が敏感に反応するようになったのはわかっていた。
 今回も。
 心はちっとも潤っていなかったけれど。指が動くたびに、その部分が妙に湿った音を立て始めて。
 それは、トラップを受け入れる準備ができたっていう証。
 ……心と身体は違うんだね。
 わたしのことなんかちっとも好きじゃないのに、何度だってわたしを抱けるトラップ。
 抱かれている間、嬉しさよりも痛みや辛さの方がずっとずっと強く感じているのに。それでも反応しているわたしの身体。
 不思議だね……どうして。
 愛しあう二人がする行為のはずなのに。こんなにも……空しいんだろう?
 ずんっ!
 背後から、衝撃が襲ってきた。

 初めてのときほどじゃないけれど。それでも、痛みを伴う挿入。
 こういう体勢でしたのは初めてだった。ガラスに映るわたし自身とトラップを見て、それが酷く恥ずかしいポーズであるのはわかったけれど。
「っ……あっ……」
 小さな、小さな動き。
 いつもの彼らしくもない、酷く繊細な動き。
 それでも確かに快感を覚えているわたしの身体。
 思わず声が漏れた。同時に、トラップの両手が、顔の脇に伸びてきて……そのまま、ガラス窓に置かれた。
 逃げ場を封じられた。自由に動くことすら禁じられた……トラップはそんなつもりじゃなかったかもしれないけれど。とっさにそんなことを感じてしまう。
 最初から最後まで、わけがわからないことだらけだった。
 かけられる言葉は意地悪なものばかり。小さな動きでわたしを翻弄したかと思ったら。突然に身体を持ち上げられて、大きな刺激の波に溺れそうになった。
 がくがくと身体を揺らされる。いっそ気を失ってしまいたかった。それくらいに辛かった。
 ……どうしてっ……
 ねえ、お願いだから教えて。どうしてこんなことをするのか……
「ひあっ……んっ……」
 せめて、せめて教えてよ……あなたが何を考えているのか、教えてよ!
 胸中で絶叫した、そのときだった。
「……もうっ……」
 突然届いたのは……今まで聞いたこともないような弱々しい声。
「我慢できねえんだよ……俺はガキだからな。おめえと違ってガキだから。欲しいものが自分のものにならねえのなら。力づくでも手に入れてやりたくなる。手に入らないのなら……」
 がくがくと身体を揺らされて、ぶれる視界に気分が悪くなってきたけれど。
 それでも、必死に顔をあげた。いきなり弱気な言葉を吐き始めた彼の真意がわからなくて。
 ガラスに映るトラップの目は……
「壊してやりたく、なる……」
 絶望に染まっていた。
 ……どう、して……?
 疑問を口にしようとした瞬間、身体を下ろされた。
 そして次の瞬間には、さっきよりもずっと激しい動きで背後から突き上げられて。「くはっ」と息が漏れた。
 どうして?
 どうして、そんな目をしているの……?
 そんな顔をしたかったのはわたしの方だった。トラップは自分の意思でこんなことをしているはずなのに。
 どうして……あなたが苦しむの? 苦しいのなら……どうして、こんなこと、するの……?
 ……どぐんっ!
 胎内で、トラップが震えた。
 溢れるのはトラップの欲望。何度も何度もわたしの中で放たれた、彼の本音。
 力が、抜ける。
 トラップの膝が崩れ落ちて、拘束が解けて。姿勢を保つことができなくて、ずるずるとその場にへたりこんだ。
 荒い息の音が響く。
 …………
 ぐっ、と手を握り締める。
 もう駄目……
 さっきも感じた、絶望に満ちた思い。
 それが、胸をいっぱいに満たすのがわかった。
 もう駄目。わけがわからない。どうすればいいのかわからない。
 嫌われたくないとだけ思って、ここまで頑張ってきたけれど……
 だけど、もう無理。これ以上頑張ったら……わたし、おかしくなっちゃいそうだからっ……
「……どうして……」
「……んあ?」
「どうして……こんなこと、するの?」
 静かに問いかける。しばらくの間、沈黙だけが流れた。
「別れる、って言ったのは……トラップ、じゃ……」
「…………」
「どうしてっ……」
 答えてくれないかもしれない、とは思った。いつもと同じように。
 だけど、今回は引き下がらないつもりだった。
 トラップの言うことは何もかもが意味不明で。だけど確かなことは……これだけのことをされる、ってことは。どうやら、わたしはトラップに完全に嫌われてしまったみたいで……
 わたしの努力は無駄な結果に終わってしまった。もうどうあがいたって、彼の傍にいることはできそうもないから。
 失うものが無いんだから……どうなったっていい。
 そんな捨て鉢気味な思いでつぶやいた疑問。
 だけど。
「何度も何度も言ったじゃねえか……」
 答えは、返ってきた。
 とても静かに、淡々と。
「俺はガキだからな」
「…………?」
「おめえと違って、ガキだからなっ……」
 …………
 ガキ……それは、さっきも言われた言葉だった。
 だけど意味がわからなかった言葉。そして、今回も。わかりそうには、なかった。
 どう答えればいいのかわからないなら、黙り込むしかない。そんなわたしを見て、トラップは、言った。
 今までで一番、わけのわからない言葉を。
「パステル」
「…………」
「俺を憎めよ」
「…………?」
 憎め。
 その言葉の意味を知らないわけじゃない。だけど、どうしてここでそんな台詞が出てくるのか。
 ぽかんと彼を見つめていると。トラップの顔が、今にも泣きそうなものに変わった。
「憎めよ。俺を憎め。一生忘れねえと言えよ。嫌いだ、大嫌いだってそう言えよ! 俺はっ……俺は、なあっ……」
 それまでの冷たい表情とは違った。
 トラップらしくもない、本音を隠すのがうまいポーカーフェイスの彼らしくもない、激情に溢れた言葉。
「俺は、おめえにとって特別な男でいてえんだよ……ただの仲間じゃねえ、特別な対象として……見られてえんだ……愛してくれねえのなら。せめて、憎んでくれよっ……」
「…………」
 ぐいっ、と肩をつかまれた。
 まともに視線がぶつかる。その瞬間。
 わたしは、初めて見た。彼の目の中に、すがるような光を。
 わたしを、求めてくれる光を。
 ……特別な男で、いたい?
 特別な対象として、見られたい?
 トラップの口から漏れたのは、わたしの願いと全く同じものだった。
 わたしもずっとそう思っていた。だからこそ、「彼女」と名乗れて嬉しかった。
 そして……トラップも、そう思っていた?
 愛してくれないのなら……憎んで欲しい?
 それは、つまり。
 わたしに愛されたかった、と……そういうこと?

 ――そんなタイプの男に限って、いざ一人の女の子に本気になったとき……それまでの反動で、ぼろぼろになるまでのめりこんだりするもんだけどね?――

 耳に蘇る、リタの最後の言葉。
 ぼろぼろになるまで、のめりこむ……
 顔を見る。絶望に染まった、ぼろぼろになるまで傷ついた、そんな表情を浮かべるトラップを。
 ……わたしは、とんでもない思い違いをしていたの?
 トラップが、わたしに望んだのは。
 他の女の子に求めているのとは、全く違ったもの……そういうこと、なの……?
「……パステル?」
「トラップは」
 そうと気づいた瞬間。
 笑顔が漏れるのが、わかった。
 馬鹿な勘違いをした自分がおかしくて。一人で勝手に思い込んで、勝手に傷ついて、勝手に泣いて……勝手に絶望していた自分が、どうしようもなくおかしくて。
「トラップは、束縛されるのが嫌いだって思ってた……」
「…………?」
 わたしの言葉を聞いて、トラップが浮かべたのは、不思議そうな表情。
「いつだって、トラップは自由でいたいんだって、そう思ってた。親衛隊の女の子達ができたときとか……適当にナンパしていたときとか。トラップ、いつも顔では笑っていたけど……相手が本気になったら逃げたよね? いつも言ってたよね。パーティーなんて、いつかは絶対解散するもんだ。いつまでも一緒にいれるなんて、そんな甘いこと考えるなって……」
「…………」
「縛られるのが嫌いなんだって思ってた……仲間だから、家族だから、恋人だから……そんな特別な関係だから、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないって、決め付けられるのが……嫌なんだって。そう、思ってた……」
「…………」
 トラップ、言ったよね? 愛してくれないのなら憎んでくれ。どんな形でもいいから、ただの仲間っていう関係から抜け出したいんだ、って。
 わたしはずっとずっと前から、トラップのことを特別な対象として、見てた。
 だけど、それはあなたにとっては迷惑な思いに違いないって、そう思い込んでた。
 何もかもわかっているつもりで。わたしは、ちっともわかってなかった……
「だから……わたしは……」
 何度も何度も流して、枯れてしまうんじゃないか、と心配した涙が、また溢れた。
 わたし達は……どこで、どうして、間違ってしまったんだろう。
 素直に言えばよかったんだ。付き合っていたんだから。恋人同士だったんだから。
 トラップの言葉を信じて素直に本音を言えばよかったのに。ただ彼を……信じればよかった。
 たったそれだけのことだったのに。
「トラップを縛りたくなかった。だから……自分を殺してた。嬉しくても、悲しくても、痛くても……トラップの邪魔にならないようにしようって……そう、思ってた」
「…………」
「鬱陶しいって思われたくなかった……嫌われたく、なかった……みっともなくすがりついて、迷惑かけたく、なかった……だから、わたし、はっ……」
「……それは」
「だけど、それは間違ってたの? わたし……トラップを傷つけないようにして……逆に、傷つけてた? ねえ……トラップ。わたし、あなたに……すごく、酷いこと……してたの?」
 結局のところ、始まりは全てわたしの思い違いにあったんだと。
 話しながら、そんなことに気づいていた。
 トラップは「好きだ」って言ってくれた。あの彼の性格を考えれば……その言葉が本音だったとするならば、それを伝えるのにはとてもとても苦労したんだろうに、ってわかる。
 それを本気に取らなかったのはわたしだった。勝手に「本気のわけがない」って思い込んで、素っ気無い態度を取り続けたのは、わたし。それがトラップの望みなんだと思い込んだのは、わたし……
 それがトラップを傷つけた。絶望の淵に追い落として行ったんだと。
 そう気づいた瞬間、言いようのない罪悪感が、胸いっぱいに広がった。
「だったら、謝るからっ……あやま、るから……」
 手が伸びてきた。
 熱を持つわたしの頬に、ひんやりとした手が、触れた。
 そして。
 今までとは違う……とてもとても優しい、わたしがそれまで理想としていたキスが、ゆっくりと降りて来た。
「……違う」
 ゆるり、とわたしの唇をなめて。
 トラップは、低い声で、言った。
「束縛されんのが嫌いなんじゃねえ……他の奴らじゃあ、俺を束縛することなんか、できねえんだ。そいつがどれだけ望んだって。俺を完全に束縛することなんか、たった一人にしかできやしねえ」
「……どう、して?」
「決まってんだろ? 俺は、優秀な盗賊だからな……」
 手が、背中に回される。
 優しく抱き寄せられる。罪悪感で冷えた身体が、ゆっくりと暖められるのがわかった。
「俺を束縛できんのは、本当に価値のあるお宝だけだ」
「…………」
「おめえ、だけだ……」
「……わたし?」
「ああ」
 宝。
 トラップにとっての、本当に価値のある宝。それが……わたし?
「俺を縛ってくれ」
 両腕でわたしを縛り付けて。肩に顔を埋めるようにして、トラップは囁いた。
「おめえの鎖で、がんじがらめに縛ってくれよ……もう二度と、おめえから離れられないように……」
 腕に力がこめられる。
 束縛。トラップが忌み嫌っていたはずのもの。
 それを求められているのだと気づいて……よどんだものが溜まっていた心が、少しずつ晴れていくのがわかった。
 どれだけ望んでも、わたしは彼に何も与えてもらえないと思っていた。
 けれど違った。トラップは最初から、わたしに特別なものを与えてくれていたんだと。ただわたしがそれに気づいていなかっただけなんだと……ようやく理解して。
 何にも囚われない彼を、唯一縛り付ける権利。
 トラップに愛情という名の鎖でがんじがらめに縛り付けられていたわたしが、もっとも欲しかったもの……
 それに気づいて、わたしは、再び涙を流していた。悲しみも苦しみも混じっていない、純粋な喜びの涙を。
 見た目通り細い、それでも意外なくらいたくましい胸に体重を預ける。とくん、とくんと伝わる鼓動が……今この瞬間が現実であることを、決して夢じゃないってことを、教えてくれた。

 ――もう一生、あなたを離さない――あなたから離れない――


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